はじめ
今日も今日とて眠い
数年前、日本の日常は形を変えた。
一定の確率で空から雨が消え、代わりに――淡いピンク色の、桜の花びらが降るようになったのだ。 『桜雨』と呼ばれるその怪現象は、人々に不思議な恩恵をもたらした。
一部の一般人の内に眠る才能を引き出し、普通とは違う「能力」を付与したのだ。
そして、ここは大都会の片隅に佇むガラス細工工房『清月工房』。
元々はリーダーである東堂 陣の実家だった場所だが、跡継ぎがいないため、今は彼らの「表の顔」であり、隠れ家として使われている。
「……シヴォン、そちらの状況は大丈夫そうですね」
秋月 楓は、中学生の時から伸ばし続け男性にしては長い髪をさらりと片手でまとめ、ヘッドセットの位置を直した。
彼の視線の先には、壁一面を埋め尽くす複数のモニター。
そこに映し出されているのは、今回の潜入先であるビルの立体構造図と、激しく流れる無数のログデータだ。
『――完璧よ、楓。私のバイオリンの音色で離れに連れてきた人たちは全員眠ったわ』
インカムから聞こえるのは、底抜けに明るいシヴォンの声。
世界的な演奏家である彼女の音楽は、桜雨によってさらに人を思い通りにする力を得ている。
そして組織のほとんどの人を彼女の能力で眠らした。
今回の仕事は桜雨が降ってから市場に出回り始めた能力を高める指輪の奪還だ。
依頼主曰く、その指輪は元々婚約指輪だったが盗まれてしまい、裏のオークションで能力増幅器として落札されたそうだ。
「助かります。では、本命のルートを開きますね。ノヴァ、防壁の同時強制解除を開始」
『全セキュリティーロック、解錠しました』
楓が自ら組み上げた独自のAI"ノヴァ"が、楓の指先と連動して瞬時にビルの防衛システムを掌握していく。
ビル内に潜入しているメンバーの中で一番指輪に近いのは高校生の凪だ。
身体能力においてはこのチームの中で一番である彼はだが、このように守りの固いビルでは若干動きずらそうだった。
そんな彼と一緒に行動するのはしずな。
凪ほど戦えはしないがどこか猪突猛進な凪の良いストッパーだ。
『楓さん、こちらの扉は?』
「今開けます」
「凪さん、そのまま直進。突き当たりの部屋に警備員が二名。……いえ、待ってください。システム内に、妙な動きがあります」
どうやらこちらの侵入に気が付いたようで手動で防衛プログラムを書き換えているようだった。
『え。このまま直進していいのか?』
『凪くん、声が大きいですよ』
「構いません。今対処しますので」
楓の瞳に、モニターの青い光が反射する。
彼の持つ能力は『調空』。
簡単に言えば、世界の、あらゆる「場の流れ」を把握し、己がままに正す能力。
それはこの電子の海においても例外ではない。
画面の向こうで敵のプログラマーが必死にキーボードを叩く「焦り」の歪みが、楓には光の波紋のように見えていた。
歪みの中心――敵のセキュリティーの「核」を捉えた瞬間、楓は一つのキーを静かに、深く押し込んだ。
システムが逆流し、向こうの機器は爆発する。
向こうが何もすることができなくなっているのを確認して凪たちにゴーサインをだした。
「お待たせしました。その部屋です」
『あんがと!』
インカムの向こうで、凪が影のように飛び出した。
桜雨による能力ではなく、純粋な身体能力だけで敵を圧倒する。
彼の放った音をも置き去りにするような鮮やかな一撃が、警備員たちを声を上げる暇すらなく昏倒させた。
お見事、と楓は声に出してしまう。
楓のデスクの横で、お気に入りのぬいぐるみを抱いた少女――チェリが、唇を小さく開いた。
『……凪、拾う指輪、間違えないで。そっちの警備員のはただのレプリカ。本物は、左の男のポケット』
モニター越しに透視の能力を使ったチェリが静かにつぶやいた。
『探す暇省けたね。チェリちゃんナイス!』
しずながカメラに向かってニコっとすると、チェリは床に座る。
「ではこれで撤収になりますね」
完璧な連携だった。
メンバーが誰も傷つくことなく、それどころか敵にこちらの正体すら掴ませず、任務は終わりを迎える。
『しずな、逃げるぞ』
『はいはい~』
来た道を二人は撤収する。
シヴォンが眠らせているので、敵も増えないだろう。
「陣さん、今回は平和な依頼でしたね」
楓は後ろで見守っていたリーダーの東堂陣を振り返った。
三十五歳、冷静沈着なこのチームの絶対的支柱。
陣は満足そうに微笑んだ。
「依頼料高かったし、今夜は豪華でいいかもな。すき焼きだ。凪の赤点祝いにな」
陣が大声で話したことで無線の向こうにもその声は届いた
『やめてくださいよぉ。留年しそうだし......ってか今関係ないじゃないですか!』
必死に反論する凪の声に、インカムの向こうからしずなの楽しそうな笑い声が追いかけてくる。
『あはー、 凪くん、陣さんにもうバレてたんだ。でも赤点のお祝いですき焼きなんて、最高じゃない?』
『しずな、頼むから今は静かにしてくれ……!』
そんな二人のやり取りを聞きながら、楓はヘッドフォンを外し、張り詰めていた肩の力を抜いた。
都会の喧騒に隠れたこの『清月工房』に、間もなく賑やかな足音が近づいてくる。
楓は窓の外に目をやった。
夜闇の中、街灯の光に照らされて、淡いピンク色の桜の花びらが静かに、ゆっくりと舞い降りていた。




