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誕生日⋯⋯とか、運動会⋯⋯とか、イベント事のあった日の食事は、いつもと違って豪勢なのだと思うだろう。普通はそうなるはずなのだが。今日は確かに、高校の入学式に、俺は臨んだはずなんだけど。ハルフゥの声に返事をしてダイニングに向かうと、そこには、いつもと変わらない、平々凡々な食卓風景があったーーと、思ったが、一点だけ違う箇所が見受けられた。
「おい〜っす」
俺の姿を認めて、軽い感じに手を上げる少女が、俺の定位置の右側に座っていたのだ。
ていうか、トリスだった。
「なんでお前がいるんだよ。間違えて隣の家に上がってんじゃねえよ。言っておくけど、俺ん家は入場料を請求するからな。しつこく取り立てに行くからな」
「まあまあ、遠慮せずに、こっち座んなさいよ」
「もてなされる側はそっちだ」
言いながら椅子に座る俺。対面には、いつものメイド服を着たハルフゥ。トリスがいること以外は、ことごとく、どこまでもいつもどおりだ。
「サクラザカ夫妻には言ってーーきたよな、当然」
「うん。言ってきた。今日はジルくん家に泊まるー、って」
「⋯⋯そっか」
サクラザカ夫妻。トリス母は、他人の心を優しく包み込むような、柔らかい感じのマダムで、トリス父のほうは、なんていうか⋯⋯豪快で痛快で爽快なナイスガイだ。何年も家に帰っていないアホとは大違いの、理想的なパパさんだ。
それなのにトリスときたら、記念すべき高校の入学式があったと言うのに、お隣さんーーつまり俺の家で食事をし、その上、同じ屋根の下で一夜を過ごすなんて、考えられない。これでは、サクラザカ夫妻がとても可哀想だーー
「じゃなくて。何? 泊まる? 泊まる⋯⋯って、宿泊するっていう意味での泊まる、なのか?」
「それ以外に何があると言うのさ?」
「変換すれば何パターンかはいけるけど、聞くか?」
「聞かないわ」
答えたのはハルフゥだった。聞いてほしかったのに⋯⋯冷たいやつめ。
「さあ。冷めないうちに食べましょう」
「やった! 今日は食うぞお〜〜」
「ていっ」
箸を持って食事を始めようとするトリスの腕にチョップを見舞う。
「ぐはあ!? ⋯⋯な、何をする!?」
「それはこっちの台詞だ。食前、食後のお祈りをしないで料理に手を伸ばすとは何事だよ」
食材に感謝をしないやつにはあげられないな。
罰当たりにもほどがある。
「ウップス⋯⋯いやぁ、目の前の料理があまりにも美味しそうで、ついつい箸が出てしまったよ〜。めんごめんご」
「ふふ⋯⋯分かるわよ、その気持ち」
「作ったやつが言う台詞じゃないけどな。⋯⋯それでは、手を組み合わせてください」
俺の音頭で、二人が手を組み合わせた。
そして、同時に食前のお祈りを捧げる。
お祈りの後は、待ちに待った(特にトリスが)食事タイムだ。
家族の晴れ舞台だったというのに、普段と同じ、代わり映えのしない食卓。
だけど、なんだか、いつも以上に美味しく感じられた。楽しいとすら、思えたくらいだ。
ご飯は人数が多ければ多いほど美味しくなるというのは、どうやら本当のことらしい。そういう心理状態に、もしかしたらあるのかもしれないな。
トリスがいると、賑やかさが二倍、いや五倍にまで膨れ上がる。
こんなにも楽しい食事の時間が、果たして今までにあっただろうかーー覚えていないだけで、あったのだろうとは思うけど、改めて考えてみると、俺って結構、悲しい人生を送ってきているんだなあ⋯⋯。
でもーーハルフゥがいて。トリスがいて。サクラザカ夫妻も良くしてくれて。アホの父さんは、仕事で帰ってこないけど。
うん。大丈夫⋯⋯だよな。
あとはーー難関の、友達をどう作るか。
現時点で一番可能性が高いのは、初対面にもかかわらず、比較的近い距離での会話ができているミーツハート、だけどーー。
ライム・ミケット・ミーツハート。
ハルプカッツェ人のクラスメイトであり、命の恩人。
しかし、手強い相手には、変わりない。
積極的にいこう。自分なりに。
そうすれば、きっと、たぶん、なんとかなるーーはずだ。
今回は、上手くやってみせる。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
トリス・ローゼンクロイツ・サクラザカは俺の幼馴染みだ。鮮烈に残っている記憶の中には、いつもトリスがいて、気が付けば、当たり前のように、俺の隣にはトリスがいる。
まるで金魚の糞のように。
いつまでも、くっついている。
突き放したいーーと思ったことは、不思議なことに、一度もない。
それが当然だと思っていたから、距離を置く必要も、理由もない。
小学校、中学校の九年間、ーー高校一年生を合わせれば十年間になるかーー俺とトリスは別々のクラスになったことがない。
ずっと一緒で。どこまでも一緒だ。
⋯⋯なんか、ここだけ聞くと狂気的だな。
怖えよ。ホラーテイストだよ。
と、まあ⋯⋯こんな感じで、俺とトリスでワンセットな人生を送ってきた。
たぶん、これからも、俺たちが離れ離れになることなんて、たぶんないんだろうなあ⋯⋯。もしもトリスが結婚したとしても、普通に俺の家に入り浸っていそうだ。
ーーその話は一旦、横に置いといて。
ここまで、つらつらと、いかに俺が幼馴染みのトリスと行動を共にしているのかを言ってきたわけだが、しかし、いかな幼馴染みでも、やっていいことと悪いことの線引きは、きっちりしっかりやっておくべきだと、強く思う。
一緒に食事をして、空いている父さんの部屋を使ってお泊まりするのは、まあ、この際は良しとするとしても、だ。
「入ってくんじゃねえよ!!」
お風呂まで一緒とは、聞いていない。
「んもお〜。恥ずかしがらなくてもいいんだよ?」
そう言う割には、隠すべきところは隠している。
頭と身体を洗ってから湯船の中でくつろいでいると、脱衣所から布擦れの音が聞こえてきたので、俺が「入ってくんなよ」と入室NGを出したにもかかわらず、その数秒後に、意味の分からないテンションのトリスが、浴室に闖入してきたのだったーー「ぐははははひひひひぃ⋯⋯! ん〜わたーしが来てやったぜいひひひひふふふふふふふふ⋯⋯!」ーーってなんだよ。手元に携帯があったら警察に通報してるところだったよ。割と本気で恐怖を覚えたくらいに意味不明だったからな。
「恥ずかしがってはねえよ! 一日の疲れを癒すバスタイムくらいは一人でゆっくりしたいだけだ! 出ていけ! ここはお前のような人間が来ていいところではない! さあ! しっしっ!」
「うっふ〜ん。魅惑のボデーで悩殺しちゃう〜」
「お好みの死に方を選ばせてやろう。撲殺、刺殺、絞殺、警察ーーさあ、どれにする?」
「おう⋯⋯ポリスはやめてくれい⋯⋯」
「ーー分かったなら退場しろ。今すぐに」
「そんなことよりも」
「どんなことだよ」
「お背中を流してあげようと思って、馳せ参じた次第にございまする」
「馳せるなよ。そして参じるなよ。どうせなら、爆ぜて散じてしまえよ、頼むから」
「な⋯⋯なんだとおおおおおお〜〜!?」
「お前がなんだよ!? ていうか、もう身体洗っちゃったし、サービスは必要ないから」
「ジルくん。背中っていうのはね、洗ったつもりでいても、実はそんなに洗えていないものなんだよ。ーーだから今、人類の背中は危機に瀕しているのさ。わたしは助けたい⋯⋯みんなの背中は助けられなくても、ジルくんの背中だけは、守ってあげたいんだよ! だよ! だよーーだよーーだよーーだよーー」
セルフでエコーを効かせるトリス。
なんなんだよ、一体⋯⋯。
俺の至福の時間を返せ。現金にして返せ。じゃないと、この煮えくり返ったはらわたを冷ますことはできないぞ。そうじゃなくても風呂に入っているんだから、それにプラスして、そこそこの金額を請求させてもらおうか。
俺は憤慨しているのだ。
激おこぷんぷん丸なのだ。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
むぅ。
でも。
邪魔者が入ったとはいえ、まあ⋯⋯百秒以上は湯船に肩まで浸かることができたんだし、そうだな、そろそろ上がってもいいかなあ?
でもその前に、もう一度、背中を洗ってみるというのはどうだろうか。風の噂だと、案外、上手く洗えていない箇所だと聞いたし、念には念を入れて。
ああ⋯⋯結局、自分で洗うのだから、結果は同じことかーーあーあ、誰か俺の背中を流してくれる、心の優しい人はいないものだろうか⋯⋯?
「わたしはいつでもOKだよ」
そんなことを言うトリスは、風呂椅子を鏡の前に置いてスタンバイしていた。その手にはボディーソープとボディータオル。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
俺は湯船から出て、無言のまま風呂椅子に腰かけた。
「お〜、お客さーん。綺麗なお背中してますな〜」
「きゃー。ここに変態オヤジがいますよー」
トリスはボディーソープを泡立てて、背中の上のほうから、ごしごしと洗っていくーーん?
なんだか、全身がむず痒い⋯⋯!
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
浴室に、俺の背中を洗う音だけが響く。
ごしごしごしごしごしごしごしごし。
ーーなんで無言なんだよ。
なんか喋れよ。
お前が静かだと、調子狂うだろうが⋯⋯。
「ジルくん」
微妙な空気に耐えかねて、無理矢理にでも話題を捻り出そうとしていると、そんな風にーーおよそトリスのものとは思えない、改まった声が、すぐ後ろから聞こえてきた。
トリスは、少し間を置いてから、こう言った。
「ありがとね」
ーーと。
そう言ったのだった。
言葉自体の意味は分かるけど、トリスが、俺に対して感謝しているというのは分かるけども、しかし、この俺が、一体いつどこで何をしたと言うのだーー皆目見当もつかない。感謝どころか、俺がトリスをいじりすぎて、感謝の念ではなく、逆に憎悪の念を抱いているはずなのだが⋯⋯。
恨みを晴らす前は、人は優しくなるーーということ、なのだろうか⋯⋯? ーーん。
今がその絶好の機会じゃねえか! その手に持っている泡だらけのガリガリタオルで絞殺するつもりか! 言葉巧みに俺の背後を取りやがって!
「⋯⋯なんで感謝の意を表するんだ?」
まさかそんなことはないだろうと願いつつそう訊くと、果たしてトリスは、
「いつもそばにいてくれて⋯⋯サンクス。ーーって」
何言わせとんじゃ、ぼけ〜〜〜〜〜〜!
突然ブチ切れたトリスが、ボディータオルで俺の首を絞めにかかってきた。
やっぱり殺す気だったのか。しかしこうして、トリスが殺人計画を実行に移したのだから、俺の読みは正しかったわけだ。
どうだ。参ったか。
じゃあなくて。
「死ぬわ、ぼけええええええええええええ!!」
「ぐ⋯⋯、ぐるじぃ⋯⋯」
殺人未遂の殺人未遂。
これでおあいこ。
殺人未遂も分け合うーーそれでこそ幼馴染みというものだろう?
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
ミウラ家には地下室がある。
錬金術実験室兼素材保管室兼資料室。
俺の父さんは錬金術研究の仕事をしていて、あり得ないほど忙しいのか、もう何年も家に帰ってきていない。傍目からすれば働き者のお父さん⋯⋯だろうが、こっちからすれば、あれはただの典型的なクソ親父だ。会いたいとは微塵も思わないけど、それでもたまには、顔を見せに帰ってきてもいいではないか。
ハルフゥは喜ぶと思うしな。顔には出さないとは思うが。
錬金術研究者である父さんは、我が家にいた時も、ほとんどの時間を地下室で過ごしていた。もしかしたらモグラよりも地面の下にいる時間が長かったかもしれない。三度の飯より錬金術が好きだった父さんの影響を、その息子である俺は、もろに受けていた。
三百六十度、天井近くまでずらりと並んだ書籍や資料に囲まれた、ダイニングよりも広い空間にぽつんと置かれた書斎机、そこに座って本を読み漁ることが、俺の日課となっていた。小さい頃は父さんに質問ばかりしていたジル少年だったが、高校生となった今は、なんとなく漠然とではあるが、本や資料の専門的な内容を理解することができる。王立シュテルンツェルト学園に入学したんだーー俺もいつかは、錬金術関係の職に就く、んだろうなあ⋯⋯。
でも、父さんみたいにはなりたくない。いや、なるもんか。
我が家が一番、だからな。
「うんしょ⋯⋯うんしょ⋯⋯、しゅたっ。到着〜」
梯子で地下室に下りてきたトリスが、体操競技選手の着地姿勢のポーズを決めてから、こちらに向かって歩いてくる。俺もトリスも、パジャマ姿だ。
トリスは、俺が読んでいる本を覗き込んで、顔をしかめる。
「うわ⋯⋯難しい本を読んでやがる。ジルくんってば錬金術と生物学以外の教科はからっきし駄目だからなあ⋯⋯、本は本でも、もう少し教科書を読んだほうがいいと思うよ? 知識はあまり役に立たないけど、人生の役には立つからさ〜」
「なぞなぞみたいなことを言うな。⋯⋯俺はこれでいいんだよ。これが、いいんだよ」
「本の虫であり、錬金術の虫だね〜」
「俺にとっては褒め言葉だな。錬金術の虫。そうなると⋯⋯さしづめ、トリスーーお前は俺の虫、ということになるんじゃないか?」
「はい無視しま〜す」
うざ⋯⋯。
この俺をーー錬金術の虫を無視すんじゃねえよ。
「ほえ〜〜。わたしには理解できない本がいっぱいだ〜」
本棚を見上げながらトリスは、
「そういえば、ジルくんのお父さんって、結構凄い人なんだよね。錬金術研究の」
「傍から見ればそう映るかもしれないけどな、俺からすれば、トリスのパパさんのほうがよっぽど凄い人だよ。そりゃあ、実績はあるかもだけどーーそれだけ。アレは根っからの仕事人間なんだ。俺のことはいいとしても、ハルフゥには顔くらい見せてやれって感じ」
「ふ〜ん。ジルくんもジルくんで、なかなか大変なんだねえ〜」
「逆にお前は毎日が楽しそうで羨ましいよ。その楽天的精神を、オラに少し分けてくれー」
「ぎゅう〜〜」
音もなく背後に忍び寄っていたトリスが、自ら発した擬音のとおり、後ろから抱きついてきた。
「むふふ」
お・す・そ・わ・け。ーーと、トリスは耳元で囁いた。
悪寒。
「やめろお⋯⋯! 背筋がぞぞぞってしたぞぞぞ!」
「そいつは大変だだだ! 早く温めないととと!」
そう言って、またぎゅう〜〜っとしてくるトリス。
いい加減にせい。
「そ、そうだ。試してみたい錬金法があるんだった。トリス。素材保管庫で必要素材を見つけるの、手伝ってくれないか?」
これはその場しのぎに言ったのではなくて、前々から実践してみようと思っていた錬金術だ。
錬金術のレシピーー錬金法。
毎年四月に発売される『アルケルールブック』に載っていない錬金術を使用してはいけない、という法律があって、それは事故を未然に防ぐために作られた法律だ。錬金術は確かに便利だが、危険な技術でもあるからだ。
一から新しい錬金法を見つける錬金術研究者。俺の父さんの職業。
家にいなくても、それは別にいいのだが⋯⋯俺とハルフゥを、本当の意味で、二人きりにはしないでほしいものだ⋯⋯。
「お? わたしで良ければ手伝ってやろう。ーーで、何を作ろうと言うんだい?」
そんな、無粋なことを訊いてくるトリスに、俺は笑ってみせる。
この上なくニヤリと。
「聞きたいか?」
「⋯⋯やっぱりできてからのお楽しみにする〜」
と、いうわけで、俺たちは隣の素材保管室へと向かった。
錬金術研究者という職業柄、ここには、通常のルートではまず手に入れられないであろう珍品が、ごろごろと眠っている。錬金術を学ぶハルプカッツェがこの光景を見たら、嬉しそうにゴロゴロと喉を鳴らすことだろう。
トリスも大はしゃぎだった。
うっひょひょ〜いーーと、欣喜雀躍。
「はあ⋯⋯はあ⋯⋯。じ、ジルくん⋯⋯。必要な素材、ってのは?」
「あー。見つけたからもういい」
「なんですとお!?」
「お前が狂喜乱舞している間に、さっさと見つけちゃったよ」
「あんたーーそれでも人間か!」
「めちゃくちゃ人間してるよ」
「そうか! 人間か! じゃあ戻って錬金しよう!」
その前に少し落ち着いてほしい。
目が血走ってるよ。
ーーそんなこんなで、いよいよ錬金術を開始。
正直なところ、結構、緊張している。
今回の難易度は、SSランクだ。
洗剤がなくて困り果てていたハルフゥのために仕方なく作ってやったハーブディタージェントの場合は、一番簡単なEランク。
ちなみに最高難易度はSSSだ。
錬金術は、錬金法どおりに作れば誰だって上手くいく、というようには、残念ながらなっていない。
『想像の域からの逸脱』
『ゾーン』を展開するのにも、ある程度の技術が必要だし、想像力も人それぞれだから、誰でも同じようにはいかないのだ。
「マーメイドの血に⋯⋯フェニックスの死灰⋯⋯。この、使ったらもう一生手に入らないかもしれないレア中のレア素材を、あろうことか、ジルくんのような平凡な高校一年生が、半ば遊びみたいな感覚で消費してしまっても、果たしてよろしいものなのだろうか⋯⋯ねえジルくん、やっぱり考え直そ? いくら錬金術が得意だと言っても、これはさすがに高校生の手には余りすぎると思うんだけど⋯⋯」
「犠牲なくして勝利なし。失敗は成功の母」
「犠牲にしないで〜。そして失敗は許されないよ〜」
「⋯⋯⋯⋯」
集中してるんだから、いらないプレッシャーをかけるなよなーー間違っても、失敗するイメージだけはしたら駄目だ、してしまったら、一巻の終わりなのだから⋯⋯。
一つ、ゆっくりと、ゆっくりと、深呼吸⋯⋯。してから、魔法少女パピリリカに出てくる、魔力の結晶をイメージした『ゾーン』を展開、そして、素材を持っているトリスに指示を出す。
「トリス」
「はいよ〜」
マーメイドの血、フェニックスの死灰を、『ゾーン』の中に投入。
ここからが勝負だ。
やってやるぜーーここでやらずして、どこでやる。
ーーそうだ。
俺は、天才なのだ。
ティッティ・ピョンドルズ・レーラー先生と肩を並べる天才錬金術師ーージル・ヘルメス・ミウラとは、一体誰なのか。
それは、俺だ。
SSランク? なんだそれは。数学のテストで百点満点を取るよりも、ずっと遥かに簡単じゃあないか。
なんだったらSSSランクでも良かったのだが。
どっからでもかかってこい、って感じ?
ーーと、そんなことを考えつつ、そんな風に必死になって思い込みつつ、俺は二つの素材をかき混ぜる。
同時に、完成形をイメージ。
イメージして、イメージして、イメージしてーー
想像を、超える。
『想像の域からの逸脱』
「おお〜!」
トリスがそんな声を上げた。素材に変化があったからだ。
光り輝く二つの激レア素材が、一つの塊となって、成功したことを金属音のような音で知らせてくれている。
うんうん。
べ⋯⋯別に嬉しくはないよ? 本当だよ?
当然の結果だし。⋯⋯うん。
どうやら俺の目から涙が出ているようだが、なんだろう、ゴミでも入ったのだろうか。
『ゾーン』の中央に留まったのを確認し、『ゾーン』を解除、ふわふわと浮遊する物体を、俺は手に取って、照明に透かしてみる。
黄金色の液体が入った、細いガラス瓶。元気が出るあのドリンクよりも、金色だ。
どろどろで、ぎらぎらだ。
金を溶かしてそのまま瓶に入れた感じ。高く売れそう。
「ジルくん。それは?」
「エリクシール」
俺はトリスの質問に答えた。
「これを飲めば、どんな傷も、たちまちのうちに治ってしまうーーと、錬金法には書いてあった。⋯⋯んだけど、実際に試してみないことにはなんとも言えない。なんせ父さんの汚い字で書かれていたからな、効果を見てみるまでは信用できん」
「えっ⋯⋯ちょっと待って? 父さんは痔?」
「違う! ⋯⋯いやそれは分からんけど⋯⋯父さんの、字。筆跡だ」
「全ての錬金法が載っている『アルケルールブック』に、エリクシールって記載されているのかなあ? もし、いないんだったらーー、ジルくん。ジル・ヘルメス・ミウラくん。あなたは犯罪者ですよ!」
「その犯罪に加担したーー、トリス。トリス・ローゼンクロイツ・サクラザカ。お前は共犯者だぞ」
「んごっ!? ーーし、知らなかったんだ! わたしは何も知らなかったんだよ〜〜!」
「そうだ。お前は何も知らないし、何も見ていない。お風呂から上がったあと、湯冷めしないうちにふかふかのベッドに入って、就寝ーーそれが今日、お前の最後の記憶なんだよ」
「ぐぬぬぅ〜。ぐぬぬぅ〜。⋯⋯ねえ」
ジルくんーーと、やけに冷静になったトリスは、
「エリクシールの効果が本物なのか、はよ見てみたいかも」
「⋯⋯お前も錬金術師の端くれ、というわけか」
まあ、無理もないよなーー俺だって、試してみたくてワクワクが止まんねーよ。
それじゃあ、やってみるとしますか。
俺は書斎机の引き出しからミニナイフを取り出し、トリスのところに戻ってきて、そのミニナイフの刃を親指の腹に押し当てるーーすると僅かな痛みと共に、じわりと血の玉が浮かんだ。
「やっぱりMなんじゃん」
「ちゃうわ!」
ツッコミを入れつつ、ナイフの刃をしまってーーお待ちかね、ガラス瓶の蓋を外し、黄金色の液体を、少しだけ飲んでみる⋯⋯。
エリクシール。回復薬。
「熱っ⋯⋯!」
と、そんな声を上げたのには、理由がある。親指の腹がーーナイフを押し当て出血した部分から、赤い炎が上がったからだ。規模で言えば蝋燭のそれではあるのだが、しかし炎が発生した箇所が箇所なだけに、俺は思わず声を漏らした⋯⋯んだけど。
「⋯⋯くない⋯⋯?」
熱くない。
皮膚が燃えているのに、熱くない。
ぽかぽかするような気もするけど、火傷を負う心配はなさそうだ。
「燃えてるよ〜! バーニングだよ〜! 完全にハプニングだよこれ〜!」
「落ち着け。確かに燃えてはいるけど、熱はほとんど感じないから、たぶん、これは成功したんだと思う。ーーほら」
蝋燭のように灯っていた炎が徐々に小さくなっていって、完全に消えると、そこから微量の灰が舞った。
ナイフによる切創痕も見られない。
完全治癒。
エリクシール、やべえよ⋯⋯。
「エリクシール、やべえよ⋯⋯」
俺の親指をまじまじと見つめて、トリスはそう言った。
「マジぱねぇぜ⋯⋯。もしかすると、あのティッティ先生以上の逸材なのかもしれないよ⋯⋯」
「最初のホームルームで定着しちゃったよな、その呼び方。錬金術の天才を、ファーストネームで呼ぶなんて⋯⋯恐れ多い。それ以前に年上だというのに⋯⋯うちのクラスは猛者揃いだな。あっちを見れば猛者、こっちを見ても猛者。つまり猛者猛者だ」
「意味分かんねーよ。もさもさ。⋯⋯と、馬鹿なジルくんはおいといて〜。ーーエリクシィィィィィィィィル! 完・成! おめでと〜〜! いえ〜い! ふぅふぅ〜! ぱちぱちぱちぱち〜!」
そんな風に、トリスは錬金術の成功を、手放しで喜んでくれた。
少し照れる。
「アシスタントが有能だったから成し得た偉業、なのかもしれないな⋯⋯たぶん」
「それってーーまさかプロポーズ!? だが断る!!」
「なんで振られてんの、俺?」
とにもかくにも、特に何事もなく、無事に高難易度錬金術を、成功という形で終えることができた。ーーいやいや、だから当然の結果だってば。俺の辞書に、錬金術に関して言えば、不可能の三文字は載ってないんだからな。今後、登録される予定もない。
ランクなんて、ないも同然だぜ。ふはははははは!
できあがったエリクシールは、制服の内ポケットに忍ばせておくことにした。これで、トラックに突っ込まれても即死でない限りはすぐに回復可能、無駄な入院生活を送らなくて済む。ーーって、事ある毎に突っ込まれては、たまったもんじゃない。
俺はトラックに轢き殺される運命にあるのか。
ないよ。
それこそ、あってたまるか。
「おやすみなされ〜」
「おやすみになられる」
ひねくれた常套句を交わして、俺たちはそれぞれの部屋へと向かった。トリスは父さんの部屋、俺は自分の部屋へ。
⋯⋯いい加減、強がるのはよそう。
SSランク。かなりーーいや、とてつもなく、きつい。疲労感が半端ではない。頭が重い。ぐわんぐわんする⋯⋯。SSランクでこれならば、最高難易度SSSランクを成功させた暁には、過度な負荷で頭が弾け飛ぶんじゃあなかろうか⋯⋯。
とてもじゃあないが、お見せできそうにねえよ。モザイクだらけで何がなんだかさっぱり分からない、ダークでカオスでクレイジーな画になりそうだ⋯⋯。
ベッドの上に倒れ込んだ直後、猛烈な眠気が襲いかかってきた。
俺は抗うことなく、全てを委ねる。
今夜は、いい夢を見られるのか、それとも、悪い夢を見るのか。
まあ、どっちでもいいんだけど。
大抵の場合は、起きた瞬間に忘れてしまうのだから。
忘れるーー忘れる、か⋯⋯。人は眠っている間に、必要のない記憶は削除しているらしいけど。
忘れるって⋯⋯恐いよな。
俺にも、あるのだろうか?
忘れている、大切なこと。
忘れてはいけない、大事な記憶。
いつの間にか捨ててしまった、何かーーっていうやつが。
何十種類もの錬金法を覚えなければならないから、記憶力には多少なりとも自信はある。捨ててしまった、っていうことは、それは、本当に必要でない記憶だったんだろうから、これからの人生に影響を及ぼすことはないよな、うん。
もしーーもしも忘れているのだとしても、原因は俺ではなくて、他にある。それは、何かって?
だって、この世界はーー




