人間を、条件表に載せる
嘘をつかない紙を作るのに、三日かかった。
同じ原料、同じ漉き方、同じ下地量。乾燥時間まで揃え、光の入らない黒い遮光箱で保管する。箱の蓋には事務官の封紙が貼られ、保管開始の時刻が細かい字で記されていた。
紙を疑い、その紙が入る箱まで疑う。そこまでして、ようやく実験の入口である。
「良い箱です」
「ありがとうございます」
事務官は、もうかなり自然に答えるようになっていた。昨日まで止めに来ていた男が、今は保管条件を整えている。マリーは、王宮管理部が褒められて育つ部署になりつつある気がした。
「本日の目的は、保管光条件を遮断した統一下地紙で、斜め縁試験を再実施することです」
カミーユが記録板を開いた。
「完全乾燥後、同じ紙、同じ下地、同じ条件で、線太りが同じ場所に戻るかを見ます」
「戻れば」
「候補に上げられます。証明ではありません」
言われる前に、リゼットが自分で付け足した。
* * *
第一試行。
封紙の確認、開閉記録の確認、箱を開けてから試験開始までの時間の記録。手順は、もう誰も迷わない。
ロアンが魔力を流す。斜め縁の影が術式線を撫でる。紙面は落ち着いている。乾燥途中の下地膜が勝手に光る、あの偽反応も、今日は出ない。
待つ。焦らない。待つことも条件だと、この部屋はもう知っている。
線端が、ほんの少しだけ太く見えた。
昨日までと同じ場所だった。
「魔力値、検出限界付近。影端は一拍ずれ」
ロアンが読み上げる。
「弱候補、維持です」
リゼットの字は、丁寧だった。とても丁寧だった。マリーは知っている。この丁寧さは、跳びはねたい気持ちを紙に押しつけている状態である。
だが、第二試行では、出なかった。
同じ紙、同じ下地、同じ箱、同じ時間管理。それなのに、線は最後まで一本のままだった。
「一回出て、一回出ない」
ルイスが言う。
「再現性が弱いです。候補は落としません。ただし、強めません」
妥当。その言葉は、たいてい面白くない。
* * *
第三試行も、出なかった。
条件はすべて揃っている。封紙、箱内位置、室温、湿度。事務官の記録票を全員で確かめても、一回目との差は見つからない。
沈黙が落ちる。そのとき、ルイスが言った。
「同じでないものが、一つあるよ」
全員が振り返る。ルイスは、ロアンを見ていた。
「ロアンは今朝から三回、魔力を流している。紙は毎回新しいけれど、術者は新しくない」
ロアンが、自分の手を見た。記録水晶の写しを並べる。流量はどれも規定範囲内。だが、第三試行だけ、立ち上がりがごくわずかに鈍い。規定上は誤差。検出限界付近の現象を相手にするには、無視できない誤差だった。
「……疲労です」
ロアンは認めた。
「低出力を一定に保つのは、強い魔力を出すより神経を使います。三回目は、正直に言えば、指先の感覚が鈍っていました」
リゼットは、記録水晶の写しを長い間見ていた。それから、静かに言った。
「術者も、条件のうちです」
「今まで条件表に載っていませんでしたね」
カミーユが言う。
「紙と光と箱は疑ったのに、人間を疑っていませんでした」
リゼットは記録紙に書き加えた。
『管理項目追加:術者連続稼働時間・休息間隔』
事務官がそれを写しながら、小さく言った。
「人間が管理項目に入るのは、初めてです」
「遅かったくらいです」
* * *
ロアンに半刻の休息が与えられた。
休息中、リゼットは聞いた。
「低出力を一定に保つとき、何を基準に」
「感覚です。水差しから糸のように水を注ぐのに似ています。疲れると、同じつもりでも糸が太くなったり途切れたりします」
「乱れる前の兆候は」
ロアンは少し考えた。
「……指先が、温かく感じます。実際の温度ではなく、感覚として」
リゼットは書き留めた。『術者自己申告:指先の温感=疲労の先行兆候(仮)』。ロアンは、自分の指先が管理項目になっていく様子を、複雑な顔で眺めていた。
「ロアン様。指先が温かくなりましたら、正直にお申し出くださいませね」
マリーが、横から念を押した。
「隠しますと、条件が汚れるそうでございますから」
「侍女長殿まで、実験の言葉を覚え始めている……」
ロアンは、この屋敷の人間が一人また一人と実験室の住人に変わっていく現象こそ、誰かが記録すべきだと思った。ちなみにこの現象にも、再現性があった。
半刻後の第四試行では、線太りは同じ場所に戻った。休息が、条件だった。
「三回連続は」
「不成立です。第三試行の失敗を疲労で説明するのは、結果を見てからの後付けです。今日のところは、四回中三回、としか言えません」
カミーユが頷く。
「妥当です。それに、今日の判定はもう一つあります。三回連続の失敗ではなく、不成立の要因を特定できたこと。次は、術者の休息を最初から組み込んでやり直せます」
リゼットは少し黙り、それから認めた。
「……良い言い方です」
* * *
まとめを書き終えたリゼットに、ルイスが言った。
「一つ聞いていいかな。術者の疲労が条件なら、記録者の疲労も条件じゃないのか」
リゼットの羽ペンが止まった。
「私は魔力を流していません」
「線を描いて、記録して、判定している。三回目の判定が鈍ったら、誰が気づくんだ」
反論を探した。見つからなかった。
「……検討します」
「検討ではございません」
マリーが横から言った。
「管理項目でございます」
事務官が、ごく自然に書き足した。『管理項目追加:記録者連続稼働時間』。マリーは深く頷き、カミーユは笑いをこらえ、ルイスは窓の外を見るふりをした。
「異議を申し立てます。私の休息は、術者より短くて成立します」
「その主張の根拠となる記録は、ございますか」
マリーが、聞き覚えのある言い回しで切り返した。
「……ありません」
「では、棄却でございます」
完璧な運用だった。教えた本人が、教えた通りの手順で負けた。
魔法陣は、まだ正体を見せない。未知記号も出ない。だが今日、条件表に初めて人間が載った。
人間を条件として扱うのは、思ったより、簡単だった。訓練の有無。視力。先入観の量。数えれば、載る。
ならば、と彼女は思う。まだ会っていない人間も、いずれ、この表に載るのだろうか。
名前だけは知っている。光属性の、少女。──小説の中で、この物語を動かすことになっている、その人を。
(会ってから、数えます)
その一行は、記録紙には、書かれなかった。
紙を疑い、光を疑い、箱を疑い、最後に自分たちを疑う。リゼットの記録紙の隅には、不本意そうな、しかし消されてはいない一行が残っていた。
『記録者も、条件のうち』




