第40話 残るもの
風が、吹く。
ただ、それだけのことが。
少しだけ、懐かしい。
少女は、ゆっくりと目を開けた。
世界は、静かだった。
歪みはない。
重なりもない。
引きずられる感覚も。
消える気配も。
何もない。
「……終わった」
小さく、呟く。
それが、確信だった。
男が、隣で息を吐く。
「……ああ」
短く。
だが、重い。
長く続いていた緊張が、ようやくほどける。
誰も消えない。
それだけで。
世界は、こんなにも穏やかになる。
少女は、手を見る。
震えていない。
前なら。
何かが起きるたびに。
必ず、何かを失っていた。
だが、今は違う。
遠くで、声がする。
人の声。
日常の音。
誰かが笑い。
誰かが呼ぶ。
すべてが。
ちゃんと、そこにある。
男が、ぽつりと呟く。
「……選ばなくてもいい、か」
少女は、顔を上げる。
空は、ただの空だった。
何も見えない。
だが。
どこかで。
見られているような気配だけが、わずかに残っている。
「でも」
少女は言う。
少しだけ、迷いながら。
「それでも、選ぶんだと思う」
男が、笑う。
「だろうな」
肩をすくめる。
「何もしねえのも、気持ち悪いしな」
少女も、少しだけ笑う。
同意だった。
選ばなくてもいい。
だが。
選びたいと思う。
それは、強制ではない。
ただの、意志だ。
少女は、歩き出す。
一歩。
地面は、確かにそこにある。
誰にも奪われない。
消えない。
選ばれなかったからといって。
消えることもない。
そのとき。
足が止まる。
視線の先。
そこに。
小さな影がある。
——子ども。
あのとき。
消えたはずの存在。
少女の呼吸が止まる。
ゆっくりと、近づく。
子どもは、こちらを見る。
何も知らない顔で。
ただ、そこにいる。
「……残ってる」
少女の声が、震える。
だが。
涙は出ない。
もう、違うから。
男も、近づく。
「……ああ」
短く。
だが。
それで十分だった。
少女は、しゃがむ。
子どもの目線に合わせる。
「大丈夫?」
子どもは、頷く。
何も失っていない。
それが、答えだった。
少女は、ゆっくりと立ち上がる。
そして、空を見る。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か。
自分でも分からない。
だが。
確かに。
届く場所がある気がした。
風が、また吹く。
同じ風。
だが。
少しだけ違う。
重くない。
何も削られていない。
すべてが、そこにある。
遠くで。
誰かが、選ぶ。
別の誰かが、選ばない。
どちらも。
残る。
それでいい。
少女は、歩き出す。
男も、隣を歩く。
もう、止まらない。
止められない。
決めるのは。
自分たちだから。
そのとき。
ほんの一瞬だけ。
何かを感じる。
視界の端。
何かが、揺れた気がした。
だが。
振り向いても。
何もない。
ただの空間。
ただの風。
少女は、少しだけ目を細める。
そして。
小さく、笑った。
——もう、いい。
そう思えた。
選ばなくてもいい。
それでも。
人は選ぶ。
それが。
この世界だった。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、「選ばない」というところから始まり、
最後は「選んでもいい」という場所にたどり着きました。
ここまで付き合っていただけたこと、心から感謝しています。
もし少しでも何かが残ったなら、とても嬉しいです。




