第四話 夢とともに。
現実世界のどこか。ある病院。冷たい夜。そして、ある部屋の一室。
無機質な部屋。味気ない部屋。つまらない部屋。言い出したら、キリがない。テレビとベッド、個別トイレはあるけれど。でも、それだけ。まるで病院食のように薄い部屋。灰色の世界。
それが今の私の全て。気づいた時から私に与えられた環境。
私は今日も、ここで生きる。この狭い世界で一人。俯いて、膝を抱えて。
病院から与えられる無地の服。着やすいけれど、薄手で少し肌寒い。
無音。
ふと、顔を上げる。外では雪が降っている。冬の夜空に、白く、ポツポツと降り注いでいく。
(ああ、通りで)
「肌寒い訳だ」と。
渇いた唇を動かす。
辺りはもう夜で、暗闇に包まれていて。外から見ればこの部屋だけはどこか浮いていて。真っ白な照明に私は照らされて。その明かりをぼんやりと見て、今日ももう終わりだと実感する。何も変わらない。
今日が何曜日だとか、明日は何時に起きようだとか私には関係ない。だって私に許されるのは今日も明日もここで過ごす事だから。おおよそ、社会とは断絶されたこの場所で。
体が弱いばかりに私はここにいる。一人では生きる事が出来ないから。少なくとも今はそうなっている。
病的なまでに真っ白な肌。その手首には、今はもう辞めたけれど、傷跡が幾重にも刻み込まれている。私はもう、体と共に精神もおかしいみたいだ。
医療という名の科学。その力を借りないと私は生きる事すら出来ない。そんな私は笑ってしまう程に情けない。
私はいつまでこの生活を続ければ良いのだろう。
ふと思って。ため息をついて。窓に雪の結晶が張り付いて。駆け寄って。垂れる雫に手を這わせて。
その結晶はやがて私の手に触れる事無く、儚く消えていく。
私の命もいつか儚く切なく消えていく。
「そうだよね」
一人、呟く。消え入りそうな声だった。窓にかかった吐息が白く曇る。
私はもう限界だった。この世界にもう未練はなかった。
ここではない何処かを願った。
私ではない何かを願った。
声にならなくとも、この体を捨てて走り去りたくなった。そんな事出来ないけれど。
窓ガラスに私が映る。部屋の明かりに反射して。
しばらくの間、自分を見つめる。やがて、瞳からは雫が一筋。頬を伝い、床に落ちる。
驚いた。
この曇りガラスのような眼からも流れる涙があることに。私がまだ生きている事に。
痛い。冷たい。苦しい。ここは何処?
自分が分からなくなった。
ただ、腹立たしくて。
窓を叩いた。バシンとうるさい音が響いた。暴れた勢いで点滴の注射針が抜けた。血が流れた。窓ガラスが割れた。破片が飛び散る。気持ち悪い。床に吐瀉物を吐いた。胃の内容物を吐いた。赤かった。それを見てハッとした。
今度は怖くなった。そのまま立てずに耳を塞いでいた。
部屋にナースコールが響き渡る。この音は嫌い。うるさくて、耳に響いて。
私はそのままでいた。
すぐに看護師がやってきた。私は寝かされた。運ばれた。呼吸器を付けられた私は何処へ行くのだろう。
ああ、きっといつもの部屋だろう。
どこか他人事のようにそう思いながら。諦めて身を委ねて。
「もうダメだ」と肩をすくめて。
辺りの雰囲気は重苦しい。多くの人に囲まれている。「どうしたの!?」、「落ち着いて」と騒ぎ立てられている。後ろには電話で誰かを呼んでいる者もいる。こんな事初めてだ。
けれど、私はその中で一人。
ああ、もうすぐ私は、なんてそう思って。そうして目を閉じて受け入れようとしたけれど。
「ハユ、ハユ!」
私を呼ぶ声がする。この世界に繋ぎ止める誰かがいる。
「しっかりして!」
なんて涙に濡れながら。学校を慌てて抜け出してきたのか、制服のままで。息を上げ、髪も乱れて。色素が抜けたかのように真っ白な、私とは対称的な黒い髪。
「おねぇ、ちゃん」
ゆっくりと呟いた。手を伸ばした。その綺麗な顔に。
お姉ちゃんの瞳からは涙が絶えず零れている。
その目で私は見つめられている。その瞳が揺れている。
「ハユが死んだら、私、私・・・どうすればいいの」
なんて震えたように。
嬉しいなぁ。そんな風に思ってくれるなんて。そうまでして私を好いてくれるなんて。好かれるような事、一欠けらも私にはないのに。でも、私の事をこの世界でただ一人、愛してくれた人。
でも、ごめんね。
そして、
「ありがとう。お姉ちゃん」
私の大切な人。呼吸器の中。苦しいけれど。これだけは伝えたくて。
じゃあね。そう、別れを伝えたくて。
私はそっと目を閉じた。佐藤ハユの人生が幕を閉じた。お姉ちゃんのぬくもりが、声がいつまでも部屋に響いていた。
最後に私は幸せだった。心からそう思う。




