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黒疫(くろえ) -異能力者たちの群像劇―  作者: くろすろおどtkhs
多濡奇(たぬき):現在まで
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最悪な2択

 割り当てが行われた。

 境間さんの抑揚は彼の心音と共に終始穏やかだった。

 声の響きだけならとても穏やかな気分になってしまえるのが、境間さんの不思議なところである。

 助役さんはウィスキー工場が似合うと思う。

 そこで醸造の手順とかを説明してもらえたら完璧なはずだ。

 


 わたしはベネズエラに赴き、不悪(おず)を継ぐ草を探す事になった。

 航空券とパスポートとUSBメモリを貰う。

 この航空券でわたしは、成田からニューヨーク、マイアミを経由して、カラカスに入る。


 パスポートには綿貫雫(わたぬきしずく)という女性の名前と、わたしの顔写真が載っていた。

 ちょっと疲れている顔だ。

 もうちょっと若々しくても良いのに、とへそのどこかが曲がるのを感じる。


 後で確認するようにと渡されたシガレットっぽいUSBには、わたしの偽の経歴と新しい就労先の情報が書き込まれているとのことだ。

 ちなみに海外青年協力隊、業務は栄養指導。


 ……まあ、それはそうだ。逆忌(さかき)さんが殺されたのだ。

 ベネズエラのアマゾンに観光ビザでいきなり飛んで、薬草を探すのはいいけれど、敵さんの目について不意打ちを受けてデッドエンドでは目も当てられない。

 

 大人しい女に擬態して偽の業務を忠実にこなしつつ、薬草と敵に関わる情報を集める。

 いわゆるスリーパーが、一番成功の確率が高いというものだ。


 というわけで、わたしの表の職業は、遊園地の着ぐるみ係から、南米はベネズエラの海外青年協力隊の栄養指導員に変わることとなった。


 この決定に、わたしは少なからずの安堵と(かす)かな失望を覚える。


 安堵は奈崩と組まずに済む事。

 この最悪を回避できた事は大きい。

 だって、この男と組むと、わたしの最悪の過去、友の喪失とかそういうものが常に(えぐ)り出される事になる。

 わたしの歌はどこかで臨界を迎えるだろう。

 それは駄目だ。


 ちなみに、奈崩はモスクワに飛ぶ事になった。

 十三聖教会(ジュダス)という東方教会系のカルト教団に喧嘩を売るらしい。

 この男にふさわしい、分かりやすい任務だ。

 暴れるだけの簡単なお仕事。


 失望は九虚(くこ)君と組めない事。

 色々な経緯(いきさつ)の結果、わたしは彼に安心を覚えるようになった。

 これはとても珍しい。

 ここまで気を許せたのは、今は亡き、嘘月くらいかもしれない。

 いや、気を許す、とかではない。


 何というか自分でもよく分からないし、この時はこの感情について考える余裕もなかった。


 ちなみに、九虚君は志骸(しがい)と一緒にスペインに飛ぶ事になった。

 カルロスさんの追跡任務に従事する。表向きは留学生で、志骸は彼の娘という設定だ。


 この設定を告げられた時、二人は露骨に嫌な顔をしたし、それは彼らが刻む心音からも感じ取れた。

 まあ、そうだろう。

 24歳の九虚君は4歳上の28歳になり、志骸は12歳の外見のはずなのに、3歳若い9歳になってしまったのだ。

 

 さすがにこれは無いと思う。

 けれど、境間さんは彼らの不満を、悠然としたほほ笑みにふした。


 この人の有無を言わさない感は、さすがはエキセントリックの権化たちが集う村の助役さんだけあって、他のあらゆる追随を許さない。

 

 まあ、外国人から見たら日本人は若く見られるし、サングラスがデフォな九虚君はとても感じが悪いので、妥当といえば妥当なのだろう。

 それは任務も。

 だって、逆忌さんは学者さんの追跡中に屠られたのだ。


 正体の分からない敵さんに襲われる可能性なら、彼が一番高い。

 そして無条件治癒能力者の彼なら、初撃を生き残れる可能性だってとても高いのだ。

 志骸も9歳児という見た目を十分に使って、彼をサポートできるのだろう。

 内心の苦虫とは別にして、彼女はちゃんと仕事をする子なのだ。でなければ境間さんは彼女を選ばない。


 説明を一通りしたしめくくりに、わたしたち一人ひとりに順々語り掛けるみたいに視線を合わせながら、境間さんはこう言った。


「この配置が一番の生存確率なのです。皆さんの誰が欠けても、確率は大きく下がります。ですからお互いに敬意をもって、過ぎ去った事は脇に置いて、全力を尽くしてください」

 奈崩に殺された彼女の事を言っている、とわたしは思った。

 歌を我慢する代わりに涙が視界をぼやかす。それは、膜がかかったみたいに。


 そうなのだ。

 わたしはまだ整理がついていない。

 月日は記憶の輪郭をぼやかすだけで、芯は、その鮮烈と言えるほどの痛みは、わたしを常に抉り、傷からは膿が垂れ続けている。


 それが事実だ。

 わたしは目を背けているだけで、手際だけが、良くなっただけなのだ。

 

 それでも、100年後の子供たちのために、わたしは過去を脇に置いて全力を尽くそう。

 

……と、わたしは強く決意をした。



 説明会が終わると陽は既に暮れていた。

 横浜駅で解散となって境間さんは薄闇に消えた。

 志骸も奈崩も人混みに消える。


 奈崩は、できるだけ視界に入れたくないので、これはありがたい。


 わたしは東横線に乗って、連泊しているホテルに向かう。

 方向が一緒だったので、九虚君が途中まで一緒に、並んで揺られたりしてくれたので、デートっぽいと思ったりした。


 彼は漫画を連載していた編集部に、最後の挨拶に向かうそうだ。

 アパートは既に引き払っているらしい。

 これはわたしもだ。

 5年間住んだアパートに、わたしという形跡は無くなっていた。

 のみならず、賃貸会社の記録、戸籍や、雇用保険の記録も消去されている。


 つまりわたしという多濡奇ではないヒトは、記録上はもうどこにもいない。

 これは海外案件に飛ぶ村人の通過儀礼的な物事だけれど、ちょっと寂しい。


 まあでも、記録に残らなくても記憶には残っているから、いいかな。

 とか、オリンピックの敗戦の弁みたいな事を九虚君に話したら、静かに(さと)された。


「記憶でも記録でもなくて、俺たちが残し続けるのは、実績です」

 なんというか、随分と前向きな子だと思う。

 見た目と大違いだ。


 でもその前向きさが鼻につかないのは、心からの言葉だからだろうな。

 彼の降車駅の案内が流れた時に、今夜はどうされるんですか、と訊かれたので、わたしは少し迷ってから、ひいきにしている大学生君のライブに行くの、と正直に答えた。


「うまく行くといいですね」

 と、彼が優しく言ってくれたちょうどその時に、わたしは停車の慣性と、よく分からない寂しさを感じた。


 彼は迷いなく下車した。

 そして、電車のドアの向こうから会釈をしてくれる。

 その彼に小さく手首の上を振る。

 電車は、わたしたちをひきはがすみたいに、再びゆっくりと動き出した。


 わたしは視界から消えて行く九虚君の残像に、何故かため息をつく。

 色々と疲れたなあ、と思いながら、とりあえず、趣味のひよこの被り物をかぶり、遮られた視界と相変わらずの電車の揺れに、眠気を覚えているうちに、目的駅に着き、降りる。


 裏路地を歩いて、ライブに向かう途中に、物体の急速な接近を、薄暮れた上空に感じた。


 闇が濃くなる気配。

 いや、闇ではない。もっと不快なものだ。

 聴覚のみで把握が可能な、あからさまな接近。


 ビルとビルの間を、林間を跳ねるみたいに粗く踏みしだいて、それが来ることを示す、耳に(さわ)る音に、わたしは眉をひそめながら、(うなじ)を反る。


 電線が緩いタコ糸みたいに無気力に交差する暗い空に、奈崩がモモンガみたいに両手を広げていた。


 目が合う。

「よお」

 ひだる神はわたしの前のコンクリートに重く着地して、向き直り、口の端を醜く歪めた。

 

 筋張った肉が肥大した体躯と、白い(たてがみ)のような長髪が、路地に光を与えている。

 なのに、コンクリートの隙間に(よど)む汚水とか、どぶに沈殿するヘドロが螺旋を描きながら気化して空間に充満するような、暗い不快をわたしは覚える。


「さっき別れたばかりじゃない」

「感謝しろよぉ。多濡奇ぃ。てめえはよぉ、俺とヤリたいんだろぉ?」

「……はぁ?」

 わたしは眉のかしらを軽蔑に歪めながら、首を傾げた。

 訳が分からない。

 そんなわたしに、奈崩は胸を張った。それは得意げに。


「有名だぜぇ。てめぇが、案件仲間と、ヤリたぐぁ……っ!!」

 対象が言葉を吐き切る前に、わたしの左右の拳は3発ずつ、つまり合計で6発、その眉間から人中に続くラインに命中していた。

 骨が砕ける感覚。

 でも大丈夫。このひだる神は大人だ。

 少しくらいの重症なら、ヨーグルトで回復する。

 だからこの男の関節という関節、骨という骨を粉々に砕こう、と、わたしは思った。


 でもこれはいささかの誤解を招く物言いかもしれない。

 わたしは特に奈崩に怒っていたわけではない。


 怒りというものは、基本的に何かの裏返しだ。

 この場合なら、羞恥とか。

 案件仲間と寝まくる尻軽女であることに、羞恥を感じ、その裏返しとして激しく怒る。

 これは自然な心の動きだ。


 でもわたしは別に、自分が尻軽であることなど、既に割り切って久しかったのだ。

 それにこの性癖は、精神的な(いた)みを痛みで薄めたいと思う、ある意味の自己救済である。

 だから、拳を間断なく奈崩の骨に肉に打ち付けるわたしの顔面に、頬に、瞳に、感情はなかった。

 わたしは自らの拳のリズムに、夏に焼けたコンクリートに飛沫(しぶ)く夕立を思い出したりした。

 

 ひとしきりの連打の後で、奈崩は不格好に尻もちをついた。

 手のひらをわたしにかざして、待て、のジェスチャーをする。

 

 待ってあげる義理も無かったけれど、断るというやりとり、関係性の構築すらも億劫(おっくう)に感じたので、呼吸を整えながら、立ち上がるのを待つ。


 すると、随分な連打を無呼吸でしていたのだと気づいた。

 鼻腔から吸入する路地裏の大気は淀んでいた。

 体には必要なものなはずなのに、心が快適を感じない。

 これは目の前の男のせいだろう。

 この存在が、空間に満ちる粒子のひとつひとつを(けが)している。

 

 わたしは本当に、明日から向かう先がこの男とは地球的に逆であることに、感謝をした。


 奈崩は鳥の胸みたいに分厚く肥大した胸元からヨーグルトパックを取り出して、弱弱しく吸い込み、一息つく。

 応急だけど急速な回復の後で、尊大に都会の地べたにあぐらをかいて、わたしを見上げ、首を傾げる。


「いいのか? 俺にこんなことしてよぉ」

「いいも何も、喧嘩を売って来たのはあんたでしょ」

 わたしは冷たく言い放つ。


 奈崩は笑った。

 くぐもった声の、不快な笑いに、背の産毛が自然と逆立つ。


「買った結果も考えねえのかよぉ。多濡奇ぃ、てめえは相変わらず馬鹿だなあ」

 牙のように歯を剥いて、また笑うその顎を、さっさと蹴ればよかった。

 けれどわたしは訊いてしまった。


「どういう意味?」

「俺が失敗したら、てめえのせいになるっつうことだぁ」

「は? これくらいの打撃、回復できるでしょ? 子供じゃないんだし。あんた、それでもひだる神?」

 奈崩はいやらしく口角を上げた。

 その笑顔は、心音は、(あざけ)りを含んでいる。

「俺は回復しねえ。回復しても『ちゃんと戦う』とかはしねえよ。多濡奇、てめえが俺を殴るせいだ」

 わたしは一瞬、この男が何を言っているのか、分からなかった。

 このひだる神の任務は、ロシアのカルト教会を襲う事だ。

 それを、戦わない、と言っている。


 職務放棄だ。

 なんだこのフザケたやる気の無さは。

 それなら初めから案件を受けるな。

 上等だ。ここでお前を潰して、代わりを境間さんに依頼しよう。

 境間さんならすぐ手配してくれるだろう。

……ここまで、頬やこめかみに昇った血液と共に考えてから、その全てに冷や水を浴びせるように、わたしの脳裏に、助役さんの言葉がリフレインした。


『皆さんの誰が欠けても、確率は大きく下がります』


 生存の確率は25%。

 これは低いようでかなり幸福なものだ。

 境間さんと並ぶほどの強者だった逆忌さんを屠る敵を相手に立ちまわって、4人に1人は生き残れる。

 因果の特性から考えて九虚君が妥当だろう。その確率が、下がる。

 今この路地裏で、わたしがこの男を潰したら、九虚君の生き残る確率を下げる。

 そして全滅の確率は上がる。

 ただでさえ、全滅の確率は、4分の3、の4乗だ。31.64%の確率で、わたしたちは全滅する。

 任務は失敗する。


 村に生まれて来る子供たちの因果も、救えなくなる。

 わたしの頬から血の気が引いた。

 そんなわたしに醜い笑顔を作ってから、奈崩は悠々と立ち上がった。


「そうだ。俺はどっちでも構わねえ。案件とかガキどもの寿命とか、関係ねえ。だがよぉ。てめえが俺に逆らうのは許さねえ」

 無茶苦茶だ。支離滅裂だ。

 けれど、わたしの周囲から、現実感が喪われていくのが分かった。


 東京駅からそう離れていない繁華街の路地裏に、あの夜の山小屋の闇が降りてくるような錯覚を覚える。


 傷みが。痛みが。屈辱が。悲哀が。喪失が。憎悪が。わたしを硬直させる。


 奈崩は、わたしの被り物に両手をかけて、歪め、外し、肩の後ろに捨てた。

 その仕草は、教会の長が祝福の洗礼でも施すそれと似ていた。


 わたしの髪が肩に解けて落ちる。

 それは防壁が崩れたことを意味していた。

 薄暗い都市の闇に、男の引きつられた歯茎と、剝き出しの歯列があらわになり、都市特有の生暖かさを凝縮したような、獣臭い息がわたしの額を覆う髪にかかる。


 奈崩はわたしの胸元に両手をかけ、体格の割りに細長く青白い拳を握って、左右に開く。


 わたしの服は、ワコオルのピンクの下着ごと、引き裂かれ、乳房が夜に白く(さら)された。


 その解放に羞恥と怒りを覚えたけれど、動けない。わたしの奥歯は硬くなる。けれど、口を開く。


「あんたに、従ったら」

「ああ?」

「あん、たに、したがった、ら。ちゃんと、案件してくれる、の?」

 わたしは、ひだる神を見上げてそう訊いた。


 奈崩は沈黙した。

 まなじりが切れるほどに、大きく見開かれた瞳に、冷静が宿る。


 冷静な、失望。

 酷い落胆の心音が、微かに(うごめ)いて、それから、大きく快楽をもたげる。


「そうだなあぁ。だけどよぉ。まずはぁ、殴らせろぉお!!」

 奈崩の肩は盛り上がる。

 気持ち悪いほどの上腕筋の膨張にまかせて、ひだる神は拳を振りかぶった。


 相変わらずの大振り、派手でオーバーな身体操作だ。

 避けるのはたやすい。

 けれど、ここで動いたら、それは、逆らうことになる、のだろうか。


―今だけだ。今だけ、我慢しよう。そう、今だけだから……。―

 わたしは歯を再び食いしばり、打撃に意識を備えた。


 後ろから、わたしの肩に手がかかった。

 そのまま足を、やはり後ろから、払われる。


 わたしの肉体は重力を忘れた。


 世界が、夕闇にほのめく路地裏の空と、アスファルトが反転する。

 あまりの急に、わたしは何が起きたのかわからなく、つまり状況が把握できずに、呆けた。


 頬が地面を擦りかけた刹那に、ようやく我にかえる。

 反射的に身をくねらせて地面に片手をつき、天地を回復した。

 そのまましゃがみ込むような体勢を取る。

 斜め後方にかかってくる慣性を後ろ脚を出して耐えた。

 三点着地の体勢。靴先付近の底が地面と強くすれるのを知覚しながら、視線を上げる。


 わたし飛ばした主。

 ハーフジャケット。

 ちょっと長め黒髪に覆われた頭部。

 頭部から奈崩の打撃に吹き飛ぶ黒のサングラスが、視界に入る。


 ……。

 ……!!

 九虚君!!!!!!!!!!!?


「なんだてめえh……っ!?」

「いい加減にして下さい。敬意を払い合う必要はありませんが、最低限、てものがあるでしょうに」

 九虚君は奈崩の言い終わりを待たずに、ひだる神の口を片手でふさいで、こう言った。

 彼の声にはため息と、駄々をこねる子供を(さと)す教師のような響きがある。

 わたしはあっけに取られた。


 奈崩はまるで、見開いた瞳に血を走らせて、九虚君を凝視している。こめかみにも太い静脈を浮かばせている。わたしは(くつわ)で牙を封じられた虎を連想した。


 でも九虚君は構わない。

「とても当たり前ですけれど、僕の方が、奈崩さん、あなたより強いです。だから、強者の定めに従って下さい。つまり」

 そこで九虚君は一度言葉を切り、奈崩の口から手を放した。


「いい加減にしてください」

 奈崩は大きく口を開けた。

「てめえ、俺に逆らったらどうなんのかわかってんのかあ!? 案件潰すぞごるあぁぁあ!?」

「構いません。あなたが怠け者だとして、そういう点も踏まえての確率でしょう。ばば様の宣託は絶対ですからね。俺にはどうでもいいです。それに仮に、あなたのせいで案件の成功確率が下がっても、やる事は変わりません。俺は、俺のするべきことをするだけです」

 彼の言葉には、静かな確信があった。


 それは、桜の黒い幹が、大地に根を張るみたいな、確固としたものだった。

 それはわたしの弱い心にもいたく響く。

 思わず視界が潤む。

 何これ。ずるい位、響く。

 しかも彼は天然なのだ。

 

……奈崩は、九虚君ではなく、わたしをじっと見てから、視線をそらした。

 舌打ちをする。

 

「青臭え」

 と、と呪うように低く言って、九虚君とわたしの横を通り過ぎ、路地の入口、繁華街の光にほのめく駅方向に消えて行く。

 その足取りからは、何の感情も感じられなかった。


「全く、多濡奇さんも多濡奇さんです」

 九虚君はハーフジャケットの下のトレーナーを脱いで、わたしの胸を隠してくれながら、そう言った。

 この時、わたしは、とても恥ずかしいと思った。

 乳房を彼の前であらわにしている事実に、赤面する。

 でもしおらしく赤面するなど、わたしらしくない。

 この事にも、わたしは戸惑う。

 それに、彼が怒る理由にも、頭がついていかず、さらに混乱に拍車がかかる。


「え」

「え、じゃありませんよ。何で奈崩さんの言葉遊びにひっかかるんですか? 馬鹿馬鹿しい」

「そう?」

「そうですよ。あの人の、案件を潰す、てのは、極端な選択です。潰すか潰さないか。行動するかしないか。しないならどこまでしないか。そもそもカルトを潰すのなんて、片手間、子供のお使いみたいなもんですよ。そんな業務、村人ならいくらでも替えがききます。奈崩さんだって分からないわけじゃない。いや、あの人絶対分かってますよ。分かった上での二択です。大したことのない選択肢を大げさに見せるのは、詐欺師とかチンピラの常套ですけどね、俺は好きじゃない。でも、もっと見るに堪えないのは、そんなイカサマにはまる多濡奇さんですよ。最強なんですから、もっと堂々と……コン」

 とてもありがたく、そして泣きたいほど長いお説教の途中で、九虚君は赤い血の塊を吐いた。


 猫が毛玉を吐くみたいだった。


 彼は吐く刹那に顔を背けようとしたけど間に合わず、その吐しゃ物みたいな赤はわたしの鎖骨を、直撃した。

 それはトレーナーともども、とても生暖かい。

 わたしは、ちょっと何がなんだか分からなく、呆けてしまう。

 九虚君はアスファルトにしゃがみ込み、やはり狐がコンコンと鳴くみたいに、せき込みながら、血の塊を吐き続ける。


「大丈夫?」

 わたしは彼の背をさすりながら、訊く。


「いん、が…コン…の判定です…コン………手加減したのに…コン…」

「ごめん、答えなくていい」

 わたしは納得がいった。

 つまり、この吐血を伴う咳は、彼の因果なのだ。

 彼は因果で、ヒトに危害を加える事ができない。

 それが彼を縛る呪いだ。ではその戒めを破ったとき、どうなるのか。

 こうなるのだろう。


 彼は都市の闇に光を黒く集めるアスファルトにうずくまり、傷ついた狐みたいに衰弱している。

 その姿勢を維持する力すら喪われ、力なく横向きにアスファルトに丸くなる。

 その間も吐血はおさまらない。


 アスファルトの黒と、喀血の暗赤色のコントラストの前で、妖狐の末裔は小さな痙攣を続ける。


 でも判然としない。

 彼はわたしを救っただけだ。

 投げ飛ばしたけど、いや、奈崩の口もふさいだけれど、でもそれだけだ。

 強い暴力や、危害など加えてない。


 他者への強い身体的接触が、因果の鍵なのか?

 いや、今するべきは、そんな分析ではない。

 目の前で吐血と共に衰弱が深まっていく九虚君を、どう救うかを考えなければならない。


 けれど、彼はアスファルトに小さく崩れたまま、苦しげな視線だけをわたしに向ける。


「俺は、……コン……大丈夫、です。ライブ、行って、くだ、さい」

 力なく、でも精一杯強く、そう言った。


 わたしのためらいは、首を小さく横にふることに現れる。

 ほぼ同じくして、彼も首をわずかに、横に振る。


「大切な、子、なんでしょう? 服も着替えないと、コン、間に合いません……コン……はや、く」

 わたしは拒み続けたかった。

 ほうって置くことなど、できるわけない。

 それに、こうなることも踏まえて、彼はわたしを、あの男の拳から救ってくれたのだ。

 だから、尚更である。


 けれど、彼の善意に胸がつまった。


 ―九虚君、本当に、天然でいい人すぎる、よ。―

「ありがとう、行く、ね」

 わたしは立ち上がり、路地の土埃に薄く汚れた被り物を拾い上げる。

 それから踵を返し、駆け出した。

 日本最後の、大学生君のライブに向かって。

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