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愛は深く、優しく

 男の瞳は暗かった。

 気だるい無力感は、人を蝕む。

 諦めと言ってもいいかもしれない。

 

 昔、東北の漁村で、朽ちた船を見たことがある。

 船の形だった鉄は塩に赤く腐食していた。

 それは、めくれ剥がれた塗装を起点としていた。

 人もそういうものなのだろう。


 希望を喪う時に、人の腐食は始まるのだ。


 

 ……彼に集中する。

 気の循環を把握。

 先輩が吹き飛ばした、耳や鼻の先、色々な関節。

 それは表面に過ぎない。


 もっと体の奥の奥に、痛みが巣食っているはずだ。

 麻薬は心を蝕む。

 蝕まれた心と共に、やがて体も崩れていくのだ。

 人は弱い部分から濁り始める。


 目の前の彼には、濁りしかない。

 昔は強く澄んでいたのだろう。

 きちんとたたまれた服、埃の付着していない、写真立てが、それを物語っている。

 その習慣は、堕落した彼の中に残る光であり、痛みだ。


 僕は光に集中する。

 この後の運命など考えない。

 ただ、目の前の彼を、深く優しく、想う。

 

 もう一度、立てますように。

 安らぎが、つぎの一時に、ありますように。

 酷く傷ついた彼の心に、光がありますように。


 僕の中で、願いの言葉は反響を繰り返し、それは無限の願いとなった。やがて、全ての想いは、気功という力に集約する。


 ……長々と書いているけれど、要は目の前の彼に、『治って欲しい』と願っただけなのだ。

 でも、その願いに混じりけはない。

 これは純粋な祈りだからだ。


 

 ……彼の瞳孔が収縮した。

 死の闇は瞳から去った。

 虹彩は、20代半ばの男を映し始めた。

 随分と涼やかな瞳をした男だ。

 

 随分と呑気な男だな、と思ってから、それが僕だと気づく。

 全力の気功は、軽い陶酔、忘我を伴う。

 これは狐の因果だ。

 まあ、狐に限らないけれど、村人は因果の力を振るう時、快楽を感じる。そういうふうにできているのだ。


 そして、治癒を施した相手に、強い愛着を持ってしまう。

 これは、因果の副作用だ。


 これは敵味方関係ない。

 そもそも、誰かを慈しむことに、深く優しく思うことに、立場なんか関係ないのだ。


 だから僕は麻薬売買人の回復を知覚して、とても喜んだ。

 でももちろん、顔には出さない。


 吹き飛ばされた両耳の赤黒い断面。

 光球に抉られて、鼻腔が縦に2つ露出した鼻。

 関節に開いた穴。

 こういったものは全て、修復されていた。

 

 つまり、耳の無かった場所には、ちょっと上に尖った耳があった。

 もげていた鼻には、少し垂れた先が甦り、全ての空洞は埋まって、新しい骨と肉となっていた。

 そして、再生された肉を、骨を、傷の無い白い肌が覆う。

 その白は、照明を照り返していた。


 

 これを目する人は、あり得ないと思うかもしれない。

 そんな気功などあり得ない。と。これは聖書級の奇跡だ、と。

 でも、これが僕の因果だ。

 

 おそらく、僕の能力は、傷口付近の細胞の、脱分化を促すのだ。

 そして、胎児が持つのと同じ細胞にする。

 これを幹細胞という。

 京都大学の教授が、この細胞の研究をしている。

 そのうちノーベル賞を取ってくれたら良いなと思う。


 この幹細胞の増殖、分化を、狐の因果は促す。

 ただし、この因果はあくまでも気功である。

 気という、呼吸を使用した治癒なのだ。

 つまり、死人には効かない。

 死人は息をしないからだ。


「気分はどうですか」

 僕は尋ねる。

 最高だろう、と思う。

 だって、彼の瞳からは、一切の濁りが消えていたからだ。


 堕落も諦めも倦怠も、その瞳には無かった。

 パウロという男を思い出した。

 新約聖書の男だ。

 キリスト教狩りの主催者だった。

 狩りの途中に、神に目を潰される。

 色々な場所をさまよい、やがて神の許しを受け、視力は回復する。

 その時の瞳も、こんな感じだったのだろうか。


 色々な物の輪郭が、とてもはっきりしているのだろう。

 酒瓶、腐ったチーズ、それに吐瀉物すらも輝いて見えるはずだ。

 それは幼子の瞳が、世界に光り輝くように。


 何よりも、写真立てに収まる娘。

 目をマジックで隠された妻。

 彼らはより、煌めきを増して見えるのだろう。

 これは救いだ。

 彼にとっての、救い、なのだ。


 

……彼の瞳は潤んだ。

 そして、潤んだまま、枕元の注射針に、さっと手を伸ばす。

 柄を掴んだ。

 そのまま、僕の眼球に針を突き立てた。


 この時、僕は安心と悲哀を覚える。

 良かった、と思った。

 僕がどんなに深く、優しく愛そうが、そんな事は関係が無い。

 彼は麻薬売買人で、僕は敵だ。

 敵は敵らしく振る舞ってくれた方が、安心する。

 

 悲哀は、彼のこれからについて、だ。


 僕の眼球に金属を突き立てた彼は、更に強く、注射針を押す。

 針は眼球を圧迫し、突き抜けて、視床下部に届く。


 すかさず彼は立ち上がり、その刹那に僕を突き飛ばした。

 

 僕の視界は半分になり、天井の白色電球を向く。

 眩しい。

 そのまま仰向けに倒れて、のけ反る。


 逆さまの視界には、扉に駆け出す男。

 その両足首が大きめの光と音に飲み込まれ、吹き飛んだ。

 


「ま、努力は認めてやる」

 先輩は、彼にしゃがみこんで、そう言った。

 その声も、表情も意外と優しい。

 

 男の顔は見えない。

 ただ、色々な物で汚れた床を、這いつくばっている。

 足首が喪われたのだから、這う事しかできないのだ。


 志骸先輩は、柔らかく、その瞼を落として、微笑む。


「オレは行動力のある男が好きだ。だから、お前は嫌いじゃない。けど、残念だったな。もう、ここはモンデュウイックなんだ」

 

 モンデュウイックは丘だ。

 バルセロナの街を、西に浜を描く地中海を、南から一望できる。

 一部の斜面が墓地となり、死者の名残に覆われている。

 フランコ独裁以前の内戦では、ここで酷い拷問が行われた。

 


 男は答えない。

 先輩は苦笑して、僕に視線を投げた。


「だよな、九虚。ここは、もう、モンデュウイックだよな」

「はい」

 僕は返事をする。

 ついでに、注射器も眼球から抜いた。


 刹那、男の体が痙攣する。

 這いずる形から、ごろんと仰向けになる。


 それから後ろ手をついて、上体を起こす。

 窪の深い眼は見開かれている。

 その視線の先には、僕がいた。

 男は悪寒に震える。


「……化け、物」

 その声色には恐怖があった。

 異常な現実に、人は恐怖を覚えるものだ。

 それはとても生理的なものであり、彼を責めることはできない。


 でもちょっと僕は少し安心した。

 こういう、あからさまな(おのの)き、拒絶の方が、楽なのだ。


 心の整理がつけやすいからだ。どういう罵倒を受けても、僕は彼を嫌いにはなれない。

 それが、人を深く愛する狐の(さが)なのである。

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