第62章:百八の煩悩と、境界線の年越しそば 古田家の年越し
12月31日。大晦日。
古田家は、静かな夜を迎えていた。
「よし、今年のそばは会心の出来だぞ」
父さんが台所から、湯気の立つどんぶりを運んでくる。
釣り好きの父さんは料理もプロ級だ。手打ちの二八そばに、特大のエビ天(奮発した)が乗っている。
「いただきます」
ズズズッ。
美味い。出汁の香りが体に染み渡る。
こたつに入り、テレビの紅白歌合戦をBGMにそばをすする。これが日本の正しい大晦日だ。
「……降太。食べ終わったら支度しな」
こたつの対面で、祖母・時田茜が蕎麦湯を飲みながら言った。
作務衣姿で、既に「仕事モード」の顔をしている。
「え、今年も行くの?」
「当たり前だろう。除夜の鐘ってのは、煩悩を払うと同時に、**『眠っているモノ』**を叩き起こしちまうこともある。見張りが必要なんだよ」
俺はガックリと項垂れた。
毎年恒例、地元の古寺での**「除夜の鐘・警備アルバイト(霊的)」**だ。
除夜の鐘と、抜け出し
午後11時30分。
俺は寒空の下、お寺の鐘撞き堂の下で震えていた。
参拝客が列を作り、ゴーン、ゴーンと鐘の音が響く。
「降太、あそこの松の木。……邪気が溜まってる。塩を撒いてきな」
「へい……」
祖母の指示で、見えないナニカを追い払う地味な作業を続ける。
一般人にはただの「お手伝いの孫」に見えるだろうが、実態はゴーストバスターだ。
11時50分。
休憩時間をもらった俺は、境内を抜け出し、学校の方角へと走った。
この寺は学校の裏山にある。旧校舎まではすぐそこだ。
「……間に合うか?」
俺の懐には、保温ジャーに入れた**「父さんの手打ちそば(3人分)」**が入っている。
今日は大晦日。境界が薄くなる特異日だ。
ニャルラトホテプに修理された「裏口」も、今なら通れるかもしれない。
0時の密会
旧校舎の裏。
闇の中に、ぼんやりと光る紫陽花の植え込みがあった。
やはり、大晦日の空気の揺らぎで、結界が緩んでいる。
「……よし、いける」
俺は植え込みの陰にある「綻び」に手をかざした。
ズルリ、と手が闇に吸い込まれる。
俺はそのまま全身を滑り込ませた。
「お邪魔しまーす……」
裏世界、園芸部。
そこは、しん、と静まり返っていた。
いつもの夕暮れではなく、窓の外には満天の星空が広がっている。
加藤先生の「新年に向けた祈り」が、空を夜に変えたのかもしれない。
「あら。……いらっしゃい、ふるふる君」
ダルマストーブの前で、櫻子先輩が本を読んでいた。
加藤先生(25歳)は、餅を焼いている。
「あ、古田か。早いな、新年の挨拶には」
「まだですよ。……これ、差し入れです」
俺は保温ジャーを開けた。
出汁の良い香りが、冬の園芸部に広がる。
「年越しそばよ! 嬉しい!」
先輩が小皿を用意する。
俺たちはストーブを囲み、温かいそばをすすった。
「んー! 美味しい! お父様、お店が開けるわね」
「ああ、五臓六腑に染み渡るな……」
三人で囲む、二度目の食卓。
特別なことは何もないけれど、この温かさが何よりのご馳走だ。
カウントダウン
「……そろそろだぞ」
加藤先生が懐中時計を見る。
遠くから、ゴーン……ゴーン……と、除夜の鐘の音が聞こえてくる。
現実世界の音が、こちらにも響いているのだ。
58、59……。
ゴオォォォォン……
108つ目の鐘の音が、重く、長く響き渡った。
新しい年が来た。
「……あけましておめでとうございます、先輩、先生」
俺が頭を下げると、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「ええ。あけましておめでとう、ふるふる君」
「今年もよろしく頼むぞ、少年」
櫻子先輩が、窓を開けた。
冷たく澄んだ空気が流れ込んでくる。
「今年も、あなたが無事で、楽しい一年になりますように」
先輩は、星空に向かって祈るように言った。
それは、地縛霊である彼女からの、ささやかで深い祝福だった。
帰り道
「さて、戻らなきゃ。ばあちゃんに怒られる」
長居はできない。俺は空になったジャーを片付けた。
「気をつけてね。……お年玉、用意しておけばよかったかしら?」
先輩が茶目っ気たっぷりに言う。
「気持ちだけで十分ですよ。……あ、そうだ」
俺はポケットから、小さな包みを取り出した。
「これ、俺からです。……今年もよろしくお願いします」
渡したのは、小さな**「花の種」**の形をした根付だ。
父さんと買い物に行った時に見つけて、なんとなく先輩に似合うと思って買ったものだ。
「まあ……。ありがとう。大切にするわ」
先輩はそれを両手で包み込み、本当に嬉しそうに笑った。
「じゃあ、また!」
俺は裏口を通り抜け、現実の冬空の下へと戻った。
寒さは厳しいけれど、胸の奥には温かい火が灯っている。
「……今年も、忙しくなりそうだ」
俺は寺へと走り出した。
遠くで、初詣客の柏手が聞こえ始めていた。




