05 彼は夏でもホットコーヒーを飲む
カラン。どこか鋭さに欠ける音が、扉の開いたことを告げる。
伊山は、工藤ゆかの母親と会う場所として、彼女の自宅から5キロ程離れた古めかしい喫茶店を選んだ。薄茶色に統一された店内には、立派な白髭を蓄えた老人がおり、コーヒー豆を煎っていた。その様子が店の雰囲気に似合っていて、落ち着いた空気を放っていた。どことなく漂うコーヒーの香りは、伊山を幸福な気持ちにした。きっと彼女の持つ遺族の悲しみも幾ばくか沈めてくれるだろう。そんな気がして、伊山は一人満足げに席についた。
話を聞くだけなら、電話でもよかった。しかし、伊山はわざわざ足を運ぶことで、相手に貸しを一つ作り、心理的に優位に立つ効果を狙っていた。遠方から出向いた相手に対し、無碍な対応は出来ないものだ。何としても、掴んだ手がかりを放したくはない。そこから得られる情報は、全て持って帰りたいのだ。
伊山が席について5分ほど経ち、彼女は現れた。黒い短髪の小綺麗な40代の女性だった。娘の自殺にまいっていると見えて、髪は傷み、表情に生気が感じられなかった。遺された者の持つ深い悲しみが、体のあらゆる所から流れ出ていた。そんな彼女がわざわざ伊山に連絡してくるにはそれ相応の理由があってしかるべきなのだ。そこに伊山は期待していた。
伊山は、彼女を確認すると、手を上げて、座っているテーブルへと招いた。
「アイスコーヒーでよろしかったですか?」
彼女は小さくうなずくと、右手に握り締めたハンカチで額の汗をぬぐった。店の外は強い日差しだったので、伊山も汗をかいてはいたが、彼女のそのしぐさを見るまではそんなこともすっかり忘れていた。そこで伊山はスーツの上着を脱ぎ、椅子にかけた。
「今日も暑いですね。お忙しい中、わざわざご足労いただきありがとうございました」
伊山は緩やかな口調で社交辞令を口にした。
「ゆかが、いえ娘がいなくなってからは、お葬式なんかの手配はありますが、正直時間を持て余しています」
「申し訳ありません。気が回りませんでした」
伊山は慌てて謝罪をした。ちょうど先程の老人が注文を聞きにきたので、アイスコーヒーとホットコーヒーを注文した。真夏にホットコーヒーを注文するのは、相手に強い印象を与え、覚えておいてもらうための伊山なりの方法であった。生まれつき誠実そうな顔をした伊山は、こと対人関係において、これ程便利なものは無いと感じていた。どんな詭弁も正直に受け取られるからである。しかし同時に伊山の顔は特徴に乏しく、相手に覚えられない面構えでもあった。そのため、それを克服するために伊山は昔から多くの方法を実践しているのだった。今回に関して言えば、彼女はそんなことに関心を抱く余裕すら持ち合わせていなかったのだが。
「娘がいなくなって、ちゃんと遺体を見ても、まだ娘が、その…」
「無理もないです。事件の直後ですし」
彼女が言葉を躊躇うのを見て、すぐに伊山はそう言った。彼女はまだ、娘が亡くなったことを信じたくなくて、『死んだ』という言葉を使うのを拒んでいる。『死んだ』と言えば、それを認めたことになるからだ。
「ところで、先日連絡していただいた用件なのですが」
伊山はタイミングを見計らい、本題に入った。個人的には慰めてやりたい気持ちは山々なのだが、今はそうはいかない。目的をはずれ、私情に動くことは仕事において避けなければならないことなのだ。
「あぁ、すみません…連絡させていただいたのは…実は、娘が飛びおりた原因に、少し思い当たることがありまして…
警察の方にもお話したんですが、娘を半年前から塾に通わせたんです。娘は、明るく元気に育ってくれたんですが、どうも成績が思わしくなくて、近所の塾に通わせることにしたんです。初めの内は…娘も新しい友達が出来たって、喜んでいました。勉強にも、興味を持ってくれたみたいで…娘は熱中すると、周りが見えなくなる性格なので、成績もすぐに伸びました。だから私も、塾に通わせてよかったなって心から思いました…」
テーブルにホットコーヒーが運ばれると、初めて彼女は、少し表情をほころばせた。
「暑いのに、ホットコーヒーなんてよく飲まれますね」
「友人にも変わっていると言われますよ」
伊山は表情を崩して、笑顔でそう返した。コーヒーに口をつけながら、彼女の様子を伺った。彼女はアイスコーヒーに何も入れず、細いストローでかきまぜたきり、手をつけなかった。伊山はそんな様子を見て、カウンセラーのように落ち着いた口調で言った。
「すいません、続きを」
「あぁ、すみません。…それで、続きなんですが、2ヶ月ほど前から、娘に少し変化がありました。陰気な…と言いましょうか、何となく、伏し目がちになって…前までは楽しそうに学校や、友達のことを話してくれたのに…その頃からほとんど口もきかなくなりました」
彼女は、その時のことを思い出したのか、悲しみを滲ませた。
「私があの時に、娘を助けてあげていたら…そう思うと…気付いていながら、それを見過ごしていた自分が悔しくて…」
彼女は絞り出すように声を出した。涙が彼女の目から零れ落ちる。彼女はハンカチを目元に運ぶと、さっと涙を拭い取った。
「無理も無いですよ。今回の事件は私だって驚いています。未だに信じられないというのが正直な意見です。予測できるはずもない」
伊山は心からそう思っていた。例えば伊山の母親に異変が訪れたとしても、多忙を理由に見てみぬふりをするだろう。人はいつも失って初めて大切なものに気付く。それと同時に、自分が従事していたものの愚かしさに気付くのだ。仕事を始めた人間なら、誰もがそうなるのかもしれない。人生にとって最も大事なものが別の場所にあるのに、それに気づかず、いつしか煩雑な日々に埋もれていくのだ。もしかしたら、人生は真っ直ぐな道なのかもしれない。寄り道や蛇行を繰り返してやっと辿り着く場所、それは初めから一直線に見えていたゴールなのだ。
伊山はそんなことを考えながら、彼女の微かに揺れる肩を何となく見ていた。よく見ると白い洋服には、煌びやかなラメが散らしてあり、傷んだ髪と不釣合いな印象を受けた。
「私は真っ先に、塾でいじめられているんじゃないかと思いました。それで一度、塾の先生にもお会いしたんです。非常に聡明…というか理知的な方でした。まだ20代に見えるのにしっかりしていて、教え方も上手なのだろうな、と思いました。
いじめについてもお伺いしたのですが…そんなことは無いとはっきりおっしゃられました。それでもやはり気になったので、授業の様子を見せていただけないか、と先生に頼みました。先生は快く了承してくれました。授業も、休み時間も見せていただきました。そのどこにも変わった風は無く、娘が友人と話をしているのを見ても、いじめられているようには見えなかったんです…勿論、私が見ている、というのは秘密にしてありましたので、生徒達が演技をしているということも無いでしょうから…」
先生が彼女に内緒で、生徒達に周知している可能性もあるが、いじめが無かったことは伊山も調査して明らかにしている。怪しい点は無いように思われたが、思い込みは調査において最大の敵だと思い直し、注意深く彼女を観察した。
「何か気になったことはなかったですか。本当にささいなことでも結構ですから」
伊山は少し、感情的に言い放った。それが少しでも、彼女の心に触れれば、何か新しい情報を聞きだせるかもしれないと考えたからだ。
彼女は、頭の中にある記憶の断片を集めた。必死に思い出そうとすればする程、情景はぼんやりとその輪郭を曖昧にした。コーヒーの中に浮かんでいる氷が、溶けて小さな音を立てなければ、彼女は何時間でもそのまま黙り込んでいただろう。
「そういえば…塾の生徒は皆、ノートをほとんど取っていませんでした…外から見ていただいただけなので、声はあまり聞こえなかったんですが…。それに…黒板もあまり使っていなかったと思います…。でも…皆真剣に先生のお話を聞いていました」
やはり重要な要素は無いように思えた。板書せずに、口頭で済ます教師はいくらでもいる。何も珍しいことではない。
「なるほど、ありがとうございました。それが娘さんの自殺に、少なからず関与しているとお考えになられたんですね」
念の為、塾でヒアリングを行おうと思い、伊山は場をまとめた。
「そうだ、忘れていたわ!」
彼女は急に顔を上げて言い放った。伊山は驚いて、彼女の顔に目をやった。まるで、神の啓示でも見たかのような表情をしていた。彼女は早口に次の言葉を紡いだ。
「自殺した子供達、実は皆、あの塾の生徒だったんです!」
伊山の思考は一瞬止まり、すぐに雷鳴が轟いたような衝撃を受けた。時間にして数秒だったろうが、様々な考えが頭をよぎった。
この言葉が真実なら、ずっと捜していた自殺者の共通項が見つかった。彼女は、警察にもこのことを話している。それはつまり、警察は既にその塾の捜査を進めているということだ。
伊山が黙っているのを気に留める様子も無く、彼女は話を続けた。
「娘が飛び降りたことを、一応塾の先生にご報告しようと思ったんですが、電話が繋がらなくて。仕方なく塾に伺ったんです。先生は別の方とお話されていたんですが、話の内容から、その方が、飛び降り自殺をした子供の母親だと分かりました。塾を出てその方とお話することになったんですが、その方がそうおっしゃっていました」
「警察には、いつ頃その話をされましたか」
「警察の方が来られたのが、5日ほど前だったので、その時にお話ししました。でも、それから何の連絡もいただけなくて…。何も見つからなかったということなのでしょうか」
話したのが5日前であれば、現場の捜査は既に行われているはずだ。捜査状況を遺族に逐一報告するようなことはしないまでも、全く連絡が無いということは、現状有力な証拠が発見されていないからだ。しかしそれはあくまで警察の捜査で、ということだ。警察は憶測だけで行動に出ることは許されない。確証が得られるまでは、何一つ見つかっていないのと同様なのだ。しかし伊山は違う。一見、事件と無関係な手がかりであっても、それを突破口にすることが出来る。例えそれが間違っていたとしても。
どちらにせよ、その塾以外に調べるべき場所は伊山には残されていない。その塾は伊山にとって、事件の真相に行き着く、か細い蜘蛛の糸なのだ。
「警察の捜査ではまだはっきりとした証拠は見つけられていないと思われます。しかし、何らかの手がかりがそこにあるかもしれません。塾の住所と先生のお名前を教えていただけませんか」
「湯佐市の…住所までは分かりませんが、ここから電車で1駅の『藤見』という駅の近くです。名前は、『こじま学習塾』。そこの高下先生という方です」
伊山は黒く光沢のある手帳を開けると、その1ページに乱暴にそれを書き込んだ。小さな手帳を閉じ、鞄に放り込むと、ホットコーヒーをグイと飲み干した。舌の上に流れ込んだ熱さえも感じない程、伊山は興奮していた。彼女は、その様子に一様の驚きは見せたが、すぐに自分の与えた情報が有効であったと確信し、やっと落ち着いて、コーヒーを飲み始めた。
伊山はテーブルの端に置かれた伝票に目をやると、千円札を1枚、従業員に渡した。
「お釣りはいらないから」そう言うと、かけておいた上着をわざとゆっくりはおり、彼女がコーヒーを飲み終わるのを待った。
彼女はコーヒーを半分ほど飲んだ所で、伊山の目を見て言った。
「ゆかの飛び降りの理由が知りたいんです。それを知ることが、私にも、そしてゆかにとっても大事なことなんです。お願いします」
その表情には、自殺の動機を知ることで、死んだ娘が帰ってくると信じているような、母親の顔があった。そんな様子に伊山は、哀れみすら感じた。彼女の服に縫い付けられたラメと、傷んだ髪先を見比べて、伊山は言った。
「今日お話いただいたことは、もちろん誰にも話しません。力になれるよう尽力します。ですから、奥さんも今日話したことは、これ以降他言なさらないで下さい」
彼女はそれに力強くうなずき、少し笑顔を見せた。伊山が立ち上がるのを見ると、彼女は残ったコーヒーを飲み干して急いで立ち上がった。
店を出ると、彼女は伊山に小さく頭を下げた。
「タクシーでも捕まえましょうか」
伊山はそう言うと、往来に目をやった。
「ありがとうございます。でも、結構です。この辺は、タクシーも少ないですし、歩いていると、少し気持ちが落ち着くんです。駅はこの道を真っ直ぐ行って、突き当たりを右です」
伊山は、軽く会釈をすると、駅へと向かった。伊山が歩き出しても、彼女はそこを動かなかった。伊山は急いで右に曲がると、やっと彼女の歩き出す靴の音が聞こえ、安心した。
彼女はただ、願っている。事件の真相を知ることを、そして娘が帰ってくることを。それがもはや叶わない願いだと、心のどこかで知りながらも。




