やっぱりそうなのね
「ええー、それではー⋯⋯、高校生活においての、初めての授業ーー世界史の授業を始めたいと思いーます。⋯⋯ますがー、高校に上がったからと言って、初っ端から、複雑に入り乱れた世界情勢から入るというわけではありまーせん。ええ。しばらくは基本中の基本、それこそ、小学生でも即答できんじゃねーかっていうくらいの基礎中の基礎を、ねちねちとやっていくことになりまーす。あー良かった良かった、一時限目で。これがお昼食べた後、満腹の五時限目とか六時限目にやられたら⋯⋯もう眠いのなんの、授業になりゃーしねーよなー、お互いにさ。⋯⋯と、基本中の基本をダメ押し的に叩き込むっつっても、授業は進めなきゃならないですねー。基本はものすごーく大事。初心忘るべからず、とも言いますしねー。⋯⋯私の口から含蓄のある話が飛び出したところで、いよいよ教科書を開いていきましょー⋯⋯、あー、最初のミニコーナーみたいなのは暇な時に見といてくださーい。教科書の⋯⋯六ページですねー。ほら。あーいや、不平不満はやめときましょーか。私たち教師は決められたことをただただやっていくだけなんですからーーって、言ってるそばからこれだよ。駄目だなー、私は私の、この軽い口が嫌いだ、風が吹けばどこかへ飛んでいきそうなくらい軽い口が、けれど直そうにも直らない。人間の性格ーー性質、っていうのは、そう簡単には改善されないんだよねー。でも、人が嫌だなー、と思うようなことを何一つとして持っていないっていうのも、それはどうかと思うけれどねー。私たちは人間であって、作られたロボットじゃあないのだからーー」
先生はチョークで黒板に文字を書いていく。
やる気のない字ーーいやさ、個性のある字を書き終えて、先生はこちらに向き直って、
「ワールドオブリヒト」
と、言った。
「私たちの住むこの世界は、そのように呼ばれています。ワールドオブリヒトは、主に三つの大陸から成っている世界でーー西のホフヌング大陸。東のプバーテート大陸。そして両大陸に挟まれたー⋯⋯中央のシュトラール大陸。まあ、ここですねー。シュトラール大陸の主要国である、ここ、キミア王国から、全てが始まりましたー。科学の発展。技術貿易、サービス貿易などを進んで行い、凄まじいスピードで進化した国家、グローバルの礎ですねー。ツヴァイハーゼ発祥の地、ホフヌング大陸の主要国、ヘレニズム王国からは、希少な素材の数々と、多くの錬金法がもたらされましたねー。これによって、より潤っちゃいました、我がキミア王国。ありがたやー、ありがたやー。そんでー、ハルプカッツェ発祥のプバーテート大陸からはー、プバーテート大陸でしか採取できない貴重な素材と、多種多様な武術が伝わりましたー。それらが時を経て、今の部活動やらになってるんだなー、これが。先生、運動はNGだから、詳しくは体育の先生に訊いてみてくだーさい。あー⋯⋯油断していると思うので問題。プバーテート大陸の主要国とは、どこでしょーか? んーじゃあ⋯⋯、アサガヤさん」
「は、はい⋯⋯えっと⋯⋯、カリオストロ王国、です⋯⋯」
「はい正解。正解、っていうほどの問題でもないんだけど。問題、っていうほどのものでも、やっぱりないんだけどー⋯⋯カリオストロ王国で正解ねー。ありがとー、アサガヤさん。⋯⋯ええー、ホフヌング大陸、プバーテート大陸、シュトラール大陸ーーワールドオブリヒトは、主にこの三つの大陸で形成された世界である、ということを、これまで話してきたわけなんですがー」
もっと遡ってみましょーか。
先生は言った。
「この世界がーーワールドオブリヒトが、どのようにしてできたか。誕生したのか。大陸移動説とか、惑星誕生とかではもちろんなくってー⋯⋯今、一番有力だとされる⋯⋯あの説の話、をー⋯⋯じゃあサクラザカさん、あの説とか何かを述べよ」
「え」
先生に当てられたトリスは、突然の指名にあわあわしている。
あわあわ慌てている。
トリスも、他人とのコミュニケーションが得意なほうじゃないから、大勢の前で何か発言するというのは、かなりの緊張を強いられる。
嫌なイベントだよな。前の席の人の背中に隠れてしまいたいよなーー実際、俺は先生に見えないように常日頃心がけているし。
目を合わせたら最後だと思っている。人生の最期だ。⋯⋯は、言いすぎだとしても。
しかし、まあ、当てられてしまって、自分の姿も動揺も隠せないトリスに、密かにエールを送ってやるとしよう。俺はとっても優しい人間なのだ。「おい、トリス」と、口に手を当てて囁きかける。
「みんなの視線が集まっているぞ」
「ーーーー」
睨まれた。でもまったく怖くないぜ。
「ああー⋯⋯ミス・サクラザカ? 分からないのであれば、無理に答えなくてもいいんですよー?」
「いえ。もの凄く分かります。世界錬金説⋯⋯です」
「うん。そのとおりだね。世界錬金説。この世界はー⋯⋯錬金術によってつくられた世界である、という説ですねー。そんな、超大規模錬金術ーー神の御業みたいな錬金術を、一体全体、どのようにして実行したか。⋯⋯というのは、詳しいことに関しては、やっぱり専門書を読んでいただきたい。まあ、内容の八十パーセントは理解できないであろうとは思うけどねー、うん。私もちんぷんかんぷんだったから。なんのこっちゃーって、匙を投げたよ。投げたのは本だけどー」
地下室の資料の中にも世界錬金説の本は置いてある。あるのだが、先生が言っているように、俺もほとんどの内容が理解できないでいる。もしかしたら、別の世界の言語で書かれているのかもしれない。
上手いこと言ったー⋯⋯と先生は思っているかもだが、教室の空気はひんやりと冷たいものに変わっていた。風邪をひいたらどうするんだ。
「つまらんことを言っていないで、さっさと授業を進めたらどうじゃ? 時間の無駄だとは思わんのか」
「へ? あー⋯⋯そうだよねー。時間の浪費だよねー。さくさく進めちゃいましょーか、さっくさっくと」
ミーツハートの指摘で、授業が再開された。教科書の前半部分は、何度も言っているとおり、基本中の基本をおさえられていて、非常に退屈だーーそれこそ時間の無駄であると思わなくもないのだが、偉い人が決めたことなら仕方ない。従うまでだ。
入学してから数日間は、今後催されるイベント事や授業の流れを説明される、という期間だった。
説明どおりなら、ほとんどの授業ーー国語や数学、世界史といった、普通の授業は基本、基本から入るらしい。
馬鹿な俺にしてみれば、大変ありがたいシステムだ。錬金術に特化した学校ならではだよな。
王立シュテルンツェルト学園、万歳!
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
共働きのサクラザカ夫妻は、最近仕事が忙しくなってきたらしい、というような事情により、今日もまた、トリスは学生食堂に向かうのだった。
そして、ハルフゥに作ってもらった弁当を持参して、今日もまた、俺は学食へと連行されるのだった。
待ちに待ったランチタイムである。授業に次ぐ授業で酷使した脳をゆっくり休ませる大事な時間だ。
「いつも悪いね〜、ジルくんや〜」
「ご両親の都合ならば、構わないですよ、これくらい付き合ってあげます」
学食に入ると、まずは人口密度を確認する。ぱっと見でーー大体六十パーセントといったところだろうか、あまりにも混雑していたなら、俺のような弁当持参組はマナー違反になるから、学食組を優先しなければならない。それを考慮して辺りを見渡したわけだが、うん、今日も学食は盛況とまではいかない客の入り具合のようだった。その上、テーブルの上に弁当を広げているグループもちらほらと見られる。見た目はそこそこだがーーかっこう、かっこう、実質的には閑古鳥が鳴いているような気がする。
学生食堂の維持費が心配だ⋯⋯。
「そんじゃあジルくんには席の確保を命ジル」
「イエス・ママ」
カウンター付近の席は軒並み占領されているので、というのは建前で、俺は学食の隅っこのほうに迷わず移動する。友達がいない人間の、悲しい習性、みたいなものだ。
奥へ進んでいくにつれて人口が減少していく。
全面ガラス張りの窓付近まで来ると、ほとんどゼロに近い。
俺は、六人がけのテーブルの端っこに腰を下ろした。これでミッションコンプリート!
「よっこらしょっと」
「おい。自然な流れみたいな感じで相席するでないわ。せっかくの食事が不味くなるじゃろうが」
そんな、とんでもない発言を容赦なくぶつけてくるのは、もはや一人しかいないよな。
ライム・ミケット・ミーツハート。
我が一年D組の猫姫様だ。
しかしなぜだろう、どうしてその猫姫様が、学食の、しかも隅のほうで一人寂しそうに食事をしているんだろうか⋯⋯? 学食に出没する、なんてことは、聞いたことがないぞ。これまで見たこともなかったしな⋯⋯。ミーツハートはお弁当組だと思っていたのだが。
「美味しそうな匂いに誘われて、ふらりふらりとやって来たんだよ」
ミーツハートは焼き鯖定食を頼んでいた。神チョイス以外の何ものでもない、食している者の、センスの良さが窺えるというものだ。
小骨の一つ一つを綺麗に身から外して、焼き鯖をパクリーーすかさず白米を頬張る。
よだれが出てきたぜ⋯⋯。
「焼き鯖ーー好きなのか?」
ミーツハートは、口の中のものを飲み込んで、
「普通じゃ」
「普通かい」
「普通に好きなものを頼んではいけない、というルールがあるのか? ここには。のう、ジル・ヘルメス・ミウラ」
「ーーないっす」
「うむ。では消えろ」
「⋯⋯なんでそんなに消滅させたがるんだよ。いたらいけない理由があるのか?」
「では逆に訊こう。お主が妾と食事を共にする理由とは、なんじゃ?」
「そ、それは⋯⋯」
友達になりたいから。
と、恥ずかしがらず、素直に言えたらどんなにいいことやら。肝っ玉のちゃいちー男だよ、俺は。本当に。
「ーーないっす」
「ほらな」
「理由はない。けど、理由は必要なくないか?」
「そうじゃのう。そのとおりじゃ」
ミーツハートはあっさり肯定した。
「しかし妾が言っている。この妾が。そこに理由の介入は許さん。有無など関係ない。否応なく、断固として。ーーな」
「⋯⋯⋯⋯」
ミーツハートはそれから、あくまで俺などこの場所にいないかのように振る舞った。ぱくぱくと、美味しそうに焼き鯖定食を食べ進めていった。
ふと、俺は入学式でのことを思い出す。クラス発表の掲示板の前で、俺は、人目も憚らずに背後から押し倒されーー正確には蹴り倒され、その後、むんずと踏みつけられた。ミーツハートに。命の恩人、ライム・ミケット・ミーツハートの足場となった。
上から目線⋯⋯というか、自分以外の人間は目線よりも下の位置にいて然り、といった態度のミーツハートは、だけどどこか親しみやすい雰囲気が、薄っすらと漂っていた気がしなくもない。
ミーツハートとならーーあるいは。
そう、思った。
だというのに、あれから数日の間に何が起こったのかは定かではないけど、どうやら俺は、ミーツハートに避けられているようだった。無視はされないが⋯⋯終始つっけんどんな返事は、俺を焦らせるのには十分すぎるほどに十分なのだった。ガラにもなく、ほいほいと話しかけすぎたことが原因だろうか? 俺はウザい男だと、ミーツハートには思われているのだろうか?
それは、かなり嫌だなあ⋯⋯。
「おまたせ〜」
と、そこへ、四角いトレーを持ったトリスがやってきて、俺の右側の席に座った。カレーのスパイシーな香りで、焼き鯖の香ばしい香りが打ち消されてしまう。おのれカレーライスめ⋯⋯しかしスパイスの効いたいい香りでお腹が空いてくるのが、これまた憎い!
「お〜? よく捕まえたね〜。どんな口説き文句を使ったんだい?」
「使ってねえし、持ってねえよ、そんなもん」
言いつつ、弁当を広げる。ちなみに干物は入っていない。豪華でもなければ手抜きでもない、つまり普通のお弁当だ。
「それでは、お手を拝借」
今日はトリスが音頭を取った。
俺たち人間の血となり肉となる全ての命に、感謝を込めて、祈りを捧げる。
お祈りタイムが終わったら、ついにご飯が食べられる!
もうお腹ペコペコだぜ!
「なんじゃーーそれは」
「え⋯⋯」
顔を上げると、ミーツハートが俺とトリスを不思議そうに見ていた。「なんだこいつら」と言いたげだ。
「カレーライスだけど?」
「知っておるわ」
「これは弁当と言って、出かけた先に食べるものがなくても大丈夫なようにあらかじめ作っておいてーー」
「だから知っておるわ! ⋯⋯何やら呪いの言葉みたいなものを唱えておったじゃろう。あれはなんじゃと言っている」
「がっ!?」
「ほえ!?」
俺たちはそれぞれ、衝撃を受けていた。それぞれ俺が「がっ!?」でトリスが「ほえ!?」である。
だってなんだか⋯⋯だって、だってなんだもん。
「なんじゃーー鳩が豆鉄砲を食ったような間抜け面をしおって。お主らは何に対してそのように驚いておる。妾のほうが驚きを禁じ得ないのじゃが⋯⋯その、世紀の間抜け面にのう」
「いやいやいやいや」
「そう言うがトリス、お前もたまに忘れる時があるだろう」
「それはそれ。これはこれ。あれはあれで。どれはどれ?」
「あまりのショックでおかしくなってしまったか⋯⋯くそう! どうしてくれるんだ、ミーツハート! あの頃のトリスを返せえ⋯⋯!」
「どの頃じゃ。ったく⋯⋯揃いも揃って阿呆じゃな。阿呆ツインズじゃな」
「だってお前ーーしないのか? お祈り。普通するだろう。て言うか当たり前じゃないか、日常に組み込まれたプロセスとして、お祈りは俺たちにとって呼吸と同じくらい当たり前で、大事なことだろう」
王立シュテルンツェルト学園では、月末に、学校を挙げての大規模なお祈り行事を実施するくらいだからな。
しかし。
「また意味のないことをーー」
ミーツハートは呆れ顔で言った。
「居もしない神に祈りを捧げてどうする。それは自己満足でしかないじゃろうーー何に怯える必要があると言うのじゃ。何故に⋯⋯ああ、そうじゃのう、そうじゃなそうじゃな、分かったぞ、ジル・ヘルメス・ミウラ。トリス・ローゼンクロイツ・サクラザカ。お主たちは集団を作り、その集団で同じことをすることにより、同調して、不安や罪などを分かち合っておるのじゃな?」
「いや⋯⋯神、って言うか⋯⋯俺たちが食べたり、素材として使った命に対しての祈りなんだけど」
「同じことじゃろう」
「あのなぁ⋯⋯俺たちはきっつ〜い宗教団体に加盟なんてしてないからな? 顔まですっぽり覆う怪しげな服は持ってないし、光源は数本の蝋燭だけの薄暗い地下施設で、ぶつぶつお祈りをしているわけでもない。これはーー」
礼儀だよ、ミーツハート。
俺は言った。
「人として、錬金術師として⋯⋯お祈りを、馬鹿にしてはいけない」
「⋯⋯ふん」
小馬鹿にしたように鼻を鳴らしたミーツハートは、さっさと焼き鯖定食の残りを平らげると、苛立ちを隠そうともせずに、ガタンと音を立てて席を立った。
「妾はせんぞ。群れを成して祈るなどーーお断りじゃ」
「なあーー」
返却口に向かおうとするミーツハートを呼び止めるが、俺はそのまま行ってしまうとばかり思っていた。
だが、ミーツハートは立ち止まって、しかしこちらを振り向かずに、俺の言葉を待ってくれた。
ミーツハート、お前ーーと、俺は言う。
「俺たちのこと、突き放してないか?」
入学式の時には感じなかった、違和感とでも言うのか。相変わらずの上から目線は変わらないのに、俺たちとミーツハートの間には、深い深い溝が存在していたーーいつの間にか、距離を取られるようになっていたのだった。友達経験のない俺でも分かるーー明確な違い。
「だったらーーだったらなんだと言うのじゃ?」
にゃははーーと、ミーツハートは笑った。でも、いつものぐいぐいと来る迫力はまったく感じられない、からっからの空虚な笑いだった。
「おーそうじゃ。一つだけ、忠告しておこうかのう」
ミーツハートは俺を見て、次いでトリスに視線を向けてから、
「妾には⋯⋯あまり関わらないことじゃ」
そう言って、ミーツハートは、改めて返却口のほうへと歩いていった。
「ミーツハート⋯⋯?」
「あ〜あ。怒らせちった。んぐんぐ。んぐんぐ。愚民のくせに、偉そうな口を利くから、ミーツハートさんのはらわたは、ぐつぐつといい感じに煮えくり返っていることだろうね〜。ぱくぱく」
「ああ⋯⋯そうかもしれないなーーって。俺の弁当を食ってんじゃねえよ! あと、誰が愚民だ! せめて平民と言え!」
「まあまあ。⋯⋯はい。あ〜ん」
「ふん。この怒りは、たかがカレーで、しかも学生食堂のカレーライスで鎮められるようなもんじゃうめえええええええええええええええ!!」
たかがカレー、されどカレー。
王立シュテルンツェルト学園の学食カレーは、とっても美味しかった。
もんじゃ焼き美味しい、と言ったのではない。
いや、もんじゃ焼きも美味しいよ?
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
「そこの人、ちょっと尋ねてもいいかしら?」
学食から一年D組の教室に戻る途中、そんな風に後ろから声をかけられた俺とトリスは、同時に後ろを振り向いた。
そこにいたのは、俺たちよりも早く食べ終わったはずの、そして俺たちよりも先に学生食堂から出て行ったはずの、ミーツハートその人だった。
口調は丁寧な感じで、なんだか纏っている雰囲気も、どことなく、そこはかとなく違っているような気もするがーーあれ? ミーツハートって、こんなに小さかったっけ? それに⋯⋯長くて黒い髪の毛が一房分だけ、金色に染まっている⋯⋯? というか、服装もどこかの制服にチェンジしているじゃあないか。
でも声は、やっぱりどこか少し幼い感じはするけど、質はよく知るミーツハートのものだ。
尋ねたいことって、なんだろう?
「なんだ? お祈りの仕方とか?」
「? お祈り?」
小首を傾げるミーツハート。
先程繰り広げられた白熱の論争を冷静に改めて考えた末、やはりお祈りは大事なのではないか、という考えに至ったのだと思ったのだが、そのことを聞きたいのでは、どうやらないらしい。
「なんのことだかさっぱり分からないけれど⋯⋯わたくし、場所が分からなくて困っていたところなの⋯⋯良かったら教えてもらえないかしら?」
わたくし⋯⋯、一人称まで変えている。今年は変化の年、なのだろうか⋯⋯?
「んーまあ、俺に分かるのであれば」
「それじゃあ⋯⋯一年D組の教室がどこにあるのか、教えてくれる?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯おいトリス、こいつ、何言ってるんだ?」
「何言ってるんだはお前だよ」
鼻にパンチを喰らった。
鼻血が出たらどうするんだ。
信じられない暴挙に出たトリスは、おとぼけミーツハートに歩み寄り、膝を折って目線を合わせて、話しかけた。
「ねえ、こんなところでどうしたのかな〜? ここへはお母さんかお父さんと一緒に来たの〜? 学校の関係者か何かなのかな〜? 何か分かる〜?」
「お母様とお父様は仕事で忙しいの。だからここへは、使用人と一緒に来たのよ」
「使用人⋯⋯? って、執事とか、メイドとかを指す使用人⋯⋯? だよね」
「まあ、その認識で構わないわ」
「ほえ〜⋯⋯お嬢ちゃん、せれぶりちーなんだね〜」
「確かにお金はある。ーーでも、ただそれだけよ。いくら裕福だからとはいえ、一般家庭に敵わない部分だって、たくさんあるんだから」
「うお〜、金に物を言わせる感がないとは⋯⋯お主、さてはなかなかの強者じゃな〜?」
「にゃふふ⋯⋯強者、いい響きね。わたくし、あなたのことが気に入ったわ。仲良くしてくれたら嬉しいのだけれど」
「もちろんですとも〜。あ、一年D組の教室でしたよね? ええ。教えますとも教えますとも。⋯⋯へへへへ」
なんとも悪い笑みを浮かべるトリスなのであった。ーー幼馴染みが悪の道に走ってしまう前に、なんとしても止めなければ。
そう思って一歩踏み出した俺だったが、
「ネーブル⋯⋯」
と、後ろから、そんな力のない声。
振り向くと、そこには目を見開いたミーツハートが、呆然と立っていてーーって。
「ミーツハートが二人ぃぃぃぃぃぃぃ!?」
「あんたはまだその段階だったんか〜〜〜〜い!」
「久し振りね。にゃふふ⋯⋯」
小さいほうのミーツハートは、大きいほうのミーツハートを、真っ直ぐに、しかと見据えて、
「お姉様」
ーーと、確かにそう言った。
お姉様。お姉ちゃん。姉。
つまり小さいほうのミーツハートが言っているお姉様とは、つまりは、あのお姉様を指している。
そうか。
大きいほうのミーツハートは、小さいほうのミーツハートのお姉ちゃんなのか。
お姉ちゃんーー借りてきた猫みたいに大人しい大きいほうのミーツハートは、妹にお姉様と呼ばれて、しかしなぜか、その表情は苦しげなものだった。
「ネーブル⋯⋯どうしてここに」
妹の来訪はお姉ちゃんにとって思いもよらない出来事だったようだ。
「ミーツハート⋯⋯、にゃふふ。お姉様。ミーツハートなどという、穢れきった『忌み名』を使っているのね。まあ、お似合いと言えばお似合い、なのだろうけれど」
やっぱりミーツハートの妹だーーすぐに罵倒言葉が飛び出してくる⋯⋯。
じゃあなくて、小さいほうのミーツハート、もといネーブルの言葉の中には、気になるワードが含まれていただろうーー『忌み名』ももちろん気になるけど、ここではそれは横に置いておくことにする。
「使ってる? ーーミーツハート、お前のサードネームって、偽名だったのか? ていうか⋯⋯もしかして、ライム・ミケット・ミーツハート⋯⋯お前のフルネーム、全部がそうなのか?」
俺の問いに答えたのは、妹のネーブルだった。
「ファーストネーム、セカンドネームはそのまま、お父様とお母様につけてもらった名前よ。変えているのはサードネームだけ。⋯⋯ああ、そうだわ。まだわたくしの自己紹介がまだだったわね」
ネーブルは、優雅で滑らかな、一切無駄のない洗練された動作で、手のひらを胸に当てて、言った。
「わたくしは、ネーブル・ブリューゲル・カリオストロ」
「か⋯⋯カリオストローー、⋯⋯って!?」
トリスが驚愕するのも無理はない。
カリオストローーとは、プバーテート大陸は、カリオストロ王国。その国を束ねるカリオストロ王家のサードネームだ。カリオストロ王家だけが使える名字。
ミーツハートのように、偽名として使っているというのは、まずないだろう。
ネーブルは、そしてミーツハートは、れっきとした王家に連なる者。王族。
しかしなるほど、そういう事情があるとなると、納得せざるを得ないーーミーツハートのあの上から目線は、こういった身分の違いからくるものだったのか。
「そうーーわたくしは、カリオストロ王家・第三王女、ネーブル・ブリューゲル・カリオストロ。⋯⋯ああ違う、今は第二王女だったわね」
「今は⋯⋯?」
疑問を呈する俺。
「にゃふふ⋯⋯お姉様が家を飛び出していったものだから、王位継承権が繰り上がったのよ。それによりお姉様の王位継承権は剥奪された。だから末っ子のわたくしが第二位になった、というわけ」
「王位とか⋯⋯第二位とかよく分からないけど⋯⋯要するに、ミーツハートは家出したってことか。家出娘ってことか」
「⋯⋯⋯⋯」
「そんでお姉様のことが心配で心配で堪らなくなったネーブルは、ここキミア王国まで遠路遥々やってきたーーと、そういうことだな」
「心配? 誰が誰の心配をするにゃん?」
「そりゃあ、ネーブルがミーツハートの心配だろ?」
「心配するわけがないでしょう」
背筋がひやりとした。
こいつら⋯⋯本当に姉妹か? 血の繋がっていない俺とトリスのほうがよっぽど仲がいいぞ。
それとも、兄弟姉妹って、案外こんなものなのかなあーー態度は素っ気なくとも、心は通じ合っている、みたいな。
にゃふふーーと、ネーブルは口に手を当てて笑って、
「我がカリオストロ王国、ひいてはプバーテート大陸では、『力』が全てなのにゃーー権力とか、そういった類いの力ではなくて、己自身の、肉体的な力にゃん」
なんだろうーー『にゃん』が増えているような気がする。
「でもお姉様は!」
と、ネーブルはミーツハートを指差して、
「己の力のなさを恥じたお姉様は! こともあろうに、ハルプカッツェのしなやかな尻尾を巻いて逃げ出したにゃ! すたこらさっさと遁走したにゃ! 逃げ出した挙句には、まさか錬金術に手を出すなんて⋯⋯本当、どうかしてるにゃーーっと。これは失言だったわね、取り消させてもらうわ。錬金術先進国でする発言じゃあなかったわね⋯⋯わたくしとしたことが、少々興奮してしまったわ」
「⋯⋯ミーツハートさんの心配をして来たんじゃないのなら、ネーブルちゃんは、どうしてここに?」
「んー⋯⋯そうねぇ⋯⋯」
トリスの質問に、顎に指を当てて考え込むネーブル。
「まさかのノープラン?」
さすがは王族と言うべきか、やることなすことが一般のそれとはまるでかけ離れている。明確な理由も持たずして、わざわざ何時間もかけて、さらに費用もかけて、他国に渡ってくるなんて⋯⋯ネーブルの行動力には恐ろしいものを感じるなあ⋯⋯。
「そうだわ。決闘をしましょう。そうしましょうよ、ねえ!」
何を思いついたかと思えば、とんでもないプランだった。
「にゃふふーー、名案でしょう?」
⋯⋯まあ。
迷案には違いない。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
ネーブルの突然の思いつきを実行に移すため、俺たちは体育館へと向かったーー昼休みということもあって、体育館には、バスケットボールやバドミントンで遊ぶ生徒がたくさんいた。何か不穏な気配を感じ取ったのだろう、プレー中にもかかわらず、生徒たちは、体育館に入ってきた俺たちーーいやミーツハートとネーブルを交互に見ている。注目されるのは嫌だから、その点は助かった。助かった、のはいいんだけど⋯⋯具体的には、決闘というのはどのようにして行われるものなんだろう? やっぱり殴り合い? 俺としては口喧嘩でとどめてほしいところだけど⋯⋯。
体育館の中央に向かって歩いていく二人(俺とトリスは壁際で待機)ーーたったそれだけで、一言も発せずして、十数人の生徒は俺たちと同じように、壁際に退いた。
「クロロ。竹刀を二本、持ってきてちょうだい」
誰に向かって言っているんだ? ーーと思った直後には、その人物はネーブルの隣に立っていた。モーニングスーツを着た、どこまでも漆黒色の女性の手には、注文どおりの竹刀が二本収まっていた。クロロと呼ばれた女性は一本の竹刀をネーブルに渡し、そしてもう一本をミーツハートに渡してから、ーー消えた。忽然と、いなくなった。蒸発して気体になったのではないかと思ってしまうほどに、本当に忽然と姿を消したのだった。
「お姉様? さっきから黙り込んでいるけれど⋯⋯何か喋ってくれないかしら? せっかく久し振りに会えたんだもの、学校での出来事とか⋯⋯色々あったでしょう? お姉様は高校生に。わたくしは小学六年生になったわ。最上級生として、低学年生のお手本となれるように頑張っていきたいと思っているわ。お姉様は錬金術よね。王立シュテルンツェルト学園ーー錬金術に特化した名門校。ハルプカッツェ人には大変だろうけど、お姉様ならきっと大丈夫よ。ツヴァイハーゼ人なんかには負けないで」
「嫌味など聞きたくないわ。ーーやるなら早くやれ」
そう言って竹刀を構えるミーツハートに、ネーブルはムッと顔をしかめた。
「イライラしているわね、お姉様。わたくしはただ、お姉様との会話を純粋に楽しみたいだけなのに。⋯⋯それともお姉様は、わたくしのことが嫌いなのかしら?」
「嫌ってなどはいないーー億劫なだけじゃ。それとネーブル、これが終わったら、さっさとカリオストロに帰れ。第二王女として、意味もなく国から離れるべきではないじゃろうが」
「わたくしとしては、そのように邪険にしてほしくないのだけれど⋯⋯まあ、お姉様がそこまで言うのであれば、致し方ないわね。最初から長居をする気はなかったわけだし、こうしてお姉様とお喋りすることができたわけだしーー用事はもう少しで完了だしね。とんぼ返りで帰国するつもりよ。ここにいても、わたくしの居場所は猫の額ほどだもの、居心地が悪いったらありゃしないわ」
「⋯⋯ネーブル。本当に何をしに来たのじゃ。妾を笑いに来たのであれば、周りを巻き込むでないわ」
「わたくしが悪者だとでも言うの? お姉様は」
「ここに悪党などいないーーいるのは⋯⋯そう、愚か者だけじゃ」
「それは自分のことを言っているの?」
「あそこに突っ立っておるじゃろう」
「誰が愚か者だ⋯⋯」
指を差すな指を。お前のせいで注目されるだろうが⋯⋯。
愚か者として注目されたくはない。絶対。
「お〜ろ〜か〜も〜のよ〜」
「悪いのはこの口か?」
トリスがつまらない歌を歌うので、両側の頬をつまんでびよんびよんと伸ばしてやった。案外柔らかいんだなあ⋯⋯ほっぺって、と思った。
て言うか俺が愚か者なんだったらほとんどの人間が愚か者に当てはまるからな。
もちろんミーツハート、お前もだぞ。
お〜ろ〜か〜も〜のよ〜。
「さあ構えろネーブル。妾はさっさと終わらせたいのじゃーーさっきから眠くて眠くてしょうがない。狸寝入りならぬ猫寝入りをしてしまいそうじゃ」
「寝たふりをしていても結構よ。わたくしはそんなのはお構いなしに、寝込みを襲うからーーねっ!」
そんな声と共に床を蹴ったネーブルは五メートルほどの距離を、文字通り一瞬にして詰め、握った竹刀を真上から振り下ろした。ーー直後。
竹刀と竹刀がぶつかり合う、小気味のいい音が体育館に鳴り響いた。ーーと思った数秒後。
両者が持つ竹刀が、木っ端微塵に四散した。爆散した、と言っていいかもしれない。破片が壁際まで飛んできて、カツンカツンと音を立てる。顔にもぽつぽつと当たった。
「竹刀には悪いことをしたわねーーま、こうなるとは思っていたけれど」
この中で一番の愚か者は、意外にもネーブルなのかもしれないな。物は大切に。素材は大切に、だ。
「竹刀戦は終いじゃな。さて、次はどうするのかのう? 姉妹同士の試合は」
「続けるに決まっているでしょうーー」
両者は竹刀の柄を横に放り投げ、再び衝突する。
肉弾戦へと突入するーーって。肉弾戦は、この戦いに導入するべきなのか? 導入しても、果たしてよろしいものなのだろうか⋯⋯。
あの二人は武道とは無縁なように思えるから。
「あのう⋯⋯ジルくん?」
ミーツハートとネーブルの戦いは、まるで嵐の来訪のようだーーと言うか嵐そのものだ。一撃一撃が、入学式の大型トラックの重さがあることを表すように、肉と肉がぶつかり合う毎に爆風が吹き荒れるーービュービューと吹き荒れ、女子のスカートを翻さんとする。嵐の発生源は、不思議なことに被害が少ないようだーーさながら台風の目のように。
トリスのスカートも例外ではない。スカートを両手で押さえながら、トリスは言う。
パンツ組はともかく、スカート組は大変だなあ⋯⋯。
「止めなくてオーケー? なんだかやばやばじゃない? バイヤーなイキフンじゃない?」
「もうど〜にも止まらない〜」
ハルプカッツェ人であるミーツハートとネーブルにしてみれば、まだまだじゃれあっている感覚なのだろうが、まだほんの序の口なのだろうが、本音を言えば今すぐやめてもらいたいところだーーあまりの迫力に、少し引いてさえもいる自分がここにいる。
これがハルプカッツェ。
これが王族の戦い。
なるほど⋯⋯力が全て、ーーか。
「にゃふふふ⋯⋯」
猛攻を仕掛けながらも、余裕そうにネーブルは笑っていた。
「錬金術にかまけて武術の稽古を怠っているのが、お姉様の攻撃を通じて、ひしひしと伝わってくるわ!」
負けず嫌い⋯⋯というわけではないらしく、本当にネーブルの動きは余裕綽々のそれだった。対してミーツハートのほうはというと、
「う⋯⋯うるさい⋯⋯、のう⋯⋯!」
押され気味だった。
じりじりと、体力が削られていくーーあのミーツハートだとは信じられないが、実の妹に力で負けているというのは、紛れもない事実。
ネーブルは小学六年生だぞ? いや⋯⋯信じられないのは、この場合に関して言えば、高校一年生の力を軽く上回っているネーブルのほうか。
姉もさることながら、恐ろしい妹だな⋯⋯。
「ウォーミングアップは終わり。さて、お姉様の言うとおり、さっさとカタをつけようかしらーー」
ネーブルの、一房分の黄金色の髪の毛が、陽光を受けて眩いばかりに輝いた。
「CQCのCはーー超、のC!」
ミーツハートの攻撃を受け流しつつ腕を掴み、足をかけて身体を宙に浮かせーー床に落とす。背中を強打したミーツハートは、すぐさま手を払いのけて距離を取り、そして駆ける。
「CQCのQはーー究極に、のQ!」
肉薄するミーツハートを迎え撃つネーブルは、ミーツハートの拳を難なく避けてーー曲げた肘を、みぞおちに突き入れた。ミーツハートの動きが、一瞬止まる。
「CQCのCはーー」
一歩離れたネーブルはその場でジャンプした。そして、床に足がつく前に、ミーツハートのこめかみに、回し蹴りを放つ。交代するように、今度はミーツハートの足が床から離れた。
どさり。ーーと、生々しい音を立てて俺たちの目の前に落下したミーツハートは、横たわったまま、ぴくりとも動かない。
まるでスローモーションがかかっているかのように、まるで羽毛の軽さをその身に纏っているかのように、ふわりと床に着地したネーブルは、
「チョロい、のCよ」
ーーと、静かにそう言った。
CQC。
超、究極に、チョロい。
正式には違うんだけど、まあ、あの戦いを見せられると、見せつけられると、そうだよな⋯⋯。ネーブルの言うとおり。
赤子の手をひねるように、ミーツハートをひねり潰すのは、至極簡単なことだったのだ。
「猫に九生有り。ーーさあ、お姉様、立って。ハルプカッツェの底力を、今こそ見せつけるのよ。そして、お姉様の本当の力を、わたくしに見せてちょうだい」
こちらに向かってゆっくり歩いてくるネーブル。まだ試合を続けようとするネーブル。
「⋯⋯わたくしは知っている。信じている。お姉様の力ーー、こんなものじゃあないってこと。だからーー」
「俺が相手になってやる」
ミーツハートとネーブルの間に、俺は割って入った。
む、という顔をするネーブルは、
「そこをどいてくれるかしら?」
という要求に、俺はこう応えてやる。
「どかない」
「どいて」
「どかない」
「どいてって言っているのよ」
「どかないって言ってるだろ」
「あなたには関係ないでしょう?」
「関係ある。ありまくりだ」
「それはなんだと言うの?」
「ミーツハートはクラスメイトだし、もうくたくただろ。それともお姉ちゃんを痛めつけるのがそんなに楽しいのか? 小学六年生にしてはいい性格してるよな、ネーブルは」
「家族のことに口出ししないでちょうだい。⋯⋯あなたがお姉様と結婚するというのならば、話は別だけれどねーーなんだったら、わたくしでもいいのよ?」
「おませさんだな、お前⋯⋯そういう話は十年早いぞ」
「わたくしは、まあ冗談だとしてもーーどうかしら? お姉様はなかなかいない美人さんだと思うのだけど。少しでも気があるのならーー」
「それはない」
俺は即答した。それはない。たとえ天地がひっくり返ろうとも、絶対にそれはない。
断言しよう。それはない。
「言い切ったわね。だったらどいてちょうだい」
「なんでそうなるんだよ⋯⋯、俺はどかないからな。相手が小学生だろうとなんだろうと、大人げなく立ち塞がるからな」
「それじゃあ腕を出してくれる?」
「は?」
なぜに? と思ったが、言われたとおり、右腕をネーブルに差し出した。
「えいっ」
「いぎゃあああああああああああああああ!!」
何を思ったのか、何を血迷ったのかは知らないが、ていうか知りたくもないが、俺の右腕を掴んだネーブルは、とても自然な動作で、右肩の関節を、すぽっという擬音が聞こえてきそうなくらいスムーズに、いとも容易く外した。
右腕が肩から千切れたのかと思って、思わず絶叫してしまったじゃないか。
「ど⋯⋯どえ!?」
分かってほしいのだが、今の俺は、物凄くパニックに陥っている。どうしていいのか分からない。誰か助けてくれないだろうか。
「ふう。ようやく壁が崩れた。けれどわたくし、まだお昼ご飯を食べていないのよ。そういうわけだから、お姉様、また今度ね。にゃふふ⋯⋯」
「腹いせに人の肩を外す奴があるかあああああ!!」
俺の叫びは体育館に虚しく響いて、掻き消えた。
ネーブルがいなくなったことで、まるで時間の存在を思い出したかのように、姉妹対決など最初から何もなかったかのように、生徒たちが再び昼休みを満喫し始めた。
「くそう⋯⋯! とんでもない小学生がいたもんだ⋯⋯!」
「ミーツハートさん、大丈夫?」
「⋯⋯妾の心配はいらん」
「そうだそうだ、みんな俺の心配をしろよ!」
「どれ⋯⋯貸してみろ」
ミーツハートは慣れた手つきで俺の肩をはめてくれた。この姉妹は関節のスペシャリストか何かなのか? 関節姉妹なのか?
なんだそれ。
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯妹に負けた感想は?」
「ふんっ」
場を和ませようとして言ったジョークだったのに、ミーツハートは、せっかくはまった肩をまた外した。
「癖になるからやめてぇえええええええええ!!」
「うわ。やっぱりジルくんってドMなんじゃん」
「そっちのクセじゃねえよ!!」
「ジル・ヘルメス・ミウラ。お主⋯⋯」
「そんな目で見るなよ! 違うからな!?」
「あはははははははははっ」
と、トリスは腹を抱えて笑った。笑い事じゃない。
笑い事では決してないが、結果として重苦しい空気が改善されたのだから、普通に息ができるくらいまでには浄化できたのだから、まあ良しとしよう。
その後は通常どおりに午後の授業を受けて、ようやく学校での一日が終わり、放課後へと突入した。
余談だが、今日この日、食堂の場所を尋ねる小学生くらいの女の子が、学園中で何度も目撃されたという⋯⋯。
ネーブルは、迷案を思いつく、迷妹なのだった。
姉妹揃って、えげつない。




