第9話 木下藤吉郎
「お久しゅうござる。利三殿。」
その小男は、貌をしわくちゃにして破顔した。小男の供をしている大男は隙のない姿勢で利三と甚介を見つめている。特に、今にも抜刀しそうな気配をもっている甚介への警戒を怠っていない。
「小六殿、そんなに張りつめんでもよいでしょ。」
小男は、その小六と呼ばれた大男に対して、軽く手を挙げ、警戒を解くように言った。
「小六殿、わしらは、喧嘩するためにここに来とりゃせん。そやし、たとえ闘っても、この美濃でも、指折りの剣の使い手である、斎藤利三殿が相手じゃ。かなうはずがない。また、こちらのお若い供の方もなかなかの腕前のようじゃ。わしは、こげなところで骸をさらしとうない。ははは。」
利三は、小六が警戒を解くのを感じるのと同時に、その小男の貌や声にどこか覚えがあると感じた。その言葉には、尾張(現:愛知県西部)のなまりがある。利三は甚介に目顔でこちらも警戒をゆるめるよう、うながした。
(・・・この男は、稲葉山城中で竹中半兵衛の小者をしていた。・・・)
竹中半兵衛と面会したときは、薄暗い城中の大廊下でこの男を見た。記憶があいまいだったのも当然だ。
「思い出されましたか。うれしゅうござる。」
自分のはっとした表情の小さな変化を読んだのだろう。小男は、なお一層、笑みにあふれた貌になった。これが本心からの笑顔なのか、つくった笑顔なのかは分からない。また、仲間には尾張ことば、同郷ではない者には、なまりを極力ださないことばを使い分けているところも抜け目がない。
「わしは、木下藤吉郎。織田上総介信長の家臣にござる。この者は、蜂須賀小六と申します。」
(・・・織田信長・・・。)
その名を聞いた刹那、額にあった汗の粒が頬に流れてくるのを感じた。
信吾(斎藤信吾)はどうしているか、そして、斎藤道三公が夢見た天下に向けての第一歩である、美濃への織田家侵攻の道筋をつけるため去っていった明智光秀は・・・。
さらに、自分の眼前で微笑んでいる、この木下藤吉郎という男も信長とつながっている。
利三は、自分が光秀と語り合って思い描いた天下に向けて、大きな歯車が軋む音を立てながら回り始めていることを強烈に感じた。
この曽根(現:岐阜県大垣市曽根)の抜けるような青空を、二羽の鳶が天高く弧を描いている。このほかには、鳥はいない。少し離れたところに見える池には無数の菖蒲が群生し、その薄紫が綾を織りなし、鮮やかに映えている。
お互いの供の者、小六と甚介はその場にいるものの、利三は、この天地に自分と藤吉郎のみがいるかのような感覚になった。
利三は、藤吉郎の次のことばを待った。
次のことばは、この美濃の国盗りにつながる言葉となるという確信をもって。




