第1話:敷かれた線路と、空っぽの通知票
赤青の芯が更紙を擦る、乾いた摩擦音だけが机の上に落ちていた。
机の右隅には、四隅を几帳面に揃えた模擬試験の解答用紙が山を成している。返却されたばかりの薄い紙の余白には、機械的なフォントで印字された三桁の全国順位と、志望校判定の太い「A」の文字。そしてそのすぐ横には、丸つけを終えた母が赤ペンで走り書きした、定規で引いたように鋭い文字が躍っていた。
『ミスゼロを徹底すること。油断は転落の始まり』
「歩実、見せてごらんなさい」
背後から伸びてきた母の指先が、私の肩を掠めて答案を引き寄せる。
手入れの行き届いた淡い桜色のマニキュアが、減点されたわずか二点の記述問題を爪の先で叩いた。コツ、コツ、と硬質な音が鼓膜を打つ。
「この二点、もったいなかったわね。問題文の指示を最後まで落ち着いて読んでいれば、落とすはずのない場所よ」
母の声は決して荒げられない。静かで、どこまでも穏やかで、だからこそ逃げ場のない冷気を孕んでいた。
「先生も仰っていたでしょう。あなたのように飛び抜けた才能がない子は、減点を徹底して防ぐしかないの。ここで気を緩めたら、今までの積み重ねが全部無駄になるのよ」
「……うん。ごめんなさい」
私は頭を下げ、太ももの上で固く組んだ自分の手を見つめた。
鉛筆を握り込みすぎたせいで、中指の第一関節にはすでに青黒いタコができている。けれど、その皮膚の表面は驚くほど白く、血の気のない陶器のように冷え切っていた。
胸の奥を通り抜けていくのは、目標に近づいた達成感などでは決してない。
ただ、底冷えのする隙間風のような感覚――また一つ、落第を免れた、というだけの安堵だった。
私は何点取れば、この部屋で息をしていいと許されるのだろう。
満点を取ったところで、それは「マイナスを出さなかった」というゼロ地点の証明にすぎない。もし次の模試で数字が一つでも下がれば、母の微笑みは強張った沈黙に変わり、リビングの空気は息もできないほど張り詰める。その気配を素早く察知し、先回りして期待される正解を差し出すことだけが、私がこの家で生き延びるための唯一の呼吸法だった。
幼い頃から、世界はあらかじめ精密に引かれた複線軌道だった。
歩くべき駅の名は、名門幼稚園の面接、私立中学の受験番号、県下トップと呼ばれる進学校の偏差値として、あらかじめ一枚の路線図に書き込まれていた。私はその上を脱線しないよう、ただ車輪の軋みを抑えながら走るだけの、窓のない列車だった。
「歩実ちゃんって、本当にブレないよね」
翌朝、下校途中の通学路で、並んで歩く由奈が言った。
仕立ての良い紺色のブレザーのポケットに両手を突っ込み、由奈は軽やかにローファーを鳴らす。
「私なんてさ、昨日の英語でマークミスして偏差値三つも落としちゃった。ママには塾のクラスが落ちたらスマホ没収って言われてるし、最悪。歩実はいいよね、ずっと一番前の車両に乗ってるみたいで」
由奈の横顔には、世渡りの巧さと、その裏側に張り付いた焦燥が透けていた。彼女もまた、周囲の大人が貼る値札の重さに慣らされている一人だった。だが由奈は、その値札の数字を競い合うゲームのルールを疑わず、むしろその枠組みの中で誰よりも高く評価されることを楽しんでいるようにも見えた。
「……別に、乗ってるだけだよ」
私は低く答えた。湿った初冬の風が、マフラーの隙間から首筋に吹き込んでくる。
「乗ってるだけで進めるなら、それが一番賢いじゃん。変に道草食って落ちこぼれたら、誰も拾ってくれないんだからさ」
由奈は何の悪気もなく笑い、コンビニのガラス扉を押した。
自動ドアのチャイムが鳴り響く。陳列棚に整然と並ぶ雑誌の表紙、色とりどりのスナック菓子、レジスターの無機質な電子音。そのすべてが、誰かが計算し尽くした「正解」の配置に従って息を潜めている。
私はふと、自分の手のひらを目の前に掲げてみた。
机に押し付けすぎて黒鉛で汚れた小指の腹。ペンの重みしか知らない、柔らかく無力な手のひら。そこには確かに、私が費やしてきた時間の痕跡が刻まれていた。けれど、その皮膚の奥で脈打つ血液の温かさが、どうしても自分自身のものだとは思えなかった。
私の手は、母の不安を宥めるために文字を書き、試験の採点機に適合するために記号を塗りつぶす。私自身の意志で何かを掴んだことなど、生まれてから一度たりともないのではないか。
冬の夕暮れは足が早い。踏切の警報機が甲高い音を立てて鳴り始め、遮断機がゆっくりと視界を遮った。
目の前を、銀色の通勤電車が轟音を立てて通過していく。窓の向こうには、吊り革を掴んで押し黙る無数の大人の顔が、残像となって流れていった。誰もが疲弊し、誰もが規則正しい運行表の一部として運ばれている。
あの列車の行き先は、私が目指している場所と何が違うのだろう。
通知票の五段階評価の数字をいくら「5」で埋め尽くしても、私の輪郭は透けたままだった。中身のない硝子瓶のように、世間の賞賛というラベルばかりが増えていき、内側はからからに乾いた空洞が広がっている。
遮断機が上がり、冷たい静寂が戻ってきた。
「歩実、行こ」
前を歩く由奈が振り返る。
私は曖昧に頷き、再びアスファルトの白線の上に足を乗せた。外れないように、踏み外さないように、視線を足元だけに落としながら、決められた終着駅へと歩き続けた。




