第五話 最初の一手
書斎の扉が閉まる音は、思ったよりも軽かった。
あれで終わり。
あれで関係は切れた。
血縁というものは、もう少し重たい音を立てるものだと思っていたのだけれど。
「……案外、簡単なものですわね」
廊下に一人、呟く。
返事はない。
当然だ。
けれど今は、それでいい。
静かなほうが考えやすい。
わたくしは歩き出した。
向かう先は決めている。
自室ではない。休む気はない。
まずやるべきことは一つ。
――確認。
味方を数えない。
あの男はそう言った。
だから、逆に。
“誰が敵か”を確かめる。
屋敷の中はいつも通りだった。
灯りも、足音も、空気も。
何一つ変わっていないように見える。
だからこそ、違和感が際立つ。
変わっているのは、わたくしの立場だけだ。
廊下の角を曲がる。
使用人たちがすれ違う。
目を伏せる者、見て見ぬふりをする者。
わかりやすい。
噂はすでに回っている。
断罪された令嬢。
公爵家にとって不要になった駒。
それでも、まだ屋敷にいる存在。
中途半端で、一番扱いづらい立場。
――だからこそ、使える。
わたくしは階段を下りた。
目指すのは、裏方の執務室。
表に出ない書類が集まる場所。
そして――
“誰が何を動かしたか”が一番よく見える場所。
扉の前で止まる。
ノックはしない。
そのまま開けた。
「失礼いたします」
中にいたのは、帳簿を整理していた中年の執事だった。
一瞬、手が止まる。
すぐに立ち上がり、礼をする。
「レティシア様」
声は平静。
だが、ほんのわずかに遅れがあった。
それだけで十分だ。
「夜分に申し訳ありません」
わたくしは穏やかに言った。
「少し、確認したいことがありまして」
「確認、でございますか」
「ええ」
ゆっくりと室内に入る。
机の上の書類に視線を落とす。
整っている。
整いすぎている。
乱れがないのは優秀な証だが、同時に“痕跡を消している”可能性もある。
「今夜、学園へ向けての連絡はありました?」
「……いえ、特には」
嘘。
間があった。
わたくしは微笑んだ。
「そう。では、こちらはご存知かしら」
袖から紙片を取り出す。
机の上に置く。
執事の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それだけで、十分だった。
「それは……」
「王太子側近室へ届けられた連絡票ですわ」
「そのようなもの、私どもは――」
「“私ども”ではなく、あなた個人に聞いていますの」
言葉を被せる。
逃げ道を塞ぐ。
彼は口を閉ざした。
選んでいる。
答えるか、黙るか。
どちらでもいい。
もう答えは出ている。
「あなたがやったのではないわね」
「……」
「でも、誰がやったかは知っている」
沈黙。
それが肯定だ。
わたくしは紙片を指でなぞった。
「安心なさい。責めるつもりはありません」
「……では、なぜ」
「知りたいだけですもの」
執事はゆっくりと息を吐いた。
観念した、というより。
選択した、という顔だった。
「……旦那様の指示ではありません」
ほら。
そこから来ると思っていた。
「では?」
「奥様の……ご判断です」
母の。
わたくしは一瞬だけ目を伏せた。
驚きはない。
ただ、少しだけ。
予想が現実になっただけ。
「理由は」
「……詳細までは」
嘘ではない。
そこまでは知らされていないのだろう。
けれど十分だ。
父ではない。
母。
つまり――
家の中で“方針が割れている”。
「ありがとう」
わたくしは軽く頷いた。
「これで十分ですわ」
執事は何も言わなかった。
言えないのだろう。
あるいは、もう関わりたくないのかもしれない。
どちらでもいい。
わたくしは紙片を回収し、踵を返した。
扉へ向かう。
その途中で、ふと立ち止まる。
「一つだけ」
振り返らずに言う。
「あなたは、どちらに付くのかしら」
沈黙。
長い。
それから、低い声。
「……私は、ヴァルモンド家に仕える者です」
曖昧な答え。
けれど、十分。
つまり。
“どちらにも付かない”。
あるいは。
勝つ側に付く。
「そう」
それだけ言って、部屋を出た。
廊下に戻る。
空気は変わらない。
けれど、見え方は変わった。
敵は一人ではない。
そして味方も、いない。
ならば。
「……結構ですわ」
独り言が、少しだけ軽い。
むしろやりやすい。
迷う必要がないから。
そのとき。
廊下の奥で、足音が一つ。
ゆっくりと近づいてくる。
聞き覚えのある、一定のリズム。
振り向かなくてもわかる。
「随分と手際がいいですね」
声が落ちる。
すぐ後ろで。
わたくしはため息を一つだけついた。
「盗み聞きは趣味でしたかしら」
「いいえ。偶然です」
「便利な偶然ですこと」
振り向く。
アシュレイ・クロードは、いつもの顔で立っていた。
まるで最初からここにいる予定だったみたいに。
「答えは出ましたか」
「ええ」
わたくしは彼を見た。
今度は、観察される側ではない。
「思ったより面白くなりそうですわ」
彼はわずかに口角を上げた。
「それは良かった」
「あなたの言う通りでしたもの」
「どの部分が?」
「味方を数えない方がいい、というところ」
少しだけ間を置く。
そして、言った。
「減ると悲しいでしょう?」
彼は笑った。
今度ははっきりと。
「では、次に進めますね」
「条件を聞きますわ」
「もちろん」
彼は一歩、距離を詰める。
逃げ場はない。
最初から、そんなものはないけれど。
「あなたはもう“使われる側”ではない」
「ええ」
「ならば、こちらも条件を提示できます」
その目が、少しだけ鋭くなる。
「共犯になるなら――あなたは何を差し出しますか?」
問いが落ちる。
軽くない。
答え次第で、すべてが変わる。
わたくしは少しだけ考えた。
そして。
笑う。
「そうですわね」
視線を逸らさない。
「まずは一つ、差し出します」
彼の目が、わずかに細くなる。
興味。
期待。
あるいは試す視線。
「何を?」
「秘密ですわ」
そう言って、わたくしは歩き出した。
彼の横をすり抜ける。
「明日までに、証明してみせます」
足を止めない。
「あなたにとって、利用する価値があるかどうか」
そのまま、廊下の奥へ進む。
背後で気配が動いた。
追ってくるか。
それとも。
試すのか。
どちらでもいい。
もう決めた。
わたくしは止まらない。
――勝ち方を、変えると。
いよいよ「共犯」が現実に近づいてきました。
次は主人公が最初の一手を実際に打ちます。
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