85歳までの安心
奈亜ちゃんのまぶたは開く。
闇の中で九虚君は微笑む。
「一緒に息を吸おう」
彼の声色は、有無を言わせない、とか、威圧とか強制とかいう言葉とは無縁だった。
けれどどこか運命的な響きを孕んでいた。
奈亜ちゃんは、こくん、と頷く。
「じゃあ、しようか」
九虚君の声は柔らかい。
少女と村人の青年は手を取り合って、共に息を吸う。
そして吐く。
その響きが病室の四隅の闇に吸い込まれていく。
そのたびに、彼らの輪郭を縁取る銀色の月光が輝きを増していく。
「もう大丈夫だ」
そう言ってほほ笑むまでの、きっかり5回の吸って吐いての間に、九虚君はまず壁に上半身を傾けた。
長い指先を壁のコンセントに伸ばし、灰色のコード2本を順番に抜いた。
機械の液晶に表示されていた赤い点滅や数字が、ふっと消える。
その分、室内の闇と月光がくっきりした気がした。
そして、充満していた死の気配が、解けて消えていく。
九虚君は奈亜ちゃんとのとてもゆっくりした呼吸に合わせて、幼い肢体から、チューブを一本一本抜いていった。
静かで自然な仕草。
奈亜ちゃんにかかっていた呪いが解けていく。
彼は彼女の頭を撫でる。
その手つきは軽い。
少女は、きょとんとした。
それから、こちらを見た。
彼女の黒く濡れた瞳に、わたしは反射的に立ち上がる。
そのまま彼女に向かって左足をかがめ右足を横に伸ばした。
腰を支点に上半身を右足先方向にくのじに曲げる。
両手のひらをこれでもかと開いて、ぱたぱたと振る。
それは着ぐるみ係としての、いつもの動きだった。
「みみいちゃん」
と、奈亜ちゃんは、小さく言って笑ってくれた。
それから、震える小さな手のひらを、わたしに向けて伸ばして……。
次の刹那、わたしは彼女の伸ばした手のひらを、両手で包むように握っていた。
もう、自分でも何がしたいのか、何を言いたいのか、よく分からない。
伝わる幼い温かさに、言葉が出てこなかった。
気道を、想いや言葉が詰まり過ぎている。
そんなわたしのつむじを上から少し眺めてから、九虚君はもう一度少女の頭を撫でた。
「朝まで寝なよ。お母さんも寝てるだろう」
奈亜ちゃんがその幼い首を傾げたので、彼は微笑む。少し困ったみたいに。
「大丈夫だよ。朝になったら起きれるし、お母さんも起きるさ。みんな眠りながら、朝を待っているんだ」
そこで彼は一度言葉を切る。
彼女のやわらかなおでこに前かがみになり、額を合わせた。
そのまま瞼を閉じる。
3つの間を置いてから、彼は額を離した。
「……さ、お休み」
とても柔らかい声。
奈亜ちゃんは再びわたしを見た。
少女の黒く幼い瞳と再び目が合う。
わたしは力いっぱいうなずく。
いつの間にか、なんかもう、32歳の身としては恥ずかしい位の涙目になっていた。
うなずいたはずみに、わたしの下の瞼の端から、涙がこぼれて頬を伝う。
熱くなっていた頬に、さらに熱さを感じた。
少女は、すとん、と枕に首を預ける。
そして瞼を閉じて、寝息をたてはじめた。
「終わりました」
つむじの上からかかってきた声に、のけぞって後方を見上げる。
と、九虚君がわたしを見下ろしていた。
すでにベッドから降りている。
仁王立ちの彼は胸元からサングラス取り出し、そのままかける。
「……取り乱しすぎです。村人らしくもない」
とても冷ややかな声。
月光に分かたれた暗闇の中で、彼は踵を返す。
仕草は相変わらずきざというか、優雅だった。
でも、わたしの口からはもう、最近の若者は、とかいう言葉は出てこなかった。
かわりに訊く。
「この子は? 」
「85歳まで内部的疾患では死にませんよ。退院したら、マラソンでもトライアストロンでも、好きにすればいいと思います」
淡々とした彼の背中から少女に視線を戻した。
わたしの聴覚は心音に集中する。
その幼い鼓動は自律的で穏やかなリズムを刻んでいた。
遊園地ではしゃいだ後に眠る子供と差がない。
室内からは、死の気配がすっかり消失していた。
クレゾールの薬液臭だけが未だに残っている。
「……行くね。元気で、ね」
小さく囁きながら、奈亜ちゃんの髪と頬のやわらかさを、右手のひらで確認する。
それから立ち上がり、もう一度彼女のお母さんにお辞儀をして、病室を後にした。




