13.
あの夜から三日。
清月工房の居間には、いつもと変わらない緩やかな時間が流れていた。
「あー……。やっぱり右腕、まだちょっと張るな」
ソファに深々と腰掛けた凪が、眉をひそめながら右の袖をまくり上げる。
そこには二日連続で採血された小さな痕が残っていた。
「結構痛いし、なんで利き手に......」
「凪の場合は右のほうが血管が見やすかったので仕方なかったですね」
楓は穏やかな口調でそう返した。
長い茶髪をさらりと耳にかけ、特等席のデスクでノートパソコンを開いたまま、視線だけを少し凪へと向ける。
「ただでさえヤバいテスト勉強の筆がさらに進まないんだよ……」
「それは単なる言い訳かと。これ以上成績が下がれば、陣さんが本当に怒りますよ。今回はうらむやにされましたが」
「う、うぐ……」
痛いところを完全に突かれた凪は、それ以上何も言えずにずるずるとソファのクッションに沈み込んでいった。
そんな二人のやり取りを、リビングのカウンター席から聞いていたのは、しずなだった。
手元にある大学の心理学のレジュメに目を落としながらも、しずなの鋭い聴覚は二人の会話を、そして楓の「声のトーン」を敏感に拾い上げている。
(一年前と比べて、凪くんと楓の距離、ずいぶん縮まったよねぇ……)
楓は基本的に人との間に見えない境界線を引きやすい。
おそらく彼の本質であるが、同時に一度内側に入れた相手に対してはそっと歩み寄る優しさがある。
「しずな、楓。二人に頼みたい依頼があるんだが――」
奥の作業室から出てきた陣は、A4の資料に目を通しながら二人に声をかける。
陣の言葉に二人はそれぞれの手をとめた。
「しずなの行ってる大学の教授から、依頼が来たんだ。凪は念の為工房にいてほしいし、他のメンバーは忙しい。チェリはまた別の理由だが。よって今回は二人に頼みたい」
陣は手にしていた資料をリビングのローテーブルに置く。
依頼主や要件などをまとめた資料で写真もある。
普段はメモや口頭、あるいはノヴァの記憶に頼るので、こういった資料を陣が作成するのは珍しいことだった。
「人探し、ですか?」
楓が資料の『依頼内容』の項目に目を留める。
清月工房の裏の顔としては、比較的よく舞い込む類の依頼だ。
しずなはカウンターから身を乗り出すようにして、ローテーブルに置かれた資料へと手を伸ばした。
そこに印刷されていたのは、いかにも気難しそうな白髪の男性の写真。
「げ、宇中教授じゃん」
「知ってるのか?」
「知ってるも何も僕の副専攻担当の教授だよ。事実、根拠の二つしか信じないような堅物な人」
しずなは印刷された『宇中 斗文』の文字をみてあからさまに渋い顔をした。
「副専攻というと、神経科学だったっけ?」
凪が資料を覗き込みながら、しずなの背後に立った。
その様子を見て、しずなはふと内心で苦笑する。
(っていうか、凪って楓だけじゃなくて工房のメンバー全員に遠慮がなくなったね......)
敬語は楓の影響だったとして。
「そう、神経科学。主専攻している心理学と相性がいいって聞いてほとんど適当に入ってみたんだけど、そこにいたのが宇中きょーじゅ。あの人がこの工房のこと知ってるとは思わなかったけど」
「探偵か何かの事務所兼任だと聞いてやってくる民間人は多いがな」
「僕から見たあの人は警察とかそういうところに出すと思うんだけど。まず自分で緻密なデータでも集めてさ」
「まあ、今回は事情が違う」
陣は腕を組み、テーブルをトントンと叩いた。
「今回、探してほしいと頼まれたのは、桜雨の被害者であり――宇中教授の息子さん」
「息子さん.......ですか。それにしても随分と似てませんね」
宇中 蓮。
資料を捲れば父親には全く似ていない顔が現れる。
「彼は養子だそうだ。桜雨は我々に恩恵をもたらした一方、障害を与えられた人がいることも知っているだろう? 彼は聴力を失ったらしい。そして最近では、父親の個人研究室で助手を務めていたが五日間前から連絡が取れなくなっていたと」
「......だったら、なおさら警察の管轄じゃないの? 訳ありっていう風にも感じないし」
だが、陣は首を横に振る。
「宇中教授が警察に届け出ないのは、届け出られない『根拠』を見つけてしまったからだ。……いや、正確には二度と警察を信用しないと決めた、と言うべきか」
陣は資料を一枚めくり、宇中蓮の過去の経歴が書かれたページを指差した。
「蓮くんは、過去に一度ある事件の容疑者として警察に逮捕されかけている。その時、警察は本星のトカゲの尻尾切りとして、耳の聞こえない彼にすべての罪を擦り付けようとしたんだ。宇中教授が必死に無実の証明を集めて釈放させたが……警察はその失態を隠蔽し、今でも蓮くんを潜在的な犯罪者としてマークし続けている」
「げ、最悪」
しずなが心底不快そうに顔を顰めた。




