第8話 猿の貌(かお)
ザンブ、ザンブと勢いよく水をかぶる。朝日の陽光を浴びながら、屋敷の前庭で行水を行うことが利三の日課になっている。
この曽根城(現:岐阜県大垣市曽根町)近くの利三の屋敷から観る日の出の美しさを感じながら、冷水を浴びると身が引き締まってくる。永年の稽古と実戦で鍛えられた利三の筋肉を伝って滴り落ちる水滴が陽光を乱反射させていた。夕刻になれば、陽は伊吹山麓に吸い込まれるように沈んでいく。その景色も、得も言われぬほどに美的情景を醸し出し、利光が曽根の地を好んでいる一つの理由であった。
「利三さま、手ぬぐいでございます。」
そばに控えている従者・久々利甚介から差し出された手ぬぐいで上半身をふきながら、利三は言う。
「すまんな。それから、今日で五度目の城下廻りになる。付き合わせて悪いが、馬の用意を頼む。これまで行っていなかった柳瀬のあたりにも参ろう。民の声を知りたい。それはこの曽根の地の政のためだけではない。この西美濃で美濃守護・斎藤家や斎藤龍興のことを民がどう考えているのか知りたい。」
「かしこまりました。」
甚介は寡黙だが、聡明だ。すべてを言わなくても理解できる頭脳をもっている。甚介は今回が初めての同行となる。これまでも、刀術に長じた甚介は護衛のための同行を願っていたが、利三は、一人で歩き回るのが好きだった。供の者を引き連れて威儀を正して廻れば、民の気も張りつめ、率直な思いを話してくれなくなる。だからこそ、利三は、いつも平服で身分を隠して廻るのだった。
しかし、今回は、いつもと趣きが違う。甚介がどうしても同行したいと願い出てきたのは、最近、穏やかでない噂を聞いたからだ。商人風の小男とその供の者と思われる大男がこの曽根の市街で利三のことを聞いて回っているという。利三がなじみにしている商家の主人が前回の城下廻りのときに教えてくれた。利三が何を知りたがっていて、どんなことが好みなのか、この曽根の地での利三の評判などを尋ねていったという。立ち去るときは、礼として、大枚を置いていく。そんな二人組だ。よくしゃべるのは小男の方で、特に何も身に帯びていない。大男の方は、黙然として付き添っているだけらしい。荷物持ちに徹し、大小(太刀と脇差)を腰にしているそうだ。
このことを甚介に話すと、「大小を腰にしている」というところが気になったようで、たちまち険しい貌になった。そして、どうしても付いていくと言ってきかなくなったのだ。利三の剣の腕は、甚介もあこがれているようで、いつも手合わせを願い出てくる。しかし、川辺郷での、利三と、先代の斎藤家当主・義龍が放った暗殺者集団との死闘の話も知っている甚介は、妙な胸騒ぎが致します、と言ってきかない。それで供をすることになったのだ。
母屋で朝餉を済ませ、お安に送り出された利三は、甚介が引いてきた馬にまたがり、曽根城の南・柳瀬の方へ馬首をめぐらした。
柳瀬は、曽根の城下町として活況を呈していた。利三と甚介は、商家の主人、町ゆく物売りの娘、田で働く百姓らに声をかけては、ときに談笑したり、真剣に話し込んだりした。この曽根の地を治める稲葉家に対する評判は上々だった。しかし、龍興に対する評判、これはかなり悪かった。
(人の口に戸は立てられぬ。龍興がいかに暗愚か、稲葉山の方から、民の耳にも聞こえてくるのだ。)
その暗愚な殿様を担いでいる美濃では隙を生じさせ、隣国に付け込まれることとなり、戦があるのではないかと心配する百姓もいた。ここ最近、美濃は大きな戦が続いた。百姓にとっては、田がすべてである。その田を荒らされれば、致命的である。田が荒らされないように、戦のない国を望む声を多く聞いた。
柳瀬での城下廻りも終わりごろ、瓜を売っている商家に立ち寄った。看板には、「まくわうり」と大書されている。
「その甜瓜とやら、二つくれ。」
利三が頼むと、よく冷えた瓜が盆に載って出てきた。主人によると、この曽根の近く、本巣(現:岐阜県本巣市)という地でとれる瓜だそうで、他の瓜と比べると一回りか二回りほど大きく、水分が多い。利三と甚介は、店先の腰掛でその瓜をほおばり、のどを潤していると、通りの向かいにある道祖神の祠の横でも、同じように甜瓜をほおばる二人組が目に入った。
(・・・商人風の小男とその供の大男)
以前、聞いた話とまったく同じ風体の二人組だ。二人とも編み笠をかぶっている。大男は大小を腰にしている。甚介もその二人にすでに気付いており、瓜を置いて、腰の太刀に手を伸ばそうとしている。利三は目でその動きを制した。警戒させては、相手の真意がわからなくなる。
そのうち、瓜を食べ終わった小男と大男は、通りの中ほどまで近づいてきた。こうなればこちらも警戒しなければならない。甚介と利三も立ち上がった。甚介はいつでも抜刀できるように、太刀の鯉口を切っている。利三も不測の事態に対応できるよう、気をみなぎらせた。
小男が編み笠をとる。編み笠の取り方も、相手から目を切ることがないように、笠を決して前方には脱がない。この所作だけでも、抜け目のない男だとわかる。
「斎藤利三どの。お会いしとうござった。」
にっと笑ったその表情は、しわくちゃだった。思いきり引き上げられた口角。ハの字に垂れ下がった目じり。まるで猿の貌だった。




