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#29.5¦ゼイル・ケインという男¦


 昨夜の海辺は、深い闇に沈んでいた。


 ゼイル・ケインは、酒瓶を片手に、いつものように波打ち際を眺めていた。


 紺色の髪が夜風に乱れ、右目の眼帯が月光を鈍く反射する。四十九歳の体つきは今もがっしりとしていたが、その周囲には、長年染みついた酒の匂いがまとわりついていた。


 夜に海を眺める。


 それはもう習慣だった。


 フロレンシアが消えたあの日から、変わらない。


 理由など自分でもよくわかっている。

 ただ海を見ているわけではない。


 あの日、あの海の向こうへ消えていった彼女の影を――

 今もどこかで探している。


 誰にも言ったことはないが、

 それは二十年前から続く、ゼイルにとって祈りのようなものだった。


 そのときだった。


 空を裂くような光が、海上に落ちた。


 雷。


 しかし、それはただの雷ではない。


 異様に連なる稲妻が、海を白く照らす。

 海蛇の魔獣の群れが、焼き払われるように消えていく。


 轟音。


 そして空に広がる巨大な影。


 白い翼を広げたそれが、夜空を切り裂きながら魔物を薙ぎ払う。


 ゼイルの目が、わずかに細まった。


 ――ドラゴン……?


 この海域に、そんな存在が現れるはずがない。


 しかし次の瞬間ゼイルの視線は別のものを捉えていた。


 物陰から、静かに立ち去ろうとする小さな影。

 フードの奥からのぞいた淡いピンクの髪と青い瞳を、ゼイルは見逃さなかった。


 一瞬、呼吸が止まった。


 胸の奥に、忘れたはずの感覚が走る。


(……フロレンシア……?)


 ありえない。


 すぐにゼイルは小さく舌打ちをし、頭を振った。


 ただ似ているだけだ。

 酒のせいだ。

 酔いが見せた亡霊だ。


 そう決めつけるように、海から視線を外した。



 翌朝。


 ゼイルは自宅の窓から、街を見下ろしていた。


 すると、見覚えのある後ろ姿が目に入る。


 セレナだ。


 そして、その隣を歩く小さな少女。


 昨夜見た、あのピンクの髪を隠したフード。


 胸の奥が、わずかにざわつく。


 二人は街の中央を抜け、そのまま坂道を上っていく。


 向かう先は――


 結晶の塔。


 ゼイルはしばらく黙ってそれを見ていたが、やがて窓から離れた。


 理由は、特にない。


 ただ確かめる必要がある気がした。


 気配を消し距離を保ったまま二人の後を追う。


 元スウィートピア港海軍大佐だった男にとって、素人二人の尾行など造作もない。


 二人の様子を観察する。


 セレナは周囲を警戒しながら歩いていた。


 無意識に、少女を庇う位置を取っている。


 一方で、少女の歩き方には妙な違和感があった。


 子どもらしくない。


 足運びに無駄がない。


 風に乗って、会話の断片が耳に届く。


 塔で何か手がかりを探すつもりらしい。


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に古い記憶が浮かび上がる。


 穏やかな笑顔。

 それでいて誰よりも揺るがない、あの聖女の姿。


 フロレンシア。


 ゼイルは小さく息を吐いた。


(……まさか)


 ありえない。


 そんな奇跡が、この街に起きるはずがない。


 ただの旅人だ。


 セレナが連れているだけの、どこにでもいる少女。


 そう自分に言い聞かせる。


 期待と絶望は、表裏一体だ。


 この二十年間で、思い知ったはずだ。


 同じことを繰り返すつもりはない。



 結晶の塔に着く。


 ゼイルは崩れた壁の影に身を潜め、二人の様子を見守った。


 少女が、ゆっくりと前へ出る。


 砕けた結晶石の残骸。


 かつてこの街を守っていた、聖女の象徴。


 少女の手が、それに触れた。


 その瞬間だった。


 光。


 足元の破片が、淡く輝く。


 まるで呼吸を取り戻したように、光が連なり、塔の断面へと伝播していく。


 一瞬だけ。


 ほんの一瞬だけ。


 結晶の塔が脈動した。


 ゼイルの心臓が、止まった。


 聖女にしか反応しないはずの結晶石が――


 光った。


(……聖女の力……?)


 ありえない。


 あの娘が?


 胸の奥に、激しい衝撃が走る。


 だが、その感情を、ゼイルはすぐに押し潰した。


 偶然だ。


 見間違いだ。


 そんなはずがない。


 希望など、もう信じない。


 ずっと昔にそう決めたはずだ。


 引き返そう。


 ここで見たものは忘れろ。


 自分に言い聞かせるように、そう考える。


 だが。


 どうしても視線が離れない。


 あの少女から。


 ゼイルは、深く息を吐いた。


 そして、影から一歩踏み出す。


 低く、渋い声が静寂を破った。


「……おい」


 ソラリスとセレナが振り向いた。


 ゼイルの片目が、静かにソラリスを見据えていた。


「何をしてる」


 そして、心の奥で――


 ゼイル自身もまだ気づいていない感情が、わずかに揺れていた。


 ――もしも。

 

あの光が、本物だったとしたら。

 

今さらそんなものを見せるなと、胸のどこかで思いながらも、ゼイルは目を逸らせなかった。

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