帰ってきた男
意識を取り戻した瞬間、ディーンは自分の身体が生暖かい液体に包まれていることを知覚した。
——湯の中にいる!
鼻と口からたらふく湯を飲んでしまい、咽せながらじたばたと顔を上げ、ぜえぜえと息をする。
「ジジイ、ふざけるな!! 何が転移だ、危うく風呂で溺れ……」
両手に柔らかい感触がある。頭を振り湯を切って目を開けると、そこには頭のいかれた森の老人ではなく、ハーフエルフの少女の端正な顔があった。
「……む!? 耳長娘か!? するとここは……」
きょろきょろと周囲を確認する。
大理石の天井と壁。翡翠色と藍色の化粧瓦が市松模様に敷き詰められた、巨大な浴槽。
そして一糸纏わぬ姿の、リリーとニャミミ、メディア。
そこは大衆浴場の女湯であった。
「ぴ」
自分の脚の間に出現した大男を見つめ、硬直したままリリーがなにやら声を発した。
「ぴ?」
ディーンは訝しげに訊き返した。
「ぴ」
「ぴ? なんだ?」
「ぴぎゃあああああぁああぁぁぁあぁあ!!!!」
リリーの絶叫が浴場の壁に反響して響き渡る。
「デバガメ!! デバガメだにゃ!! とっ捕まえて市中引きずり回しにゃ!!」
「みぃぃいいいぃいたぁああああぁなぁぁあああ!? ぶち◯せぇぇえええぇえ!!!」
ニャミミとメディアが物騒な言葉を吐きながら、闖入者に襲いかかる。
「お、おい、ちょっと待て、待ってくれ、話を、ぐはっ!! ごべばぶばぼべばぼば……!」
◇◇◇◇◇◇
「えぇと、そ、その、うちの上司が大変失礼をいたしました、ディーン様。こちら、サービス、でございます……」
冒険者の酒場。管理者代行のアフィリアが、申し訳なさそうに(半笑いで)詫び、エール酒の入った木のジョッキと、ツマミの干し肉をテーブルに置いた。
そこには引っ掻き傷とたんこぶだらけのディーンが憮然とした表情で座っている。
「アフィリアさん! 何が可笑しいんですか!?」
湯上がりで普段より簡素な服装をしたメディアが、恥ずかしそうにしながら同僚を睨みつける。
先ほど仕事を上がった彼女は、リリーとニャミミを伴い、1日の疲れを洗い流そうと浴場を訪れ、そしてあんな目に遭ったのだ。
「こんな奴に謝ることないわよアフィリアちゃん!!」
リリーは怒り心頭といった様子でディーンの前の干し肉をかっぱらってがじがじ齧る。湯のせいなのか怒りのせいなのか、暖まった頭から薬缶のように湯気を噴出している。
「もー、急に出て来るからびっくりしたにゃんよ、ディーン。傷口ぺろぺろするにゃん?」
気まずそうに笑い、ディーンに訊いたニャミミに、
「こ、こら、ニャミミ! 公共の場でペロペロはやめなさいって言ってるでしょ!」
リョウは照れながら突っ込みを入れると、改めてディーンに向き直り、微笑みかけた。
「ご無事で良かったです、ディーンさん。最近、転移者が失踪する事件が多いから、みんな心配してたんですよ」
「人の心配してる場合? こんな肉塊よりリョウ、あんたのほうがよっぽど攫われやすいんだからね。まあせいぜい夜道には気をつけることね」
「なんか、ツンデレっていうか、脅迫……?」
「知らない人についてっちゃダメにゃ、あとなんかあったらおっきい声出すにゃよ!」
「子供じゃないよ!!」
賑やかなその光景に、ディーンは気の抜けたようにふっと微笑んだ。
「何笑ってんのよ、バカ筋肉」
「いや、また戻って来てしまったと思ってな」
ディーンの言葉に、リリーはなにやら言いたそうな顔をした後で、横を向いて頬を膨らませた。
「それでディーン様、今度はどこに行ってらっしゃったんです? まさか……」
風呂上がりのエールを飲み干し、アフィリアにおかわりを頼みながらメディアが尋ねた。
「ああ、ティースラに……俺のいた世界に戻っていた」
「本当に!? なんで!?」
「さあな。全くわからん」
リリーの言葉に、ディーンはゆっくりと首を振る。
「うーん、勇者さんと腕相撲してただけですもんねぇ。確かに、転移のキッカケが分からないんですよねぇ」
リョウは顎に手を当てて思案している。
「アカシアもディーンのこと、ずーっと心配してたにゃん。もうルーネリアにはいないんよにゃ?」
「次の依頼で、数日前に出立されましたよ。ここだけの話……」
エール酒のおかわりをテーブルに置きながら、アフィリアはちらりと周囲を見回し、声を落とした。
「どこぞの貴族の身辺調査をするんだとか」
「……はぁ。アフィリアさん、冒険者の酒場管理業法、第15条」
メディアはため息をつき、眼鏡を光らせる。
「はい! 『酒場管理者及びその業務を代行する者(以下、管理者)は、業務上知り得た情報を外部に漏らしてはならない』……はっ!?」
アフィリアは慌てて両手で口を塞ぐが、もちろん手遅れである。
「壁に耳あり、ですよ。特にそういった情報の扱いにはお気をつけなさい。あと、『カッコ』は口に出さなくてよろしい」
「は、はい! 先輩! ご指導ありがとうごさいます!」
苦笑しながら諭すメディアに、アフィリアは背筋を伸ばし、元気に返事をした。
「……に、しても、せっかく元の世界に帰れたのに、アンタなんでまた戻って来ちゃったわけ? ……あっ、いや! べ、別に戻って来たのがイヤって意味じゃなくて……!」
相変わらず面倒臭いツンデレを発揮しているリリーの言葉に、ディーンはようやく目的を思い出した。
「そうだ! 俺の世界の姫君が、こちらに転移して来ているようなのだ。調べる術はないか!?」
ディーンは身を乗り出し、メディアに詰め寄った。
「お姫様、ですか。転移者の名簿を当たってみましょうか。お名前は?」
メディアはその勢いを冷静に受け流しながら訊く。
「エスメラルダ姫。ザカート王の三女。とびきりのいい女だ」
「無駄な情報足してんじゃないわよ」
すかさずリリーが横槍を入れた。
「調べてみましょう。少しお待ち下さい」
「非番だろう? すまんな、メディア」
「いえ」
メディアはエール酒を飲み干すと、さっと席を立ってカウンターへ向かった。
「……それで、どうだったの? 久々の故郷は」
リリーはディーンの顔をちらっと横目で見て、なるべく無関心を装いながら訊いた。
「そうだな、俺は姫様を攫った極悪人という事になっていたからな。逃げ回っていたから、のんびりは出来なかったが」
「その……大事な人には、会えたの?」
「俺は天涯孤独の身だ。まあ腐れ縁というか、友人というか、相棒とは会ったが、それだけだな。女には……会うには会ったが、兵隊に売られたよ」
ディーンは口の端を釣り上げてニヤリと笑った。
「……そうなんだ。ごめん」
リリーは目を伏せて小さな声で謝った。長い耳の先がわずかにしおれて下がっている。
「なぜ謝る。耳長、そういえばお前はおらんのか、男は」
「は、はあああああぁ!? バッカじゃないの!? いたらこんなところでアンタみたいな筋肉ダルマとこんなヒョロガリナードと酒飲んでないわよ!! バーカ!!」
今度は顔を赤くして舌を出している。相変わらず忙しいことだ、とディーンはため息をついた。
その横で流れ矢を受けたリョウが、物言いたげに口をぱくぱくさせている。
(……だって、アンタら人間はすぐ死んじゃうじゃない)
リリーはエールのジョッキに向かって小さく呟いたが、その声は誰の耳にも届くことはなかった。
◇◇◇◇◇◇
「お待たせしました、照会が終わりました」
そこにメディアが、両手にジョッキを持って戻って来た。
「やはり、わからんか」
メディアの顔色を見てディーンは状況を察して、そう声をかけた。
「残念ながら。西王諸国のどこかの冒険者の酒場に訪れていれば、名簿に記録が残るんですが。右も左もわからない転移者の方はとても不用心ですから、なるべく冒険者の酒場へ案内するように、市民の皆さんも協力して下さってはいますが……そう出来ない場合ももちろんあります」
メディアは言いにくそうに、言葉を選びながら答えた。
「エスメラルダ姫ほどの器量なら、どこぞの人買いが攫おうとしても不思議ではない……そもそも、転移先によっては、遭難したりすぐにお陀仏ということも有り得るのか」
「少なくとも転移先はどこかの町の中のはずです。これまで全ての方がそうでしたから、そこは恐らく心配ないかと。全ての酒場に手配をかけておきます。それらしい方が見つかれば、保護して、情報を寄越して貰えるように」
「助かる。まあ、姫も多少は武術の心得がある。余程の手練でもなければ、遅れをとることはあるまいが」
「ダイジョーブにゃ、きっと優しい人に世話してもらってるにゃんよ。リョウだってこっちに来てから暫くは牧場で下働きしてたんよにゃ?」
ニャミミが無邪気に笑ってリョウに話しかける。
「そうだったね……右も左もわからない僕を、タダ同然でこき使ってくれて、来る日も来る日も牛小屋掃除……あのオヤジほんと……まあ、助けてもらったのは確かだけどさ」
忌々しい記憶を呼び起こされて、リョウはフォークで皿の上の肉をぐさぐさ突き刺している。
「他に、そういう情報が集まる場所はないか? 盗賊ギルドのようなものは?」
「盗賊ギルド……あるにはあるらしいんですが、この国では深く潜っていて実態がわからないんです。前国王がそういった反社会勢力を徹底的に排除しましたので」
ディーンの問いに、メディアは残念そうに答えた。
「あ! 情報屋がいるにゃんよ! ウラ社会の情報、流してくれるにゃ。ニャミミが聞いといてあげるにゃん!」
ニャミミの耳がぴんと立ち、その目がきらきらと輝いた。
「そんなヤツがいるのか? できれば直接会いたいが」
「うにゃにゃ〜、あいつ、用心深くて獣人にしか会わないからにゃあ。ニャミミに任せとくにゃん。あいつには貸しがたんまりあるんにゃ!」
「……そうか、それなら頼む。いつもすまないな、今度礼をさせてくれ」
「ご飯でも奢ってくれればいいにゃん。それじゃ、善は急げにゃ。ひとっ走り行ってくるにゃ!」
そう言ってニャミミは立ち上がると、ドアを開け勢いよく走って行った。
「あたしらの方は、神殿を当たってみない?」
それを見送って、リリーが口を開いた。
「昔から、家出人やら困った人々を保護するのは神殿と相場が決まってるもの。彼らにも情報網があるし、もしかしたらお姫様のことがわかるかも」
「そうか、ならば行ってみよう。案内を頼めるか」
「はいはい、じゃあすぐに出るわよ」
「すまん。お前にも礼をせねばな」
「……アンタって意外に義理堅いわよね。アゴ割れてるくせに」
リリーは照れくさそうに目を逸らし、憎まれ口を叩いた。