始まりの日
俺、ジル・ヘルメス・ミウラには何もないーーそう思ったのは、そのことに気が付いたのは、中学生最後の日、つまり中学校の卒業式でのことだった。
卒業式が始まる前。教室で、担任の先生がちょっと泣きそうになり、それにつられて何人かが涙ぐむ。いいクラス環境ができあがっていた証だ。これといった事件はなく、誰それがいじめられているという噂を聞くことも、最後までなかった。
もちろん俺も、クラスの輪の中に入っていたーーと思う。除け者にされている感はなかった。普通に話しかけられることもあったし。こちらから進んで会話に混ざることはなかったけど⋯⋯。
とにかく、俺のクラスは男女共に良好な関係を築いていた。担任教師も含めて。
ーーそして卒業式が終わり。
割れんばかりの拍手の中、卒業生たちは講堂を後にする。
それぞれの教室へと戻り、先生から最後の言葉を聞いて号泣するクラスメイトーー泣いていたのはほとんど女子で、いや⋯⋯案外男子も、必死に涙を堪えていたのかもしれない。男たるもの、涙を見せては格好悪いからな。
このクラスでの、そして中学生最後のホームルームが終わると、卒業生たちはそれぞれ仲のいい友達同士で集まる。
制服の第二ボタンの奪い合いが勃発しているところもあれば、さっきまでの悲しみは一体どこへやらなテンションで記念撮影をする集団もちらほら⋯⋯。
みんな、思い思いに卒業式の余韻に浸っている。
その光景を少し離れたところで眺めている、彼らと同じ卒業生である男子ーーいわゆる俺、ジル・ヘルメス・ミウラ。
周りには誰もいない。
誰も、声をかけてはくれない。
うん。分かってる。
こういう時は、本当に仲のいい、親友と呼べるような相手と喜びや悲しみを分かち合うのだということを⋯⋯ちょっと話したことがある程度では、輪の中には入れてくれないーーこちらから入っては、いけないのだ。
「ジールくんっ」
「ーートリス⋯⋯」
ぴょこん。と俺の後ろから音もなく現れたのは、幼馴染みのトリス・ローゼンクロイツ・サクラザカ。
「⋯⋯気配を消して俺の後ろに立つなよな」
ちょっとビクッてなったじゃねえか。
「ジルくん⋯⋯泣いてるの?」
俺の顔を下から覗き込むトリス。
「泣いてねえよ。泣くわけないだろ。たとえ俺の眼から液体が出ていたとしても、それは涙なんかじゃない。ーー組織液だ」
「鼻ジルじゃないの?」
「人を鼻から出る粘液みたいに呼ぶな」
「いや、独特なボケだと思って。少し考えた甲斐があったってもんだねぇ〜。ーー組織液だ」
「やめろ! 恥ずかしくなってきた⋯⋯! くっ⋯⋯、バナナあったら食べたい!」
「穴があったら入りたい、ね。⋯⋯そんじゃまあ、ぼちぼち帰るとしますか〜」
「⋯⋯⋯⋯ああ」
こうして家路に就く俺とトリスなのであった。
これが俺のーージル・ヘルメス・ミウラの、中学生最後の日。
約一ヶ月前の、切なくて、悲しい悲しいお話。
ーーさて。話は変わって。
人間のステータスは、一体何で決まるのだろうか。
学力。
金銭的余裕。
聖人のような性格の良さ。
生まれ。
職業。
美しい容姿。
などなど⋯⋯他にも挙げられるだろうが、まあ大体こんなところだろう。
決めるのは自分自身だけど、世間の考えも取り入れていかなくてはならない。
趣味は勉強で一日六時間以上は机に向かい、生まれは世界でも有数の貴族でお金はあり余るほどあり、世界の美しい顔にも選出されるくらいの美貌の持ち主で、それに加えて虫の一匹すらも殺めない聖人君子、おまけに職業は映画スター。
⋯⋯⋯⋯。
いねーよ。
まあ、全部の要素を取り入れたらの話ではあるけど、それにしたって、存在するわけがない。人間なのか、逆に疑わしい限りだ。アンドロイドなのかもしれない。
⋯⋯って、人間のステータスは何で決定されるか、だったな。
ーー友達。
そう、友達だ。
俺には何もないーーと、そう思ったのは、そのことに気が付かされたのは、友人の有無ではないのか。
友達は一生の財産だ、というのを聞いたことがある。⋯⋯ああ。だからか。
だから、俺には⋯⋯。
何も、ないのか。
すっからかんなのか。
このまま薄っぺらい人生を歩むなんてごめんだ。
ならばどうすればいいのか⋯⋯、なんて思考は不要だ、その答えは簡単、単純明快。友達を作ればいいじゃないか。しかしーー言うのは簡単、目標を立てるのは、誰にだってできること。
幼稚園、小学校、そして中学校と、たったの一人として友達ができなかった俺だ、そう易々とはいかないだろう。かと言って、ぐいぐいと攻めることもできない。性格も、そう簡単には直せないしな⋯⋯。
だが、やろう。やってやろうじゃないか。俺だってやる時はやる男だ、友達の一人や二人、ちゃちゃっと作ってみせるぜ。
新生ジル・ヘルメス・ミウラの、誕生の瞬間である。
うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!
ーーふう。
気合いを十二分に入れたところで。
さあ、始めよう。新たな一歩を踏み出す時だ。
季節は春。四月の上旬。
今日から俺は、高校一年生。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
『朝ですよー! 起きてくださーい! 起きてくれないと⋯⋯わたしの魔法で、完全覚醒させちゃいますから! ーー朝ですよー! 起きてくーー』
ずっと聴いていたい気持ちで山々だったが、アラームが鳴った瞬間に眼を開けていた俺は、仕方なくーー本当に仕方なく、泣く泣く置き時計のボタンを押して、アラームを止めた。
それから死ぬほど背伸びをしてから、一階の洗面所へ移動する。俺は朝起きてすぐに歯磨きをしない派だが、就寝後の口内は大変なことになっているらしいので、入念にうがいをする。その後は冷たい水で顔を洗う。ここまでやって、ようやく完全覚醒を果たす。
この後は朝食だ。
居間に近付くにつれて、芳しい魚の焼ける香りが鼻腔をくすぐる。ふんふん⋯⋯、ああ、この匂いはアジだな。早く食べたすぎて歩くスピードがどうしても上がってしまう。
居間に入ると、キッチンで料理をしていたハルフゥが、起きてきた俺を見て言った。
「おはよう。もうすぐできるから」
「んー。⋯⋯なあハルフゥ、今日の干物は、アジですよね?」
大好物が魚の干物の俺にかかれば、焼いた時の匂いだけで魚の種類を判別することが可能なのだ。
干物はいい⋯⋯干して水分を飛ばすことによって保存性が高まり、魚の旨味がギョッとーーいやギュッと凝縮されて、それだけではなく栄養価もアップするという大変優れた加工食品なのだ。
「違うわよ」
「うぇえええええええ!?」
まさかの不正解に悲鳴を上げる俺ーーいやいやそんなはずはないこの匂いは絶対にアジのはずだぞ!
「嘘。アジよ」
「無意味な嘘をつくなよ⋯⋯朝っぱらから近所迷惑ギリギリセーフかギリギリアウトの大声を上げてしまったじゃねーか⋯⋯」
でもよかったぁ。予想が当たってて。
ーーううん。これくらい当然だからな。間違えるわけがない。嘘つきは泥棒の始まり、ということわざを、ハルフゥは知らないのだろうか。
そんな、平然と嘘をついたハルフゥは、おぼんに朝食を載せてテーブルに運んできた。
白米。味噌汁。だし巻き卵。ほうれん草のおひたし。豆腐。そしてやっぱりアジの干物。
テキパキと朝食の準備をするハルフゥの服装は、父さんの趣味でメイド服に統一されている。寝る時以外は、ずっとメイド服だ。黒のロングワンピースにフリフリの白いエプロン、同じくフリルのついた白いカチューシャといった、メイド服としてはオーソドックスなもの。肌の露出は少なく、出ているのは顔と手くらいだ。寒い暑いに関係なく、ハルフゥはオールシーズン、このメイド服で過ごしている。
彼女は俺の母親ではない。実の母親は生まれつき体が弱く、俺が二歳の時に亡くなったのだそうだ。写真で顔を見ることはできるけどーー母さんと一緒に過ごした記憶が、俺にはまったくない。まあ⋯⋯二歳と言えば、人によって差はあるだろうが、物心がついていなければ、どんなに嬉しいこと、悲しいことだって、すぐに忘れてしまうものだ。二歳児の俺は何も悪くない。
「ーーイラッてくるのよ」
配膳し終えたハルフゥは、椅子に座るなり不機嫌に言った。
「いちいち自慢のように魚の種類を当てにくるのが、私にはあり得ないほどのストレスなのよ。ジル、あなたには分からないでしょうね。私がどれほどまでにあなたを殴りたい気持ちを必死に抑えているのかーーもうどうしてくれるのよ。一体どのようにして責任を取ってくれるのかしらね」
「どのようにもしねえよ⋯⋯性格が特殊すぎるだろ。責任? これっぽっちも感じないんですけど」
なんなんだそのストレスの溜まり方。自分でなんとかしろよ、それくらい⋯⋯カラオケに行くなり、ストレスの発散法なんて、いくらでもあるだろう。
ちなみに俺はアニメを観ること。アニメ鑑賞中は意識が画面に引き込まれるから、現実の全てを忘れ去ることができる。現実逃避ではない。現実回避だ。
「あなた、今日から高校生でしょう?」
ハルフゥは言った。
「高校生はもう立派な大人。義務教育から解放された子供たちは、大人の仲間入りーー干物当てクイズなんてやっちゃあいけないのよ。知らなかった? 一応、法で定められているのだけど」
「さも常識のように虚言を弄するな!」
「いちいちツッコむあなたも、ある意味特殊よね」
「⋯⋯⋯⋯」
俺はハルフゥの発言を無視して、手を組み合わせる。それを見たハルフゥは「まったく⋯⋯」という風にため息をつきつつ、同じように手を組み合わせた。
食前と食後の祈りは忘れずに。
この世の全ての生命に、感謝をーー。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
王立シュテルンツェルト学園の制服に袖を通す。
白を基調としたブレザータイプで、着丈が少し長く、白衣のようにも、また、マントのようにも見えるデザインだ。
スクールバッグは、学校指定のリュックサックだ。とにかくいっぱい物が入る高機能設計なのだが、なぜか生徒の評判は悪いらしい。俺は気に入っているんだけどな⋯⋯。
着替えが完了し、再び居間へ。
ドアを開けて居間に入るやいなや、流し台に立つハルフゥが声を上げた。
「あちゃー⋯⋯ストック切れてるの、すっかり忘れてたわ。どうしようかしら⋯⋯、外に出るのは面倒だし。ああ⋯⋯あーあ。誰かなんとかしてくれないかしらねえ。⋯⋯⋯⋯チラッ」
「回りくどいわ。なんだよ。何事だよ。ーーま。ままま、まさか干物のストックが⋯⋯!?」
由々しき事態じゃねえか!
あちゃー⋯⋯で済まされる問題じゃあ、全然ないよ!
生きるか死ぬかの死活問題だよ、それ!
うぅ⋯⋯冷蔵、冷凍庫に干物の備蓄がないーーと思うと、なんだか寒気が⋯⋯。
「干物がないくらいで死にそうな顔するんじゃないわよ。いや干物はあるわよ。それこそ死ぬほどあるわよ。私が言っているのは、洗剤のストックのこと。昨日、買わなきゃ買わなきゃってずっと思ってたんだけどーーほら、誰にだって失敗はあるでしょう? 人間は失敗する生き物なんだし」
「ハルフゥは『人間』じゃなくて『人魚』だろ」
皿洗いをするハルフゥは腕まくりをしていて、普段は隠れている腕が露出している。
そこにはーー中途半端に残る虹色の鱗。ハルフゥが人魚ーーマーメイドだという証拠。
ハルフゥがこの家にやってきたのは十年前。ハルフゥが言うには、怪我をして砂浜に打ち上げられていたところに俺の父さんがやってきて、そのまま家に連れてこられたのだそうだ。
もちろん、最初は完全な人魚の姿だった。十年前のことだから、俺もしっかりと覚えている。助けられたハルフゥは、父さんの言うことをよく聞いていた。⋯⋯こんなんだけど、案外、義理堅いやつなのかもしれない。
陸に上がった人魚は尾びれを失い、二足歩行となる。水中で息もできなくなる。彼女はそれを悲嘆することなくすぐに受け入れ、二足歩行の練習に励んだ。一ヶ月くらいだったか⋯⋯ハルフゥは驚異的なスピードで二足歩行をマスターした。その頃には俺よりも速く走れるようになっていたことに、五歳の俺は悔しさを覚えていたような気がする。
こうしてーーメイドインミウラ家の、マーメイドのメイドが誕生したのだった。
「人魚も失敗する生き物よ。⋯⋯間違って船を難破させてしまったり」
「取り返しのつかないミス!」
「嘘よ。それより何より、早くなんとかしてちょうだい。あなたのせいで洗い物がいつまで経っても片付かないじゃないの」
「それが人に物を頼む時の態度か。⋯⋯はぁ」
まあ、やりますよ。なんやかんや言って、最終的にはやるんですけどね。ええ。
洗剤⋯⋯洗剤かぁ。ーーうん。大丈夫だな。
俺はハルフゥから少し離れて、両手のひらを前に出す。「ストップ!」という感じ。このスタイルが一番やりやすいし、失敗しにくい。
そしてーー『ゾーン』を展開、維持する。
この『ゾーン』は決まった形がなく、人それぞれ球体だったり箱型だったりする。要はやりやすさ、イメージのしやすさで決める。青白い半透明の俺の『ゾーン』は、小星型十二面体だ。トゲトゲしていて、ウイルスを映像化したらこんなんだろうなあ、というような形。変だ、変わっているーーとよく言われる。自分でもそう思うが、この形が一番イメージしやすいのだから仕方がない。
『ゾーン』を維持しつつ、制服の裏ポケットをごそごそ漁って二つのアイテムーー二種類の素材を取り出して、『ゾーン』の中に放り込む。
シュタビールハーブと、モコモコ石。
シュタビールハーブは内服薬や外用薬、防虫、防臭、香辛料として使われるなんでもござれな万能ハーブで、見落としがちだが、そこら辺の草むらにひっそりと生えていたりする。
モコモコ石は水を含むと泡立つという性質を持っている。しかしその性質ゆえに、雨の日にはモコモコ石の周辺が、そりゃあもう大変なことになってしまう。モコモコ石は悪くないーー何も悪くはないんだよ⋯⋯。
とまあ、この二つの素材を投入したら、次のステップへ。
『ゾーン』の中を、かき混ぜる。
と言っても、手を突っ込んでぐるぐるとこねくり回すわけではない。道具も、必要ない。
イメージ。混ぜるーーという、イメージをするだけ。たったそれだけで、『ゾーン』の中を漂う素材たちが、螺旋を描きながらぐるぐると回転を始める。
ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐる。ぐるぐるーー徐々に回転速度が、上がっていく。『ゾーン』の中で何が回っているのか分からないくらいの速度になった時、二つの素材が一つの塊となって光り輝くーーキン、キン、という金属同士を打ちつけるような音が、居間に鳴り響いた。次第に動きがゆっくりになっていき、『ゾーン』の中央に留まったそれを見て、俺は『ゾーン』を解除する。そこに浮かぶボトルを掴んでーーハーブディタージェント、注文された食器用洗剤を、ハルフゥに渡した。
『想像の域からの逸脱』
『ゾーン』を操り、錬金術を行うための力だ。
「錬金術は本当に便利よね⋯⋯」
食器用洗剤ボトルをしげしげと見つめながら、ハルフゥはしみじみと言った。
「いちいち外に出なくてもいいから」
「海に還すぞいい加減」
放流してやろうか、まじで。
ありがとう⋯⋯だろ、まずは。
父さんに着せられているとはいえ、そのメイド服は飾りかよ。もうちょっとメイドしてくれても、バチは当たらないと思う。
「あら。いいのかしら? 私がこの家を出て行ったら、一体誰が掃除、洗濯、炊事、買い物をするのやらねえ。ジル。あなたにできるの? ねえ。できるのかしら?」
「んん⋯⋯、まあ、やろうと思えば?」
「ーーあっそ。はいはい。洗剤どうもありがとうございました。皿洗いの邪魔だからあっち行っててくれませんかねえ。それとも代わってくれるのかしら? 魚臭いグリルも洗わないといけないのよ。ああ大変大変。これだから魚は嫌なのよ」
「人魚の発言とは思えないな⋯⋯。へーへー。言われたとおり、あっちに行ってますよー。あー、ありがたやーありがたやー」
適当にそんなことを言いつつテーブルに戻ると、ちょうど携帯電話が鳴った。
誰だろう? と思う必要はなく、電話の相手は、トリスだと分かっている。トリス・ローゼンクロイツ・サクラザカであると、分かりきっている。
理由は察してくださいね。ご協力お願い致しやす。
スラックスのポケットからスマホを取り出してーーやっぱり相手はトリスだったーー通話ボタンをタップし、耳に寄せる。
『おっはよーおさーん! わたしプレゼンツ、モーニングラヴコールだよ〜〜。目ぇ覚ましたる! 起きれ! 起きれえ! 起きなはれ!』
「ノーサンキューだっ! ⋯⋯ていうか、もうとっくに起きてるわ。覚醒済みだわ」
『そっか〜。覚醒済みだったか〜。ところでジルくん、もう出陣の準備はできているのかね? ちなみにわたしは今起きたとこ』
「お前が一番起きれよ! さっさと顔洗ってこい!」
寝起きのテンションじゃねえよ⋯⋯。まだ時間に余裕があるとはいえ、もうちょっと早く行動してほしいものだ。
『あいよ〜。ジルくんは首を洗って待っててね〜』
「知らない間に恨みを買っていたのか俺は⋯⋯。それじゃあ、トリスんちの前で待ってるからな。制限時間は二十分。それを過ぎたら先に行ってる。入学式に遅れたレジェンドとして、名を馳せたくはないしな」
不良っぽいと思われるところもマイナスポイント。
スターターピストルが鳴った瞬間に、豪快にずっこけるようなものだ。
『うぇえ。そいつはてーへんだ。急がねばねば〜』
まったくてーへんではなさそうなトリスだった。
∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞ ∞
トリスの家は、俺の家から徒歩五秒のところにある。
ていうかお隣さんだ。
ミウラ家とサクラザカ家は、俺とトリスが産まれる以前から仲が良かったらしく、俺とトリスが幼馴染みとなったのは必然と言えるだろう。
幼馴染みだから、ではないが⋯⋯でも、なんで俺は、そうしなくても別にいいのに、トリスと行動を共にしているのだろう? 気が付けばトリスのそばにいるし、トリスもまた、俺の近くに寄ってくるーーなんだか、磁石みたいだな。
なんだろう、この気持ちーーというような、漫画などでよく見られる鈍感な主人公がいるけど、トリスとの間には一切、恋愛感情は存在しない。トリスが少し過剰なコミュニケーションを取ってくるくらいで。
幼馴染みって⋯⋯そんなもんなのかなあ。
分からない。勉強が楽しいと思える人の気持ちよりも、遥かに謎めいている⋯⋯。
「ごめんごめん! ぎりぎりセーフ! ⋯⋯だよね?」
勢いよく開いた玄関から、これまた勢いよく飛び出してきたトリスが『セーフ』のポーズをした後、小首を傾げて俺の顔色を窺う。面白い姿勢だ⋯⋯。
「ーーセーフ! ⋯⋯ということにしてやろう」
俺が家を出てから、十分も経ってないんだけどな。いつものやりとり、ということで。
セーフ判定を聞いたトリスは、ホッとした様子を見せて、玄関の扉に鍵をかける。
「ねえねえ、ジルくん」
トリスは言った。ふわりーーと、こちらに向き直って。
「どうかな? 似合ってる?」
王立シュテルンツェルト学園の女子制服も、白を基調としたブレザータイプだが、燕尾服のように、後ろに二つの尻尾が垂れている。女子は、スカートか、パンツかを選べるシステムとなっていて、トリスはスカートをチョイスしていた。
さて。似合ってるか、という質問だが⋯⋯。
「似合ってる? って⋯⋯、一緒に制服のサイズ合わせに行っただろ。その時に、散々言わされた記憶があるんだが⋯⋯。たぶん三十回くらい。一生分の『似合ってる』を言った自信があるな。うん。これ以上、お前は何を求めると言うんだ。俺の数少ない語彙から、『似合ってる』を奪う気か」
「そ、そんなことがあったのか⋯⋯!!」
「他人事のように驚愕してんじゃねえよ! トリス、お前は当事者だ!」
「まあまあ。そう怒んなさんな。でもジルくん、それは駄目だよ〜、女心がまったく分かってない。分かっていらっしゃらない。いいかい、ジルくん。女、っていうのはねぇ⋯⋯綺麗だ、美しい、可愛い! って言われれば言われるほど、輝きが増していくものなんだよ。女はダイヤモンドの原石ーー磨けば磨くほど、女としての価値が上がるのさ⋯⋯そう」
だからーーと、トリス。
「似合ってると言え?」
「疑問形で命令形!?」
「似合ってると言おう?」
「なんか諭された!?」
「四の五の言わずにさっさと言え〜〜〜〜っ!!」
「なにゆえ怒られてんの俺!? ていうか、お前が怒んなさんなよ!」
何、この掛け合い? 時間の無駄すぎるだろ⋯⋯。
「そろそろ観念したほうがよろしいんでないかい? 入学式に遅れてもいいと言うのかい? ほれ。ほれほれ。さあ⋯⋯どんとこ〜い」
「⋯⋯⋯⋯」
幼馴染みが面倒臭い。とてつもなく、どうしようもなく、これ以上はあり得ないほどに、面倒臭い。トリスの場合、女の部分ではなくて、面倒臭さに磨きがかかっている気がする。『オトナの女性』に憧れ、目指しているらしいトリスだけど、どう考えても走っている方向が違うーーていうか、真逆だよな。逆走。
でも、まあ。そうだなぁ。
「⋯⋯似合ってるよ。すっごーくな」
感情のこもっていない褒め言葉を聞いたトリスは、果たして、
「にっしっしー」
と、満面の笑みを浮かべるのだった。
嬉しいものなのか? こんなことで。嬉しさ水準、低すぎだろ。
太陽のような笑顔、というけど、今のトリスは、その比喩表現によく合っている気がした。機嫌が悪いよりかは、こうして笑っていてくれたほうが、こちらとしても楽だから、うん、やっぱり言って良かったのかな。
言葉一つでめちゃくちゃ上機嫌になったトリスは、車の通りが少ない道路に飛び出して、ビシッと太陽を指さす。
「今日は入学式日和! まるでお天道様も、わたしたちの晴れ舞台を祝福しているようだ! さあジルくん。いざ、王立シュテルンツェルト学園へ〜⋯⋯ゴーアヘーッド!」
散歩中の犬に吠えられているトリスに近付いて、俺は、その太陽のように明るい思考回路を持つ頭にチョップを食らわせる。
「世界迷惑だからやめろ」
「近所に留まらず? わたしって大物?」
「ある意味大物だよ。馬鹿やってないで、早く行くぞ。雑談ばっかりしてたら、マジで遅刻するかもしれないからな」
俺は歩き出す。
たたたーーと、トリスが追いかけてきて、右側に並ぶ。漫才コンビのボケとツッコミのように、これが俺たちの定位置だ。話し合いに話し合いを重ね、熟慮の末に誕生したポジショニングというわけではないのだが、不思議なことに、これが一番しっくりくる。トリスも自然と、俺の右側で落ち着いた。
少し歩くと、ここフォイアー区で、一番大きな通りに出る。人工音がこんなにもやかましいのに、少し歩いたところにある俺の家までは、なぜか、この喧騒は届いてこない。建物が壁となって、反射して、だんだんと弱まっていくのかもしれない。
「あっ⋯⋯おんなじ制服、発見!」
と、反対側の歩道を歩く女子二人組を見つけて、トリスが声を上げるーー指をさしていたら、今度はグーで殴っていたところだが、さすがのトリスも、そこまで幼稚ではなかったようだ。感心、感心。一人はトリスと同じスカートだが、もう一人のほうは、脚のラインがくっきりと出る、パンツタイプの制服だった。肌が見えてはいない⋯⋯のだが、ある意味、脚をさらけ出すスカートよりも勇気のいる、上級者向けのファッションではあるよな。それに、少し体重が増えただけで入らなくなりそうだーーその点、トリスはスカートを選んで正解だと言える。こいつは、甘い物には目がない。どうしようジルくんズボンが履けなくなっちゃったよ〜。と泣きついてくる光景が目に浮かんでくる。
「ふあぁぁ〜⋯⋯今日からわたしたち、高校生なんだねぇ」
「て言っても、あんまし実感が湧かないけどな」
「⋯⋯? なんで?」
「王立シュテルンツェルト学園は中高一貫校だろ? エスカレーター式に中学生から高校生だ。それに、校舎もお隣さんときた。通学路も同じ。通い慣れた道。俺の隣には、いつもトリスがいる」
「え? わたしがいて嬉しいって? うふふ⋯⋯ジルくんったらぁん」
「うるせーよ。代わり映えがしないっていう話だ。なんか、新鮮さが感じられないというか⋯⋯日常がそのまま続いてってる、みたいな⋯⋯?」
「ん〜〜。ーーわたしは、違うかな」
トリスは顎に指を当てて、考えるように空を見上げる。
高いビルがひしめき合い、遮られた青い空。そこを流れる、白い雲。俺もつられて、無意識のうちに仰いでいた。
ーーって。なんでだよ。駄目じゃないか、俺の無意識。トリスごときに誘導されるな。人混みの中では命取りとなるぞ。
「うん。フレッシュだ。朝どれ野菜のように、新鮮な気持ち。今日は何が起こるのか、明日はどんな日になるだろうーー楽しみで楽しみで仕方がないよ」
「⋯⋯その思考、羨ましいな」
はっはっは〜。と、トリスは笑って、
「今日。新たなトリス・ローゼンクロイツ・サクラザカが、爆誕したのだよ! おうおう、図が高いぞ。控えおろう! わたしを誰だと心得る!」
「トリスだよ。見まごうことなく、普通のトリスだよ」
自分で名乗ってたし。フルネームで。凄く偉そうに。腰に手を当てて。
一体、何が爆誕したんだよーー俺はお前の馬鹿馬鹿しさに、落胆を禁じ得ないよ。
まあ、なんだかんだ、付き合ってあげるんだけどな。
無視することもできるのだが、俺のツッコミ魂が、無視することをよしとしないのだ⋯⋯。むぅ。
俺は本格的に、お笑い芸人を目指すのか。
なんでやねん!
どないやねん!
もういいよ。
「でもさ。この制服姿は目新しいんじゃない? ほぼ採れたてだよ? かぶりついてみる? さあ、豪快にいっちゃって〜」
「なんでだよ」
ビシッ。ーー思わず手が出てしまった⋯⋯トリスの左肩に、華麗なツッコミを入れてしまったぞ⋯⋯。幼馴染み漫才コンビか、俺たちは。あの有名なグランプリの優勝を目指すつもりなのか。
トリスは歩きながら、「わたしを好きにして〜」というように、腕を広げて、眼を閉じている。
だから、俺は、反射的にツッコんで正解だった。大正解ーーと言うよりは、運が良かった、と言うべきかもしれないが、とにかく、ツッコミをかました俺は、位置的に右を向くことになるーー横断歩道。
道路を横断するための、等間隔で白線が引かれた歩道。
俺とトリスは、横断歩道を渡っている、その途中だった。
前方の信号は、青。もちろん、交通ルールはきっちりと守っている。ただでさえ交通量が多いのだから、守らざるを得ない。
そう。交通ルールは守らなければならないのに、そのはずなのだが、にもかかわらず、なぜか、一体全体どういうわけなのか、徐行もせずに、それどころか、むしろスピードを上げながら、十トンもの巨体を誇る大型トラックが、俺たちに真っ直ぐ向かってくるーー逸早く気が付いた俺は、トリスを、横断歩道を渡りきったところへ、思いっきり突き飛ばした。気付けば突き飛ばしていた。咄嗟の判断なんだから、許してほしいところだ。せっかくの制服を汚しちゃってごめんな。
ーーああ。居眠り運転か。
大型トラックともなると、死角が多い。まだ俺は死角に入っていないから、ドライバーの顔がよく見えた。なんとも気持ち良さそうな寝顔だ。すぴーすぴーと爆睡中で、起きる気配がない。鼻ちょうちんを割って起こしてやりたいところだが、今の俺にその術はないーートラックとの距離と速度的に、避けることも不可能らしい、ということは、ただ死を待つばかりか⋯⋯。
人は死ぬ瞬間、全てがスローモーションに見えるーーというのを、どこかで聞いたことがある。恐らくこれだ。今、この瞬間のことだ。
伝説は本当だった⋯⋯。これなら、迫り来る弾丸も、剣で両断できるかもしれない。
いや。俺自身もスローモーションだよ。蜂の巣にさせて、それで終わりだよ。今の状況だと、蜂の巣じゃなくて、紙だな。ぺらっぺらにならずとも、半分の体積に圧縮されるだろう。大型トラックにプレスされて。
そうこうしているうちに(五ミリくらいしか動けていない)、大型トラックは三メートル先まで迫ってきていた。
ーー死んでたまるか。
色々足りていない頭をフル回転させれば、もしかしたら起死回生のグッドアイデアが浮かんでくるかもしれないじゃあないか。
俺はーージル・ヘルメス・ミウラは、やっぱりやればできる男だった、ということを、今、トリスの目の前で証明してやろうじゃねえか!
むぐぐ⋯⋯ーーーー、むぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐぐううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううううーーッ!!!!!!
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
ーーーーぜ。
全然浮かばん!!
なんなんだよ。なんなんだよ、俺はああああ!!
くぅ⋯⋯。もっと勉強しておけば良かった⋯⋯。何もかもが遅すぎるのだが。
でも。
だけど。
考えすぎて、気付くのが少しばかり遅れたけど、俺は、大型トラックに衝突されて死亡ーーという結果には、どうやらならなかったらしい。それでも腰が抜けて尻餅をついてしまった⋯⋯思考がようやく追いつき、改めて状況を把握することに努める。
大型トラックは、一メートル先で停止していた。その前。トラックの前方。そして俺の前方。つまり大型トラックと俺との間に、トリスと同じ、王立シュテルンツェルト学園の制服を着た少女が立っていた。
足を踏ん張り、トラックの進行を、素手で食い止めるように⋯⋯?
少女の頭の上には、尖り気味の三角形をした耳が生えている。燕尾服のように二つの尻尾が垂れているところもトリスとは変わらないが、もう一本、しなやかな細い尻尾が揺れていた。
ハルプカッツェ。
簡単に言うと、猫に近い人間。身体能力は高いのだが、錬金術が苦手な人種だ。
ハルプカッツェは身体能力がずば抜けて高い人種、ではあるのだが、大型トラックを素手で、しかも細腕の女の子が、果たして止められるものなのだろうか?
俺に怪我はない。また、ハルプカッツェの彼女にも、怪我はないようだ。痛がっている様子すら見せない。でも⋯⋯それでも心配だ。大型トラックに突っ込まれたのだからーー俺のツッコミの何億倍の衝撃だと思っているんだよ。
⋯⋯一番の被害者は、俺に突き飛ばされたトリスのようだった。制服も汚れたし。⋯⋯って、悪いのは居眠り運転をしたドライバーだよな。
ハルプカッツェの彼女がいなければ、犠牲になっていたのは俺だけとは限らない。そう考えると、ぞっとする⋯⋯。
彼女の安否を問おうと口を開きかけた俺だったが、先に彼女のほうがこちらを振り向いた。
ハルプカッツェの彼女は、笑っていた。
ニヤリ、と。なぜか、不敵な笑みを浮かべている。
何か面白い出来事を思い出して笑っているのだろうか⋯⋯とも思ったが、どうやら違うらしい。無様な姿で自分を見上げる俺を見て、嘲笑しているのだ。
そして、尻餅をついた俺を見下ろして、彼女は最大限の侮蔑の意を込めて、こう言った。
「怪我はないかのう? この、鈍間が」
「⋯⋯⋯⋯」
後半は認めるが。前半。
それは、こっちの台詞だ。




