ミゲル・ランゲル
カテドラルという大聖堂が、鐘を鳴らした。
嵐に切れ切れでも、ちゃんと響くものだ。
これは日付を越えた事を意味する。
カーテンの向こうで、おびただしい雨粒が窓ガラスを打ち付けている。
窓の外では、一体何が起こっているのか?
海自体がせり上がって、防波堤を乗り越え、街を襲っているのか。
濁流となってテラスや土産物屋を破壊して、海にさらうのか。
台風が樹をなぎ倒すように、コロンブスの塔でもぽっきり折っているのか。
まあ、これは僕の妄想に過ぎない。
実際の所は、ただの激しい風と雨なのだろう。
それでも、嵐の闇は凶暴だ。
そして、窓ガラス1枚が、僕らと闇を隔てている。
布と硝子の向こうに思いをはせながら、ふと思う。
―この部屋と、嵐の外なら、どちらが酷いのだろうか? ―
僕は床に視線を落とす。
床には、ちぎれた指が、大量にばらまかれている。
夜明けの新宿の路上を思い出す。
あそこは吸い殻だらけだ。
骨たちは白く細かく砕けていた。
それらの先に、点々とこびりつく肉は黒く焦げている。
強烈だったアンモニア臭はなりを潜めて久しい。
代わりに、火葬場で嗅ぐような煙が薄く立ち込めていた。
この臭いも散らばる骨肉も、僕らの拷問の結果だ。
もう何回目だろうか?
先輩が彼の節々を吹き飛ばし、僕が再生させる。
この繰り返しは、酷く心にくるはずだ。
……ひどく、惨い事をしている。
けれど、それが村であり、僕らは村人なのだ。
つまり、悪の組織の怪人である。
「褒めてやるよ。感心している。世界ってえのは、本当に広いな」
先輩の声は穏やかだ。
苛立ちの欠片もない。
彼女はベッドの縁に腰かけ、スプリングに身体を揺らしていた。
そのたびに、黒髪の光沢が煌めく。
照明は残酷なほどに明るい。
ベッドのシーツ、床に散乱する悲惨の輪郭を、くっきりとさせている。
男はうずくまっていた。
先輩の言葉を受けて、四肢に力を込める。
衝撃に備えているのだろう。
彼の予測は正しい。
優しい言葉の後には、爆破が来るからだ。
鼻、耳、指、唇、膝、足首、またはどれでもないどこかが、光と共に喪われる。
もう、余計な抵抗は無い。
無駄だと分かっているからだ。
この部屋は、フェラン通りの一角にある。
ここはスペインで、バルセロナだけれど、室外に通じるドアは、フランスより遠い。
それほど隔絶された、拷問の場なのだ。
僕は目を背けた。
狐は、ヒトの不幸に弱い。
不死身なのはいいけれど、随分と面倒くさい因果だと、我ながら思う。
「硬くなんなよ。顔を上げろ」
男は顔を上げなかった。
それが抵抗なのだろう。
「九虚、てめえが硬くなってどうする」
正論が飛んできたので、すいません、と謝る。
先輩は軽くため息をついて、肩をすくめた。
ブラックコートに皺と光沢が入る。
「今日、いや、鐘が鳴ったからな。もう、昨日のことだが、お前に接触してきた男の事が知りたい。手首に逆十字の刺青いれてる奴だ。もう、何回も言うけどよ、俺らが欲しい情報は、これだけだ」
男は答えない。
志骸先輩は、うつむく。
深いため息をついてから、ちぎれた指だらけのベッドから腰をあげた。
「……なあ、ミゲル・ランゲル」
男は顔を上げた。
その目は見開かれている。
「何故」
口が笑ったような皺を作る。
声はかすれている。
「俺が何故、お前の名が分かるかって? そりゃあ、日付またぐくらい、一緒にいるんだ。お互い分かることだってあるだろう」
彼女はそういって、ミゲルの前を横切り、洋服箪笥の前に立った。
上から2段目の棚を開き、中の服をかき分ける。
現れた木製の底を爆破。
書類の束が現れた。
この箪笥は2重底だったのだ。
男が立ち上がる。
膝が爆破される。
この2つは同じ刹那だった。
彼は床で、自分の一部だった指、手、腕、踵や耳にまみれながら、もんどりを打つ。
「お互い大人なんだ。言葉でやりとりしようぜ」
先輩は、そう言いながら、手元の書類をぱらぱらとめくった。
……記憶しているのだ。
「九虚、治してやれ」
「はい」
ミゲルの治療が終わるまで、先輩は無言だった。
黒いコートの端をひらめかせ、幼い足が軽いステップを踏んでいたくらいだ。
こういう彼女は美しい。
例え、黒こげの肉片や、おびただしい人骨の上でも。
あるいは、だからこそ、美しいのかもしれない。
「顧客リストだろう」
先輩の問いに、ミゲルは答えなかった。
失礼な行為だ。
けれど、光球は炸裂しない。
「俺は油赤子だからな。こんなナリでも、それなりに、ここには自信がある」
彼女は人差し指で、こめかみを指した。
そして続ける。
「だからお前の部屋も分かった。何、そんなに難しい話じゃない。踵の減り方がだな、ちょっと他より違ってたってことだ。バルセロナはいい街だよなあ。旧市街なここら辺も、お綺麗なヨーロッパって感じになって来てる。俺は好きだぜ。この街がな。魚もオリーブオイルも美味い。5年前に一回仕事できたんだがな、そん時より変わってる。不況不況つっても、金は回ってるんだなあ。だが、このアパートは違う。ま、住んでる奴らが、ほぼホームレスとか、てめえみてえな屑野郎だ。ああ、屑野郎ってのは親しみを込めていってるんだ。あまり気にしないでくれ。とにかくここは階段もガタガタだ。妙な場所だけ狭い、ヘンちくりんな作りだ。壁だってぼろいしなあ。つまり、住んでりゃ埃まみれにもなるし、ベルトだって壁にこすれる。靴だって傷むよな。つうわけで、てめえは毎日街角に立ちながら、俺はフェラン通りのどこどこのなになにアパートに住んでます、て自己主張してたわけだ」
「俺は吐いてない……‼」
遮るように言った彼の語気は強かった。
それは潔白の訴えと言っていい。
声にも気配にも、怒りはなく、代わりに焦燥があった。
先輩は、満ち足りた笑みを、口元に浮かべる。
僕は彼女の笑みに、母親を連想した。
子供が100点を取って帰ってきた時に、母親という生き物は、こういう笑みを浮かべるのだ。
「そうだ。お前は吐いちゃいない。拷問にも耐え切った。無駄だと分かるまでは、逃亡も試し続けた。お前はタフな男だ。俺はそういう男が好きなんだ。だから、もう一度お願いしようと思う」
志骸先輩はそこで一度言葉を切り、じっとミゲルの瞳を覗き込んだ。
「昨日、お前に接触してきたヤツの事を教えてくれ。手首に逆十字の刺青いれてる奴だ」
「何故」
「ん?」
「何故、娘を脅しに使わない? あんたなら、分かるだろう? 誰にも言ってない本名が分かるんだ。拷問よりそっちの方が、俺にはキくってわかるはずだ」
僕はびっくりした。
ミゲルが、流暢に話している。
治癒直後の澄んだ目のまま、真っ直ぐに先輩を見上げている。
腰を肉片だらけの床に下ろしている。ゆるく曲げた膝を抱えている。
先輩は華奢な肩をすくめて、首をかしげた。
幼さを残した頬に、黒髪がかかる。
「さあ。分かんねえ。ガキを殺るのは趣味じゃねえし、できればそっちは触れないでおいてやりたかった。そんだけだ」
「優しいんだな」
志骸先輩の瞼は、少しだけ大きく開いた。
漆黒の瞳が存在を増す。
それから、楽しそうに笑った。
「女ってもんは、基本、男にはヤサシイもんだ。タフな男には、特にな」
「そうか。まあ、どのみちあんたなら全部知るんだろう?」
「手順の問題だけどな。犠牲者の数とも言える」
「俺が吐いたら、どうせあんた俺を殺すんだろう? ただ、ちゃんと吐いたら、娘はほっといてくれる、のか?」
彼の声色は、真摯だった。
精一杯の哀願があり、僕は胸を痛めた。
先輩は微笑む。
瞼は柔らかく、薄く落ちる。
黒々とした長いまつ毛が、存在を増した気がした。
「そのつもりだった。てめえも、お仲間も全員ぶっ殺して、ガキどもはほっとくつもりだった。だが、気が変わった」
男の瞳が、絶望に濁る。
先輩は首を横に振った。
「勘違いすんじゃねえ。ガキに手は出さねえ。必要がねえからな。お前が今、洗いざらい吐けば、『お前は』生かしてやる」
「……対価は? 吐くだけじゃ足りないだろう。俺は、何を犠牲にするんだ?」
彼の言葉も瞳も、真剣そのものだったが、先輩は吹き出した。
しばらく、ブラックコートの腹を押さえて、笑う。
「……は、は。お前、俺らを悪魔かなんかと勘違いしてねえか? 俺らはなあ、ただの工作員だ。妖怪の血筋だがな。で、そうだな。対価といっちゃなんだが、この部屋のオリーブオイルは美味い。いい仕入れ先があるんだろう。教えてくれ。後、そうだなあ。こっちが本筋だが、ミゲル・ランゲル」
そこで、先輩は一度言葉を止めて、彼の瞳をじっと覗き込んだ。
「……俺に雇われろ。俺たちは敵を根こそぎ滅ぼす。そういう生業だ。だが、必要な奴は生かす。協力に応じて謝礼もする。2億までなら俺も動かせる。まあ、日本円だがな。ジンバブエ・ドルよりはましだろう?」
ミゲルの気配が、絶望と緊張が、解けた。
僕も胸を撫で下ろしかける。
けど、堪える。
そういう立場ではないからだ。
「……ありがとう。あんた、いい女だな」
「よく言われる」
ミゲルは少し微笑んで、白い天井を見上げた。
それから、おもむろに目を閉じる。
「変な客だったよ」
彼の独白は、この言葉から始まった。




