第一話 断罪の夜
「断罪もの」をベースにしていますが、少しだけ違うやり方で崩していきます。
一つの選択でどこまで変わるかを楽しんでいただけたら嬉しいです。
笑っているのは、わたくしだけだった。
婚約破棄の場で笑う女は、たしかに悪役令嬢らしい。
けれど本当は、笑うしかなかっただけですわ。
王立アルヴェイン学園の卒業記念夜会は、天井の硝子灯が星のように揺れていて、誰もが今夜を美しい思い出にするつもりでいたらしい。
少なくとも、ほんの十分前までは。
「レティシア・ヴァルモンド。君との婚約を、ここで破棄する」
静まり返った大広間で、アルベルト殿下の声はよく通った。
昔からそうだった。正しいことを口にするときの殿下は、誰よりも澄んだ声をしている。
彼の隣には、淡い金の髪を揺らしたミレイユ嬢が立っていた。震えているようにも、庇われる準備をしているようにも見える顔だった。
なるほど。今夜の主役は、わたくしではなく彼女らしい。
「君はこれまで、ミレイユに対し度重なる嫌がらせを行った。教材の破損、茶会での侮辱、さらには階段から突き落とそうとしたとの証言まである。これ以上、見過ごすわけにはいかない」
広間のあちこちで、息を呑む音が重なった。
わかりやすい話ですこと。可憐な令嬢が虐げられ、傲慢な婚約者が裁かれる。拍手でも起こりそうな筋書きだ。
わたくしは扇も持たず、ただ殿下を見上げた。
否定しようと思えば、いくらでもできた。
教材の破損は、わたくしの管理している温室ではなく、東棟の保管庫で起きたこと。
茶会での侮辱は、出席していた令嬢の顔ぶれからして証言が噛み合わないこと。
階段の件に至っては、そもそもその時間、わたくしは王妃殿下付きの侍女長に呼ばれていた。
けれど――言ったところで、何になるのでしょう。
人は、信じたいものを先に決める生き物だ。
それをわたくしは、ずいぶん前に知ってしまった。
「何か言い訳はあるか、レティシア」
殿下が問う。
その顔には怒りと、わずかな失望があった。わたくしがまだ見苦しく足掻くと思っている顔だ。
足掻く、ですか。
それは期待に似ているようで、実に傲慢だ。
なので、わたくしは少しだけ口角を上げた。
「……それで、殿下は満足なさいましたの?」
ざわ、と空気が揺れる。
これだから沈黙は便利だ。丁寧に誤解してもらえる。
「質問に答えろ」
「お答えしておりますわ。わたくしの返答より、殿下のご満足のほうが大切なのでしょう?」
何人かが小さく息を呑んだ。
ああ、いけない。こういう言い方をするから、わたくしは悪役令嬢なのでしょうね。
ミレイユ嬢が不安そうに殿下の袖を引いた。
「殿下、もう……」
「心配はいらない、ミレイユ。君のような善良な人間が怯える必要はない」
善良。
便利な言葉ですこと。
わたくしは彼女を見た。
彼女と視線が合う。すぐに逸らされた。罪悪感のある顔ではない。ただ、耐えきれないものを見る顔だ。
それで少しだけ、胸の奥が冷えた。
ああ、そう。
あなたも、何も言わないのね。
別に庇ってほしかったわけではない。
そんな贅沢は、とうの昔に捨てている。
けれど人は、ときどき捨てたはずのものに足を取られる。実に見苦しいことに。
「レティシア・ヴァルモンド」
殿下は宣告するように言った。
「君から王太子妃候補の資格を剥奪し、学園からの謹慎処分を命じる。追って王宮での沙汰も下されるだろう」
終わりの言葉としては、なかなか上出来だ。
観客も筋書きを理解しやすい。
周囲の視線が刺さる。
同情は少ない。好奇心が多い。侮蔑も、もちろんある。
昔のわたくしなら、この場で完璧な反論をしただろう。証拠を並べ、証言の綻びを突き、誰が何を得するのかまで示したはずだ。
でも、しない。
そう決めたのは今ではない。
もっと前から、わたくしは知っていた。
正しさは、正しい順に勝つわけではないのだと。
「反省の色もないか」
殿下の声音が硬くなる。
「最後まで、君は変わらないな」
その台詞にだけ、少し笑いそうになった。
変わらない。ええ、本当に。
わたくしは一歩、裾を引いて礼をした。
「では、お言葉どおりに」
それだけ言って背を向ける。
ざわめきが大きくなる。誰もが、もっと醜いものを期待していたのだろう。泣き崩れるとか、喚き散らすとか。あるいは殿下に縋るとか。
残念でした。わたくし、そういう芸は得意ではありませんの。
大広間の扉まで、たった十数歩。
なのに妙に遠い。
途中、赤い絨毯の端で、ふと視線を感じた。
王侯貴族の子弟が並ぶ観客席。その一角だけ、奇妙に静かだった。
黒の礼装を崩しもせず、足を組んで座る青年がひとり。夜会の騒ぎを楽しむでも、退屈そうにするでもない。
ただ、見ていた。
――わたくしを。
初めて見る顔ではない。
クロード公爵家の嫡男、アシュレイ・クロード。
王都では聡明だの冷酷だの、都合のいい形容で語られる男だ。殿下の側近ではあるが、忠臣とは少し違う。人に仕えるには、あまりにも目が悪い。いや、良すぎると言うべきかしら。
彼は拍手をしなかった。
眉ひとつ動かさず、ただ、こちらを見る。
嫌な目だ、と思った。
値踏みではない。品定めでもない。
まるで、答え合わせをしているような目だった。
扉の前で足を止めるのも癪だったので、そのまま通り過ぎる。
けれど、すれ違いざまに低い声が落ちてきた。
「ずいぶん静かな断罪ですね」
反射的に立ち止まりそうになって、やめた。
ここで反応するほど、親切ではない。
「派手なものがお好きでした?」
「いいえ。あなたが黙っている理由のほうに興味があります」
あら。
それはずいぶん、気持ちの悪い趣味をお持ちで。
わたくしは振り向かずに答えた。
「皆さま、理由のわかりやすいものがお好きでしょう。余計なことを申し上げるつもりはありませんの」
「でしょうね」
あまりにもあっさりした返答に、今度こそ少しだけ眉が動いた。
彼は笑ったのだ。声ではなく、気配だけでわかる笑い方だった。
「でも、あなたは負けていない」
「……慰めのつもりなら、趣味が悪いですわ」
「違います。確認です」
その言葉に、初めて振り返った。
アシュレイ・クロードは、騒ぎの中心から一歩も動かずに座っていた。
大広間の誰よりも余裕のある顔で。
そして誰よりも失礼な確信を宿した目で、わたくしを見ていた。
「あなたは、ここで終わる人間ではない」
そんなもの、わたくし自身だって知らない。
終わるかもしれない。明日には王都から追われるかもしれない。ヴァルモンド公爵家ですら切り捨てる可能性はある。
なのにこの男は、当然のように言ったのだ。
わたくしの明日を。
わたくしがまだ持っているものを。
まるで、見えているみたいに。
不快だった。
だから、少しだけ安心もした。
理解されることに慣れていない人間は、たまに判断を誤る。
「でしたら、ご期待はご自由に」
わたくしは言った。
「外れたときの責任は負いませんわ」
それだけ残して、大広間を出る。
扉が閉まる直前、背後で歓声が上がった。
たぶん殿下がミレイユ嬢に手を差し伸べたのだろう。美しい幕引きだ。
誰もが満足したに違いない。善良な人々は、結末の整った物語を愛するから。
廊下は静かだった。
夜会の光が嘘みたいに遠い。
わたくしは歩きながら、ようやく息を吐いた。
指先が少しだけ冷たい。けれど震えてはいない。
――否定しても、意味はありません。
そう自分に言い聞かせたのは、一度や二度ではない。
正しさが人を救わない場面を、わたくしは知っている。
だから、今回は捨てた。
捨てた、はずだった。
「レティシア嬢」
背後から、足音がひとつ。
追ってきたのは衛兵でも侍女でもなく、あの男だった。
やはり、と内心でため息をつく。
面倒なことになりそうですわね。
「ご用件は?」
「簡単な確認です」
夜会の音楽が、遠くかすかに流れている。
その穏やかな旋律に似合わない声で、アシュレイは言った。
「負けるおつもりはありますか?」
今さら妙なことを聞く人だ。
負けたから、ここにいるのでしょうに。
けれど彼は、わたくしの返事を待ちながらも、すでに答えを知っている顔をしていた。
それが気に入らない。
とても。
「……ありませんわ」
口から出たのは、思ったよりも素直な言葉だった。
彼は満足そうに目を細めた。
「それなら結構。では、話ができます」
「話?」
「ええ」
彼は少しだけ身を屈め、秘密を分けるような距離で囁く。
「あなたの断罪を、無意味にする方法について」
その瞬間、胸の奥で何かが小さく音を立てた。
怒りでもなく、安堵でもない。
もっと厄介な――期待に似た音だった。
だからわたくしは、たぶん今夜はじめて、ちゃんと笑った。
さて。
ここから先は、どなたにとっても、あまり品のいい話にはならないでしょう。
断罪の場で、何もかも終わったように見えて。
たぶん本当に始まるのは、この後からです。
きれいに裁かれた夜の裏側で、誰が何を見ていたのか。
次はそこが少しだけ動きます。




