第51話 カナン、日本に立つ
現代へ戻って三日目の夜だった。
蔵の奥で、あの通知音が鳴った。
湊は反射で立ち上がる。
スマホ画面には短い一文だけが出ていた。
『開けろ』
「雑」
でも送り主は一人しか思い浮かばない。
蔵へ駆け込むと、木扉の紋が薄く青く光っている。
旧鍵板がじり、と熱を持った。
向こう側から何かがぶつかる音。
「おい、湊! 早くしろ!」
「やっぱりカナンか!」
急いで扉へ旧鍵板を噛ませる。
次の瞬間、冷気が吹き込み、赤茶の影がほとんど転がるようにこちら側へ飛び込んできた。
カナンだ。
外套は泥だらけ、肩に浅い裂傷、息は荒い。
だが手にはしっかり大剣を持っている。
「うわ、そのまま来た」
「感想が軽い」
「いや、生きててよかった」
それを聞いた途端、カナンは一瞬だけ目を伏せた。
本当に一瞬だけ。
すぐいつもの仏頂面に戻る。
「追手は撒いた。だが長く扉は開けられない」
「リゼリアは?」
「生きてる。外出は減ったが、まだ折れてない」
「ただ、王都の外でも動き始めた。港にも北寄りの荷と兵が増えてる。向こうは、お前が消えたあとも止まってない」
その一言で、胸の奥の重石が少しだけ軽くなる。
扉の光はすぐに細り、蔵の中はまた日本の暗さに戻った。
静かだ。
遠くで走る車の音だけが聞こえる。
カナンは蔵の中を見回した。
柱、木壁、天井の蛍光灯、積まれたコンテナ箱。
その全部へ、戦場を歩くときみたいな目を向ける。
「ここが、お前の世界か」
「そう。ようこそ日本」
「狭いな」
「初感想それ?」
「扉の中にしては、だ」
そこはまあそうかもしれない。
外へ出ると、夜の庭に防犯灯が灯っていた。
街灯の明かり、隣家の窓、アスファルトの道、自動販売機の赤い光。
カナンは一歩ごとに視線を動かす。
「火も焚いてないのに明るい」
「電気だから」
「でんき」
「……説明長くなるから後」
門の外を車が一台通り過ぎた。
ヘッドライトが庭を掃く。
その瞬間、カナンの体がすっと沈み込む。
完全に臨戦態勢だ。
「待って待って待って、敵じゃない」
「光る鉄の箱が走った」
「車。普通」
「普通の基準がおかしい」
確かに。
異世界から見ればそうだ。
とりあえず怪我を見ようと、湊は母屋へ彼女を連れ込んだ。
玄関で靴を脱がせようとして一悶着ある。
「ここで装備を外すのか」
「家の中だから」
「無防備すぎる」
「日本の家はそういう文化なんだよ」
「怖い文化だな」
文句を言いながらも、結局カナンは靴と脛当てを外した。
畳を踏んだ瞬間の顔が、少しだけ面白い。
「柔らかい」
「第一声それでよかった」
裂傷は幸い浅かった。
消毒液を見せたときは本気で怪しまれたが、ガーゼとテープで傷を押さえるとさすがに納得したらしい。
「薬師がいないのに処置が早いな」
「この世界、そういうのだけは量産が得意なんだよ」
そこまで言って、湊は少し止まる。
量産。
規格。
誰が使っても一定水準で回る仕組み。
転移炉を直すより前に、この世界から持ち帰れる発想はそこにあるのかもしれない。
カナンは水を一口飲み、ようやく深く息を吐いた。
「殿下は、お前にこれを渡せと言っていた」
懐から小さな封を出す。
開くと中には紙片が一枚だけ。
『戻るまで、生き延びてください』
リゼリアらしい字だった。
飾り気のない、まっすぐな文。
湊は紙を見つめたまま、小さく頷く。
「うん。そっちこそ、って感じだけど」
カナンが湯呑みを置く。
「私は追ってきた」
「知ってる」
「だから、こっちでも働け」
「来たばっかのS級冒険者に言われる台詞かな、それ」
「お前が止まると、私も困る」
少しだけ、言い方が不器用だった。
でもそれで十分伝わる。
王都から切り離されても、完全に一人になったわけじゃない。
目の前には赤茶の髪の護衛がいて、向こうには痩せた王女がまだ立っている。
なら、こっちでやることは一つだ。
負けたままの設計図を、勝ち筋のある形へ引き直す。
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