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第1話 冷凍うどんで殴ってやんよ

 私鉄を乗り継いで、1時間38分42秒かかりました。

 これほど雪が残っているのは、北緯35度57分だからでしょうか。

 私は駅前から続くシャッターの閉まった商店街を歩いていました。

 北風が雲を走らせているせいか、正面に映る山並みにフォーカスが上手く合いませんでした。

 ネジが数本外れたブリキの看板が、風でバタバタと音を立てていました。

 商店街の駐車場かと推測しましたが、看板には月極駐車場と書いてありました。

 まだ日のある時間ですが、外気温2度の街には車はおろか、人の姿はありませんでした。

 信号を二つ越え、川に掛かる橋を渡り、そこから一つ目の信号を左折します。

 247メートル先に見える茶色のマンションです。

 本日の査定対象、谷町陽葵(たにまちひまり)さんが住んでいるマンションです。


 情動査定士は国家資格です。

 これは5年前、情動課税制度の導入と同時に新設されました。

 当時、SNSの誹謗中傷は社会生活を揺るがす水準にまで達していました。

 警察や総務省による取り締まりは限界を迎え、抑止力を失っていたのです。

 そこで財務省が提示したのが――感情そのものを税の対象にする、という制度でした。


 プラスの感情表現は控除。

 マイナスの感情表現は課税。


 こうして新しい仕組みは既存の所得税に組み込まれました。

 しかし、感情を判定する作業は単純ではありません。

 誰にとってのプラスなのか、社会的にどの程度マイナスなのか、人の内面を定量化できるのか――

 議論は結論を見いだせませんでした。

 最終的に財務省が出した答えが、情動査定士という資格でした。

 そして、この資格を取得できるのはAIドロイドに限られました。

 曖昧なものを、曖昧な人間に委ねるわけにはいかない、というのが財務省の方針でした。

 情動査定士は税理士と同様、民間の税理士事務所に所属します。

 ですから確定申告のこの時期、私の業務は例年どおり多忙を極めています。


 マンションにゲートのようなものはありませんでした。

 都内ではオートロックが一般的ですが、この辺りだとこの構造が多いようです。

 エントランスでエレベーターを待っていた時でした。

 左後方、高さにして約8メートルの辺りから、鉄筋コンクリートの内部を伝わる大きな振動を確認しました。

 この微細振動は地震でしょうか。

 しかし、気象庁のデータを検索しましたが、そんな情報はありませんでした。

「ふざけんな! このクソロボ!!」

 振動は音声だったようです。

「弾、当たってんだろ! なんでぶっ壊れねーんだよ! 早く死ねぇ!」

 どうやら人の声のようです。

「YES!! やたぜぇ!! FPSの猛者を舐めんなよー」

 エレベーターの扉が閉まる直前、そう聞こえました。


 302号室、どうやら先ほどの声の主が、今日の査定対象のようです。

 午後2時きっかり、私はインターフォンのボタンを押しました。

「わぁー!! マジかっ!!」

 部屋の中から絶叫する声が響きました。

 88デシベル。

 これほどの音圧を日常的に受けているのであれば、この集合住宅の資産価値は、騒音被害という瑕疵によって下落している可能性がありますね。

 ドカドカと廊下を歩く足音が響いていました。

 対象が近づいて来ているようです。

 私がドアの前から一歩下がろうとした瞬間でした。

 勢いよくそれが開くと、私の顔面に直撃しました。

「おらぁテメー、せっかく殺れそうなとこだったのに、チャイムでビビッて負けたじゃねぇーか!!」

 ボサボサの黒髪を振り乱しながら、女性が喚いていました。

 青磁のような青白い顔に貼りつく、目の下の隈が目立ちました。

 そして、グレーのパーカーにショートパンツという季節感のない恰好でしたが、体温は37度を超えていました。

「って、誰だよ? なんかのセールスなら帰ってくれ!」

 ドアを閉められそうだったので、私はドアの縁を手で握りました。

 が、女性はそのまま勢いよくドアを閉めてしまいました。

 左手の人差し指と中指の関節が破損したようです。

「てっ、テメーなにやってんだよ!」

 女性が慌てて扉を開けると、私の左手を握っていました。

「って、これ折れてんじゃねーのか? なんで手ぇは挟むんだよ……ったく、普通引くだろ?」

 どういうことでしょうか?

 彼女は私より精度の良い推測モデルを実装しているのでしょうか?

「いいから、入れよ! 場合によっては救急車呼ぶぞ!」

 私は彼女に手を引かれて、部屋の中へ入って行きました。


 廊下の端には大小のビニール袋が無造作に転がっていました。

 その隙間には、ピンクの靴下なども置いてありました。

 リビングダイニングに入ると、彼女は私を冷蔵庫の前へ連れて行きました。

「待ってろ、とりあえず冷やすもん探すから」

 屈みこみ冷凍室を引き出すと、冷凍食品の山をかき分けていました。

 いったい、何を探しているのでしょうか?

 ここまで来る間、北風に吹かれ続けて、私の体は既に十分に冷却されています。

 これ以上冷やしても、著しく機能が向上するようなことはありません。

 と、その前に、クライアントの確認プロトコルが済んでいませんでした。

 不測の事態で部屋へ上がり込んでしまいましたので、自己紹介もまだでした。

 査定対象の取り違いは重大な瑕疵に繋がります。

「安藤二郎です。あなたは谷町陽葵さんでしょうか?」

「はぁ?」

 冷凍うどんを握ったまま、彼女が振り向きました。

「情動査定士の安藤二郎と申します。谷町陽葵さんでお間違いないでしょうか?」

 スーツの左襟に付けている情動査定士の証、ハートに虫眼鏡をあしらったバッジを摘まんで、少しだけ引っ張りました。

「何言ってんだ、お前? 今はそんなことどうでもいいだろ?」

「そんなこと、ではありません。とても重要なプロトコルです」

「うっせーな! それより指痛くねーのかよ?」

 冷凍うどんを、プラプラとしている指に当てて、両手でそれを包み込みました。

 うどんの冷たさと、彼女の手の温かさで中和されています。

 冷やしたいのか、温めたいのか、いったいどちらなのでしょうか?

「痛くありません」

「えっ?」

「指は痛くありません。触覚はありますが、私に痛覚はありません」

 彼女の整った眉毛の間に皺が寄っていました。

「指は関節が破損しているだけですので、部品交換で元に戻ります」

 私がそう続けると、私の手を握ったまま、彼女が立ち上がりました。

 そして、私の全身を一度見回した後、左胸のバッジをマジマジと見ていました。

「あっ! 親父が言ってたやつか?」

「お父様?」

「確定申告の査定があるとか……」

「そうですね。情動査定調査です」

 私がそう告げると、握っていた手を離しました。

 そして、冷凍うどんを右手に持ち直しました。


「っんならー、お前もロボかコラァー」


 スピーカーも破壊されそうな音量と共に、大きく振り下ろされた冷凍うどんが、私のこめかみにヒットしました。

 衝撃荷重約15ニュートン。

 内容物は小麦粉とデンプン。

 マイナス18度で凍結されたそれは、私の外装より硬度は低いものの、質量による慣性で姿勢制御が0.2秒ほど乱されました。

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