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嵐の前

 翌日の朝に大きないくさが始まった。

 怖いくらいに美しい朝焼けを背景に、白い翼の天使たちが血を流して争い合う。そのさまは、壮麗でありながら壮絶だった。


 刃に感じる、肉の感触。

 血しぶきの色とその香り。

 耳をつんざく『敵』と『味方』の叫び声――。


 血しぶきは熱くぬらつく、初めて知った知りたくなかった、天使の魂はめったなことでは消滅しない、けれどああ何と苦しい、呪わしい――!!


 あえぐように念じつつ、ルシフェルは無傷で剣を振るい続ける。視界がじわじわ潤んでいく、目の裏が焼けるほど熱くなる、そんな自分をごまかすために大きく声を張り上げる。


「イエスはいないのか! 天界を二分するこの戦に、神の世継ぎはおらんのか! 非力な乙女、羽根なしの美しい乙女には、この争いはむごすぎるのか!!」


『芝居』を演じよう、演じきろうと、のイエスを挑発する。偽りのごうまんを身にまとった天使の前に、ひとりの天使が進み出る。


 青いよろいを身にまとったルシフェルの前、がねの滝のおろし髪に、燃え立つような赤い鎧。


(ミカエル……)


 武装した弟がこちらを見つめる。血濡れの剣を手に、ミカエルもくしゃくしゃのをしていて……その表情がみるみる変わり、ミカエルは王子のごとくりんとした目でこちらを見据える。


「それ以上御子をろうされるな、けがれた光ルシファーよ! お前にはもはや御子の名を呼ばう資格はない! イエス・クリス・テ様に代わり、このミカエルが相手になろう!!」


 王子のような目の光、その奥にあふれる兄への愛情、ないまぜの感情がこちらの目にも灼きついて――、


 幼い子どもさながらだった弟の変化にはがある、その目で分かる、いずれにもせよ今は『敵』。本心を呑み込みそれぞれの剣を手に、同じ顔でにらみ合う。


(いつものミカエルの愛剣ではない)

 ほんのすうしゅんで見極めつつ、ルシファーが大きく両手を振りかぶる。


 シャンシャン、ギィイイィン……ッッ!!

 剣と剣とがひらめきぶつかり、青い火花がちりちりと舞う。あまりの激しさに敵も味方も思わず手を止め、その戦いに目を見張る。

 右をつけば左へ飛び、胴を払えば退きおどる、命をかけたけんのごとく――火を噴くようなふたりの演技に、疑いを持つ者はない。


 ……ただかみおとイエスだけが、感情の読めない瞳で兄らの剣舞を見つめている。


「しゃっ!」

「しゃあ!!」


 放つ声まで似すぎていて、どちらの気合か見ている側には分からない。


 双子は天へ舞い上がり羽根を散らして争い合い、しゅんしゅんと翼をいからせ地に降りる、距離をへだてて刃を手にして睨み合う――互いの身からは血の一滴も流れていない。


 肉がぜ、血のはしるがごとき沈黙が天界じゅうに垂れ込める。ミカエルが踏み込もうとしたその一瞬、()()、と音がして視界が爆ぜた。


「……っい……った……っぁ……?」


 何が起きたのか分からなかった。衝撃と左目の痛み、ぬるりとほおを伝う感触。足もとに落ちた石くれで、ミカエルは己の状況を知る。


(――石だ。敵方の誰かがぼくに石を投げたんだ!)


 何て卑劣な、何てきたないやり口だ! 食いつくように血を拭い顔を上げた瞬間に、ミカエルは無傷の右目を見開いた。


「ミカエル!!」


 こんじきの目を()()と見開き、ルシファーがこちらへ手を伸ばしている。駆け寄ってくるのだ、手当てせんばかりの勢いで。


 ――駄目だ、ダメだよ兄さん! この争いが芝居とバレたら、悪しき天使が兄さんに何をしでかすか――!


 混乱するミカエルの脳裏に、赤い幻が浮かぶ。だまされたと知り、怒り狂った反逆軍の幻が。彼らが兄に襲いかかり、怒りのままに一寸刻みに刻み切り、ルシファーが無数の肉片となる幻が。


 ――兄さん!!

 我知らず差し伸ばした左手を、おぞましい感覚が貫いた。


(ぬじゅりぃり……っ!!)

 凶器ごしの肉の感触。

 命を剣で突き抜いた、手のひらに絡む重い感触。

 左手に握った神の剣が突き抜いたのは、愛しい兄のわき腹だった。


「ぐ……っあぁあぁあああああぁあっ!!」


 鎧を砕かれ突き通され、ルシファーの腹から()()()と鮮血が噴き出した。地に転がり悶え苦しむ双子の兄を、ミカエルは口を開けて見下ろす、見下ろすしかない、だって意味が分からない……!


(何で!? なんで!? ぼくじゃない、今兄さんを刺したのはぼくじゃない! まるで、この剣が勝手に兄さんを……!!)


 手にした剣に目をやって、そこでようやく()()とする。


(そうだ、この剣だ! 神から賜ったこの剣が、の感情をまるきり無視して、己の意志で『神の敵』を貫いたんだ!!)


 それでも、やっぱりぼくなんだ。目の前の兄さんのわき腹を剣で抉ったのは、間違いなくぼくの手だ――。


 敵方の天使たちが悶えるルシファーに群がって、必死のしぐさで安全な場所に運んでゆく。そのさまを、ミカエルはさながらに立ち尽くし、ただただぼうっと眺めていた。


「……もういい、ミカエル。よくやった。後は他の者に任せ、お前は後方で休んでいろ」


 いつの間にか背後にやってきたイエスが、ねぎらうように背に触れる。その言葉も、戦いのも遠く、とおく、忘れてしまった悪夢のように響いていた。


 ミカエルは朱に濡れた剣を手に、戦士の人形のごとくその場に棒立ちになっていた。


 天界を包む大空は、目に痛いほど美しいくれないに燃えていて。

 それはまるで、血染めの剣をひっさげた天使への皮肉のようだった。


* * *


 やがて天界に夜が訪れ、一日目の戦が終わった。


 反逆軍も神の軍隊も、それぞれの駐屯地へと一時引き下がっていた。この夜は偽りの安息、明日の朝には再び激しい戦いのぶたが落とされる。


 ルシファーは泥におぼれるような気持ちで、目の前の反逆の徒の群れを見つめる。


 腹の傷からもう血の噴くことはない。

 たとえ神を裏切ろうとも、いまだ天使のこの体、そうそう死なぬ、死ねぬのだ。原形を留めぬほどに切り刻まれたりしなければ、魂を損なうこともない。

 ただ、痛い。胸が痛い。万力で締め上げられているように。


(ミカエル……)

 あの一撃が弟の本意ではないと、ルシファーには分かっている。あの剣、おそらくは神から賜わりしあの武器が、己の意志でわたしの腹を貫いたのだ。


 それにしてもミカエルよ、お前は何という顔をしたのだ。『絶望』という言葉を絵に描いたら、きっとあんな風だろう……、


 ぐしゃぐしゃの気持ちを押し殺し、ルシファーはいかにも雄々しく立ち上がる。


 ――力づけねば。

 わたしの()()()な姿にうろたえ、ほとんど総崩れになった、忌むべき悪しき天使たちを。ここまで来た今、わたしはどこまでも『反逆の王』でなければならぬ。


「諸君! 今しも悩んでいよう、『この将に従ったのは大きなあやまちだったか』と! この戦、『憎むべき神の軍隊』には敵わぬのかと! は! くだらぬ、つまらぬ、取るにも足らぬ! 無知とは実に哀れなものだ!!」


 負け犬の目にいじけくさった怒りを燃やし、反逆軍が将を見つめる。ルシファーはここぞとばかりに十二の翼を見せびらかし、尊大に胸をそびやかす。


「諸君は気づかんかったろうが、我は弟と戦うことに、大いなるためらいを覚えていた! しかしどうだ、ミカエルの兄に対するあのわざは! 肉親の情も何もない、『疑いもなく神に従う、愚かな天使のなせる業』だ!!」


 つらつら語るルシファーの話術に、邪まな天使らが我知らず引き込まれてゆく。


(してみると、我らの将の()()()なさまは、天使らしい愛情のためだったのか?)


(ルシファー様がその気になれば、弟のミカエルなどはたやすく倒せるということか?)


 そんな思いを顔に浮かべ、反逆軍は将のくちびるへ食い入るように見入り出す。自分自身に戸惑いながら、ルシファーは口もとを無理に緩ませ、なめらかに舌をおどらせ続ける。


「明日の戦、ミカエルは我に言うだろう! 『お前の目には「思い上がり」という名のおがくずが入り、くもっている』と! だが()()の目にこそ、『神への服従』という太い丸太がつかえているのだ! 諸君、我は今よりためらいなどは捨て去ろう!!」


 するすると連なることが、連ねるごとに忌まわしいものに思えてくる。けれどルシファーは口をつぐまず、大言壮語を重ねてゆく。


「諸君らに我は宣言する! 明日こそミカエルを打ち倒し、その目から丸太を除いてやり、『奴隷の立場』から救い出してみせようぞ! 神の手からあやつを救い、もろともに神の軍と戦い、勝利と栄光を掴むのだ!!」


 地響きのごとき大歓声が、天界の大気を揺るがした。けれどこの時、反逆の徒の誰ひとり、将の本心に気がつく者はいなかった。


 ――もう、早く終わってほしい。

 どうかこの不毛な戦が、一刻も早く終わりを告げますように――。


 ルシファーが、心の内で思わず神に祈ろうとする。


(ああ、そうか。自分にはもう祈る権利もないのだな……)


 今さらながらに気がついて、崩れるような笑いが洩れる。その笑みを不敵なそれと思い違い、邪まな天使たちがいっせいに腕をふり上げかっさいした。


* * *


 気がつけば戦の初日は終わっていた。


 爆ぜるたき火を取り囲み、神に従う天使たちが言葉少なに語り合う。


「明日の戦も奮闘しよう」

「憎むべき反逆軍を、明日こそは地獄の底へ追い堕とそう」……。


 何も知らない味方たちの、ささやくような決意の言がひとつひとつ、ミカエルの胸に喰い入ってゆく。痛いよ、痛くてしょうがない……左目の傷はえたのに、心が痛くてしょうがない。


 ――そうして、となりに座るラファエルもそう、味方の天使の多くもそうだ……みんな青ざめた顔をしているように見えるのは、ぼくの目の方がおかしいのか?


 そう念じつつ目を閉じて、あやうく悲鳴を上げそうになる。


 兄さんの顔がありあり浮かぶ。閉じたまぶたに鮮やかに。ぼくの一撃にのたうち回って苦しんで……一瞬ぼくを見て、痛みを堪えて無理やりに笑ってみせた、あの顔、兄さん、ぼくの兄さん!!


 ああもう嫌だよ、もううんざりだ!! 何も知らないふりをして、兄さんの敵を演じるのは!!


 本当に叫び出しそうになった一瞬、思いつきが脳裏にひらめく。何で今まで気づかなかったか、笑い出したくなるような。


 ――ああ。そうだ、いっそ今こそ味方たちに、ぼくが全てを明かしてしまおう。これは神のあやまちのせい、兄さんはなんにも悪くないと、何もかもみんな明かしてしまおう。


 明日は敵軍から兄さんひとりを救い出し、悪い天使を残らず地獄へ堕としてしまおう。そうだ、兄さんが魔王にならなくたって! 堕ちた天使の内の誰かが、その呪われた任を負えばいい――!!


 胸の内が、血を吸った綿みたいなうすべにの気持ちで満ちてゆく。き込んだしぐさで顔を上げ、口を開こうとしたとたん、流れるようにイエスの体がすべり込む。


「今日の働き、見事だった」


 うるさいな、黙れ。

 内心でそう毒づきながら、小刻みに何度もうなずいた。そんなミカエルの白いひたいに、イエスの細い指が触れる。


「明日も、健闘してほしい。炎の天使、ミカエルよ」


 天使の耳にすり込むように、イエスが一言ひとことに、区切りをつけてささやいた。


 ……ミカエルの瞳から、急き込んだ希望の炎が消えてゆく。感情を失ったような目をして、ミカエルはゆっくりとうなずいた。戦の将のその変化に、イエス以外の誰も気づいてはいなかった。


 明日の戦はどうなるのか。

 いったい何を想っているのか、すぐそばで黙り込んでいたラファエルが、ごくりと固く()()を鳴らした。

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