06 小さな塾の静かな授業
伊山は足早に駅を目指すと、電車に乗り込んだ。窓からは、のどかな風景が広がっている。田んぼや畑、遠くには名前も知らない小さな山々が、視界を流れていく。そんな景色とは裏腹に、伊山の心は落ち着かなかった。それは、子供が宝の地図を見つけた時の気持ちに似ていた。探し続けていた、自殺者をくくる共通項は、それまでぼんやりとした輪郭しか見せなかった事件の真相に辿り着く、唯一の道である気がした。
駅を出て10分程歩くと、『こじま学習塾』と書かれた大きな看板が見えた。それは、こぢんまりとした建物の脇に、不調和に取り付けられており、あまりにも不細工であった。伊山は塾に着くと、透明で重々しいガラスの扉を開けた。中は冷房が効いていて、汗で濡れたシャツが冷たく肌にはりついた。入るとすぐ左手に、看守室のようなものがあった。受付簿と、黒い糸でつながれた鉛筆。看守室の小窓からはみ出した台の上に、その二つがただ煩雑に置かれていた。
小窓は閉まっており、すりガラス越しに中を覗いてみたが、人の気配はなく、館内も静かだった。授業が行われている様子は無く、どこか薄気味悪い感じがした。
「夏期講習でもやっているのかと思ったが…」
伊山は何となく独り言を言った。鍵は開いていたのだし、休みということもないだろう。もしかしたら、夏休みは自習室の開放をしているのかもしれない。それならば、静かである理由も説明がつく。だとすれば、少なくとも一人は監督者がいるはずだ。そう考え、伊山は奥に目をやった。
看守室からは、奥に進む道と、2階へ続く階段とが見える。館内はレンガ造りでひんやりとした静けさを持ち、どこまでも無機質な印象を受けた。階段を登るのも面倒なので、奥へ進もうと考えていた伊山の背に、急に人の気配が現れた。
「何か御用ですか」
慌てて振り返ると、165センチ程度の肩幅の狭い青年が、片手にプリントの束を持ち、そこに立っていた。短く切り揃えられた髪と、キチンとした服装からは、神経質な性格が伺えた。年は20代後半といったところだ。その青年は、明らかに不審そうな目を伊山に向けていた。
「あぁ、すいません。実は、高下先生に少し用事がありまして」
伊山は工藤ゆかの母親から聞いていた名前を出した。唐突に声をかけられたからか、妙な汗が背を流れた。青年は少し目を見開くと、スーツ姿の伊山をじろじろと眺めて言った。
「もしかして、また警察の方ですか?」
その言葉は、警察の捜査が以前にここで行われたことを示していた。
「まさか。高下先生の生徒さんと少し、知り合いでして」
妙な警戒心を持たれることを恐れ、伊山は自分が記者であることを隠した。青年は、小刻みに首を縦に振りながら言った。
「失礼ですが、生徒というのは、誰でしょうか?」
伊山は、質問に答えようかとも思ったが、わざと相手のペースを崩すために、何となくそんな気のしていた質問をした。
「もしかして、あなたが高下先生ですか?」
「はい、そうですが。御用は何でしょう?」
高下は苛ついた様子もなく言った。伊山は、工藤ゆかの母親が言っていた『理知的』という表現に納得した。落ちついた様子と丁寧な口調は、そのような印象を与えるにふさわしいものだ。しかし、それが伊山にとっては、不気味であった。
多くの人に出会ってきたが、自分の感情を全く顔に出さないでいられる人はいない。感情を隠そうとすれば、不自然な表情になるものだ。しかし、高下の場合、表情が自然過ぎるのだ。彼の無表情には本当に感情が無い。そして、そこであるべき表情(例えば、不審な男をいぶかしげに見る)は逆に、作られたものなのだ。どこかちぐはぐで、話しながら、別のことを考えている様子も、その不気味さを強調していた。
「やはりそうでしたか。お会い出来て光栄です。今日は自習か何かですか。私が子供の頃なんかは、自習って言ったら、自由時間みたいなもんで、静かに勉強している子供なんていませんでしたよ。」
こんな風に次から次に言葉が出るのは、この数年の成果だ。人に会って、即席で最も利益をもたらす会話をしなければならない。そんなことを続けていて、自然と身に付いた技術だ。
「今日は基本的には休みなんですよ。ただ特別に開講している授業がありまして。そのために僕だけ出勤しているんです」
わざと質問を無視した伊山に、表情一つ崩さず、高下は答えた。伊山がここに来た理由は二つ。生徒について知ること。加えて今、目の前にいる青年についてだった。そこで、伊山は少し揺さぶりをかけてみた。
「なるほど。先程の質問ですが、工藤ゆかの親御さんと面識がありまして。あんなことがあったのに、塾は休まれないんですね」
これに対しても、あくまで高下は無表情だった。ただ、目じりを少し動かして、驚きを表現するふりをした。
「ええ、それで休みにしようと思ったんですが、希望者だけ募って今日のように、開講しているんですよ。なんせ勉強は止まってくれませんから」
そう言うと、高下は口角を少し上げて、作り笑いをした。この作り笑いに、伊山は吐き気すら感じた。気の利いたことでも言ったつもりだろうが、自分の生徒が飛び降り自殺したというのに、それを気にも留めていない様子は、もはや決定的な感情の欠落を意味していた。伊山は何となく恐ろしい気分にさいなまれたが、仕事と割り切って会話を進めざるを得なかった。
「授業があるにしては、やけに静かですね。」
「おとなしい子供ばかりで助かりますよ。申し訳ありませんが、資料を取りに出ただけなので、授業に戻らなければいけません。御用なら、あと20分ほど待っていただければ」
高下は、そう言うと、奥の教室に体を向けた。
「すいません、引き止めてしまって」
「いえ、構いませんよ。では、後程」
伊山は、足早に教室へ向かう高下の後姿を観察した。高下が扉を開けたので、その狭い隙間から、黒板と数人の子供が見えた。至って普通の光景だった。何も疑う余地の無い、普通の教室。
扉はゆっくりと軋みながら、その隙間を閉ざした。伊山は高下の姿を思い出して、鳥肌が立った。不気味な男だ。出来ればもう二度と話したくはない。
伊山は、塾を出て、その辺をブラブラして時間を潰すことにした。この暑さの中、外に出ようという気にさせたのは、あるいは、相手の牙城に長くいたくないという心理が働いたからかもしれない。
塾の周囲には、駅前であるにも関わらず、大きな建物はなく、近くに線路が通っているだけであった。2両編成の電車が伊山の前をゆっくりと通り過ぎた。伊山の乗ってきた方向とは逆に向かうその車両は、落ち着いたあずき色をしていた。民家からは、最小限必要な生活音だけが漏れ聞こえている。蝉の鳴き声がうるさく耳に付いた。右手には、山が連なって見える。そのどれもが、1時間ほどで登れそうな小さな山だ。
田んぼも多く見られた。太陽光を水面が照り返して、キラキラと輝いている。健康的な緑色の細い葉は、手を触れると切れそうな程力強く、まだ実ってはいないが、秋には黄金色の美しい稲穂を見せることだろう。伊山は細い用水路を越えて、田んぼを覗き込んだ。そこではおたまじゃくしやカブトエビといった小さな生物達が、せわしなく動いていた。小さな生物達は、さらに小さな生物を探している。小学生の頃は、よくこうして田んぼを覗き込んだものだった。いつしか、そんな遊びは、遊びではなくなった。人間が作り出した娯楽の刺激が、強くなり過ぎたのかもしれない。そんなことを考えながらのんびりしていると、首もとから汗がしたたった。伊山は我に返ると、立ち上がり時計を見た。外に出てから、もう15分ほど経っていたので、塾に向かって伊山は歩き出した。