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#5¦至高のワインをあなたと¦


 ルナの声が、わずかに上擦った。


 橘が静かに続ける。


「あと15分ほどで店に着くそうです。松田様から『ルナとラストまで一緒にいたい』と」


 一瞬、ルナの頭の中で数字が激しく回転した。


 24時4分。

 ラストまであと1時間弱。


「ねぇホタルって帰宅したの?」


「いえ、ルナさんの読み通りお客様が来店してただいま接客中です」


 卓回しで確実に伸ばせるはずだった売上が突然凍りつく。


 松田。この男は、ルナにとって最大の太客の一人であり、同時に最大の問題のある客でもあった。


ーー海外資源ビジネスを牛耳る男。

鉱山とエネルギーで国内外の事業に関わる大企業の社長だ。一度来店すれば、ルナを他の席に一切行かせない。

卓替えなど論外でシャンパン煽りも嫌う。ただ静かに、じっくりとルナだけを独占したがる。

 会計もピンキリで売上に貢献してくれる日もあればそうでもない日もある。この月末に接客するには少し難がある客だ。


 ルナは小さく息を吐き、唇を僅かに噛んだ。


ーーやるしかない


「橘。今いるお客様はヘルプで回して。延長交渉はしなくていい。松田様の席は私一人で回す」


「ですが……」


「いいの、責任は私が持つ。考えがあるの」


 ルナはドレスの裾を軽く払い紫の照明が落ちる廊下を静かに、しかし決然と歩き更衣室へと向かった。


 エレベーターのドアが滑らかに開く。


 40代後半とは思えぬ引き締まった身体が仕立ての美しいチャコールグレーのオーダーメイドスーツに完璧に収まっている。鏡のように磨き上げられた黒のオックスフォードシューズと控えめながらも存在感のある高級ブランドのブリーフケースが彼の静かな威圧感を際立たせていた。ビジュアルはルナと並んでも決して見劣りせず、むしろ彼女を引き立てるような端正な容姿だ。


「ルナ」


 低く、同時によく通る声。ルナは完璧な角度で微笑み、深く腰を折った。


「松田様……とても嬉しいサプライズです」


 松田はルナの顔をじっと見つめたまま、ゆっくりと近づきまるで壊れやすい花を扱うように優しく彼女の髪に触れた。


「素敵なドレスだ。君の白い肌に“赤いドレス”がよく似合っている」


 今夜、ルナは松田の来店を予期していなかった。しかし更衣室の専用ロッカーにストックしている新品のドレスの中に彼好みの衣装を事前に用意していた。ルナは来ていたグレーのロングドレスから赤いロングドレスへと着替えたのだった。

 深紅のサテン生地に胸元と背中が大胆に開いたマーメイドドレス。肩から流れるように落ちる半透明の袖が、ルナの華奢な腕と白い肌を際立たせている。


「松田様が以前お好きといってくださったドレスと同じ赤色です。今日は松田様が会いに来てくださると信じて着ておりました」


 もちろん嘘である。だが嘘を本当のことのように話すのもスキルのひとつだ。


 ルナは自然に松田の左腕に軽く手を添え、VIPフロアの1番奥へと彼を導いた。


 部屋に入るなり、松田はソファに深く腰を下ろす。ルナはVIPルームのタオルウォーマーからおしぼりを取り出し松田へと差し出す。松田は差し出されたルナの手を掴み、勢いよく自身の元へと引っ張る。


「キャッ」


 思わず声を出した。

 気づけば、彼の腕の中だった。

 彼はルナを抱きしめながら呟く。


「今夜は君を他の誰にも渡さない。君の時間も、視線も、吐息さえも……全部、俺のものにしていいだろう?」


「……はい。今夜は、ルナを松田様だけのものにしてください」


 ルナは微笑みを崩さず松田に答えるように背中に腕を回した。

しかしあくまで彼とルナは、お客様とキャバクラ嬢。

本物の恋人にはなれない。

これはただの“ロールプレイ”駆け引きだ。

 

「松田様。今夜は……少し、特別な夜にしませんか?」


 松田が眉を上げる。


「特別?」


「ええ。私と松田様の共通の思い出になる夜にしたいのです」


ルナはゆっくりと、松田の耳元に唇を寄せた。


「1987年物の赤ワインを……松田様のため特別にご用意しました」


松田の瞳が、わずかに細まる。


「手に入ったのか?」


「旅行先のオークションで、奇跡的に見つけて……即決で落としました。250万円以上しましたが、松田様のためなら安いものです」


松田の喉が『味わいたい』と言っているように鳴った。

 

「松田様は、静かに、深く、味わう方。だからこそ、このワインを……今夜私と2人でゆっくりとじっくり愉しんでいただけませんか」


 松田はしばらく沈黙する


 その間にルナの心臓が、静かに、しかし激しく鳴る。


(ここで決まる)


 やがて、松田は小さく笑った。


「ルナ……お前は本当に、俺を楽しませるのが上手いな」


 彼はルナの顎を指で軽く持ち上げた。


「いいだろう。 そのワイン、開けろ。

 ただし、条件がある」


「条件……?」


「俺からも君にプレゼントを贈りたい」


ルナは完璧な笑顔で返した。


「私にですか?」


 松田は満足げに頷き、橘を呼ぶボタンを押した。


「橘。この店で、ルナが用意する赤ワインより高価な白ワインを用意しろ」


 橘が部屋に入ってきたとき、ルナは松田の隣で静かに安堵し微笑む。橘はルナのその表情を見逃さない。


 ――勝った

 と、彼女の顔から滲み出る勝利宣言を橘は汲み取る。


「それでしたらグレートヴィンテージの貴腐ワインはいかがでしょうか。彼女との甘いひとときを彩る今夜にぴったりなワインかと」


「それで頼む。それからルナが俺に用意した赤ワインも一緒に持ってきてくれ」


 ルナは橘に赤ワインのメモを渡す。

橘は目を通すとお手本のように美しい一礼をし、VIPルームを後にした。


 松田はルナの手の甲にそっとキスを落とし、低く囁いた。


「今夜は、君の唇がワインより甘くなるまで……俺は絶対に離さないよ、ルナ」

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