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Act 2-1:異界の朝

 毎朝、雑踏のなかでひとり立ち尽くしているような感覚に襲われて、目が覚める。


 外から差しこむ細い光の筋が、朝に舞うホコリで乱反射しているのを見た。

 肉体を慣らしながら立ち上がる。


 俺たちは、かつて宿屋の個室として機能していた二階の各部屋で、一晩を明かした。

 なにかあればすぐ起きることのできる態勢ではいたが、なにごともなくてよかった。


 脳内で動作中の時刻アプリの履歴を確認すると、朝の七時だった。

 この世界の一日が地球計算の二十四時間とはかぎらないが、それは今後、観察することにしよう。

 誤差があるとしても、あまり大きくはなさそうだ。


 小さなベッドサイド・テーブルに、飲みかけのハーブ・ティーが置いてあった。

 昨夜、カチュターシャが刻んで淹れてくれたものだ。

 夜の冷気ですっかり冷たくなってしまったそれを一口すする。


 木でできた格子の窓を開け、森のにおいをかいだ。


 タオルをつかんで廊下に出ると、ミイの部屋の前で立ち止まった。

 わずかに扉を開けると、朝日がこぼれるシーツにくるまり、眠っている彼女が見えた。


 俺は、必ずしももといた世界に戻る方法を模索する必要なんてない、と考えている。

 あの世界は、社会は、ミイにとって、生きにくい仕組みと化していた。

 この世界の総体的な危険度を知らないいま、不安は当然のごとく存在するが、この世界にとどまる、慣れる、というのは、ひとつの有力な選択肢だ。

 おなじ時間を費やすなら、この世界で生きるすべを学ぶことに比重を置くべきなのかもしれない。

 彼女の結果的な幸せを思うなら。


 一階に下り、宿屋を出る。

 霧がすこし出ていた。

 湿気がふくむ葉のにおいが強い。

 空の青はまだ薄く、森の緑や樹のあいだの闇、霧の白が、かぎりなくモノクロに近い彩度で、世界に色をつけていた。


 ぬかるんだ土に足がめりこむ。

 自由気ままに生えた樹木の群れは、どこか醜く、美しい。

 整理された日本の自然公園では見ることのできない、生々しい自然だ。


 耳を頼りに、木の根をまたいで進み、ささやかな小川を見つけた。

 冷たい水に両手をつっこみ、じゃぶじゃぶと顔の汚れを落とした。

 白いタオルで水をぬぐうと、立ち上がり、歩いて宿屋の前を通りすぎ、草原に出た。


 なだらかな草の丘を、羊に似た名も知らぬ動物の群れが走り去っていく。

 危険はなさそうだった。

 起伏する地平の果てまで、世界がつづいている。

 その視界をさえぎる高層ビルは存在せず、かろうじて点々と風車小屋が見えるくらいだ。

 うっすらそびえる山並み。


 俺は風を浴び、息を吐いた。

 右手の指を数える。


 正直、不安だった。

 今日、目覚めたとき、心をなくしているのではないかと。

 そして、そのことに気づくことすらできないのではないかと。


「あの少女は、死んでた」


 俺は、だれにともなくつぶやいた。


「殺したんじゃない。止めたんだ」


 昨日の、医学的に生命活動停止しているにもかかわらず作動していた少女の肉体、その言葉を、思いだす。

 言語理解が進んだいま、彼女のメッセージは明瞭だった。


 ――ナナグ、ウ。オルガ、スイタ、ア、タ。


 もう眠らせて。おだやかな死を。


 そして。


 ――ニイ、ニイナ。ルスク、エンドゥ、ナサナ。コン、エターク。


 その、意味は。


 カシャ、と音がして、俺はふりかえった。


 ボサボサ頭のミイが、スマートフォンのカメラをこちらに向けていた。

 どうやら写真を撮ったらしい。

 俺がリュックに常備していた『無職』Tシャツを寝間着として着用している。

 黒地に白で漢字二文字がデカデカと打たれているシンプルなものだ。


「ミイ、起きたのか」

「うん。ユウ兄が、はだかエプロン着てる夢見た」

「妙な設定に俺を巻きこむな」

「あの夢は今後いろいろと使える。ご飯三杯いける」

「使うとか言うな」

「おはよう、ユウ兄」

「おはよう、ミイ」

「見て見て、ほら、ユウ兄in異世界」


 スマホの画面を向けてくる。

 俺の横顔越しに、青空と草原が写っていた。


「もの憂げな表情いただきましたー」

「もの憂げってなんかない」


 そこでふと、ミイが真顔になる。


「……ミイ?」

「ねえ、むかしの夢を見たんだ」

「むかしって?」

「ずっとまえ。あたしがお気に入りだった人形をなくして泣いてたら、その人形からの手紙をでっちあげて、届けてくれたよね? ちょっと落ちこんだので自分探しの旅に出ます、とかなんとかって。それがしばらく届いて、あの子は手紙のなかで、いろんな国を巡ってた。あなたのことが大好き、て毎日手紙をくれた」

「……なんのことだ?」

「あれっれ、お認めにならない?」

「なんだ。バレてたのか」

「わかったのは、大きくなってからだよ。小さいころは、ほんとに信じてた」

「怒ってるのか?」

「ううん、ちがうよ」


 その人形は彼女が、「あの場所」から唯一、持ち出せたものだった。

 ライナスという、男っぽい名前をつけられた、蒼い目をした金髪の女の子。


「人形を見つけるまでの時間稼ぎだった」

「最後の手紙じゃ、結婚して、相手の青年と、宇宙旅行に行ってしまったけど?」

「見つけられなかったんだ」

「あたしのこと、ずっと忘れないって書いてあって。すっごく、うれしかったんだ」


 胸に手を添え、彼女は目を閉じる。


「あの手紙は、あたしの一生の宝物」


 どうして彼女は急にこんな話を持ち出したのかという疑問が、ふくれあがっていく。

 不安が、喉を締めつけ始める。


「ねえ」


 ミイが、顔を上げる。

 瞳が揺れている。

 おびえている。

 それだけで、俺は、答えを知った。

 彼女の意図を。

 話が、どこへ向かおうとしているのかを。


「あたしの、パパ、はさ――」


 ギクリとする。

 そんな俺を、彼女は観察している。

 ダメだ。

 核心をつけば、なにかが壊れてしまいそうな気がする。

 音を立てて、ガラガラと。

 だから。


「……黙っちゃうんだ」


 だが彼女は、迷わず俺の図星を、思惑をついてくる。


「むかし、口ゲンカになっちゃったとき、言ったよね。黙るんだったら、あたしの勝ちだよ、て。いまとなっては大人げないなあと思うわけだけども」

「俺は」

「おはようございます」


 脈絡なく割りこんできた声に、救われた。


 振り向くと、カチュターシャが立っていた。

 寝起きであるのに、きちんと髪を整えているあたり、さすがは上品な印象だ。


「朝食にしませんか?」

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