第109章:旅館の夜と、ドアノブ越しの密会
男子部屋の攻防戦
修学旅行1日目の夜。 俺たちが宿泊する京都の古い旅館の大広間(男子部屋)は、獣たちの檻と化していた。
「うおおおお! 枕投げじゃあ!!」 「喰らえ! 魔球・スリーピングボンバー!」
赤城烈兎が豪速球で枕を投げまくっている。当たった生徒が次々と沈んでいく。 野球部のエースが本気で枕を投げると、風切り音がするのだと初めて知った。
「静かにしろォォッ!!」
ガラッ! 襖が乱暴に開け放たれた。 現れたのは、浴衣姿の与市星一先生だ。 その姿は、完全に「温泉旅行に来た組事務所の若頭」である。
「お前ら、明日に備えて寝ろ! 次に騒いだ奴は、俺が添い寝(関節技)してやる!」
「「「ひいいぃぃっ!!」」」
男子たちは一瞬で布団に潜り込み、死んだように静かになった。 与市先生の添い寝など、永眠と同義だ。
抜け出し
「……ふぅ」
消灯時間が過ぎ、あちこちから寝息が聞こえ始めた頃。 俺、古田降太は、そっと布団を抜け出した。 懐には、「どこでもドアノブ」と、売店で買ったお土産を忍ばせている。
(トイレに行くと見せかけて……)
俺は廊下に出た。 古い旅館の廊下は、ギシギシと鳴る。 見回りの先生(主に角田先生と与市先生)の気配がないことを確認し、突き当たりにある「リネン室(物置)」のドアの前に立つ。 ここなら鍵穴があるし、夜中に誰も来ることはないだろう。
俺はドアノブを鍵穴に差し込み、静かに回した。
ガチャリ。
空間がねじれる独特の感覚。 旅館の木の扉を開けると、そこには懐かしい「土と草の匂い」が漂っていた。
0秒の帰宅
「お邪魔します……」
足を踏み入れると、そこは裏世界の園芸部だった。 窓の外は満天の星空。 ストーブの前で、櫻子先輩が本を読んでいた。
「あら、いらっしゃい。……早かったわね」
先輩が顔を上げて微笑む。 昼間はスマホの画面の中にいたけれど、今はこうして、等身大の姿で目の前にいる。 やっぱり、画面越しとは安心感が違う。
「ただいまです。……データ転送、上手くいきましたか?」
夕食前にスマホからデータをバックアップし、こちらの本体に同期させておいたのだ。
「ええ。おかげで、金閣寺の輝きも、清水の舞台からの絶景も、まるで自分の目で見たように思い出せるわ」
先輩は目を細めた。
「ありがとう、ふるふる君。スマホの中も楽しかったけれど……やっぱり、自分の体(霊体)であなたと話すのが一番落ち着くわね」
「俺もです」
俺は、先輩の向かいに座った。 ここには、旅館の喧騒も、先生の監視もない。 京都と東京(裏世界)。物理的には500キロ離れているはずなのに、ドア一枚で繋がっている不思議な空間。
お土産話と、秘密の共有
「見てください、これ」
俺は懐から「生八ツ橋」の箱を取り出した。
「お夜食です。一緒に食べましょう」
「ふふ、悪い子ね。……いただきまーす」
二人で八ツ橋を食べる。 ニッキの香りと、餡の甘さが広がる。
「明日は班別行動で、市内を回ります。塩原さんが張り切ってて、マイナーな文学スポットばかり行く予定です」
「あら、楽しそう。文子ちゃんなら、きっと素敵なガイドをしてくれるわ」
他愛のない会話。 でも、それが何よりも愛おしい。 先輩の指についたきな粉を見て、俺は自然と微笑んでしまった。
「……ねえ、ふるふる君」
先輩が、ふと真面目な顔をした。
「今日の『愛と恋』さんたち……素敵だったわね」
「ええ。強烈でしたけど、かっこよかったです」
「あの方たちみたいに……私もいつか、あなたと並んで歩ける日が来るかしら。……スマホの中じゃなくて、本当の意味で」
先輩の言葉に、俺はドキッとした。 蘇生を拒否していた先輩が、少しずつ「未来」を見始めている。 今日のデート(スマホ越し)が、彼女の心を少しだけ動かしたのかもしれない。
「……来ますよ。俺が、必ずそうします」
俺は力強く答えた。 先輩は、嬉しそうに、でも少し恥ずかしそうに俯いた。
ギリギリの撤収
その時、ポケットのスマホが震えた。 赤城からのLINEだ。
『おい古田! 与市が見回りに来るぞ! 戻れ!』
「うわっ、ヤバい!」
現実世界では、鬼の巡回が始まっているらしい。
「先輩、そろそろ戻ります!」
「ええ。気をつけてね」
先輩は立ち上がり、俺の着ている浴衣の襟を直してくれた。 その手が、一瞬だけ俺の胸元に触れる。冷たくて、優しい感触。
「……おやすみなさい。また明日、スマホの中で会いましょう」
「はい。おやすみなさい」
俺は名残惜しさを振り切り、ドアをくぐった。
ガチャリ。
ドアを閉め、ノブを引き抜く。 そこは再び、京都の古い旅館のリネン室に戻っていた。
「……ふぅ」
俺はノブを隠し、何食わぬ顔で廊下に出た。 ちょうど角を曲がってきた与市先生と鉢合わせる。
「……古田。こんな時間にどこへ行っていた?」
先生の目が光る。
「と、トイレです! ちょっとお腹が……」
「……早く寝ろ。明日は早いぞ」
先生は怪しみつつも、見逃してくれた。 セーフだ。
部屋に戻り、布団に潜り込む。 枕に顔を埋めると、微かに八ツ橋のニッキの香りと、先輩の残り香がした気がした。
俺は、スマホを握りしめて目を閉じた。 明日は修学旅行2日目。 どんな一日になるだろうか。




