ルシフェルとミカエル
天界へと帰りつき、ルシフェルはミカエルの姿を探した。
ミカエルは赤いアネモネの咲く園で、ひとり剣を振るっていた。
刀身ひらめくそのさまは、ひとり遊びの舞のよう……アネモネの花びらが、ひらひらと剣舞の風に巻かれて踊る。激しいリズムをとりつつも、天使の足は一輪の花も踏みつけず、楽しげに花とたわむれている。
「ミカエル」
ルシフェルが背中から声をかけると、ミカエルはぱっと振り向いた。双子の弟は兄と同じ顔立ちに、兄より幼い笑みを浮かべる。
「兄さん! 何だよ、ずっと見てたの? ひとが悪いなぁ! 声かけてくれりゃあ良いのにさ」
ミカエルがいたずらな少年さながら、歯をむき出して笑ってみせる。
……その姿かたちは、まるきり兄と瓜ふたつ。
わずかな違いは、その髪型とくちびるの色の濃さだけだ。ミカエルの髪は『黄金の滝』さながらのおろし髪。くちびるは兄と同じ赤色ではなく、妹のイエスと同じ桃の色……。
ミカエルが愛剣を打ち振ると、剣は一瞬で消え去った。利き手の左手を口もとへあて、ミカエルはにっこりと音の出るような笑みを浮かべる。
――弟に応えるこちらの笑みは、ちゃんと明るく見えるだろうか?
「……お疲れさま。剣の稽古、精が出るね」
「えぇ、やだなもう、冗談でしょ? 見たでしょ兄さん? あんなの遊びみたいなもんさ。相手がいないとどうもねぇ?」
遠回しにこちらにお相手をねだってくる、可愛げのある弟に、かえってしみじみ淋しくなって……、
「……じきに、その腕を振るう機会が来るだろう」
思わずそうつぶやくと、ミカエルはひょいと首をかしげた。すぐにけろっと笑顔になって、こちらの肩へ甘えるように手をかける。物騒な予言を『ほんの気まぐれの一言』だと思ったらしい。
「てっか、兄さん! また二枚しか羽根出してないのな? 十二枚全部出しときゃ良いのに」
「……お前こそ、六枚ある翼を、二枚しか見せていないじゃないか」
「だってさぁ、めんどくさいんだもん! 六枚の羽根なんて、上級の天使はみんな持ってるし。でも兄さんは特別だろ? 神様とおんなじ、十二枚の翼持ち……」
ミカエルがふっとくちびるを歪め、少しすさんだ笑みを浮かべる。兄の耳もとへ口を寄せ、毒のある口ぶりでささやいた。
「――翼も光輪もない誰かさんに、見せつけてやれば良いのにさ?」
遠回しな言い方に底の深い悪意を感じる。ルシフェルは悲しげにまゆをひそめ、黙ってミカエルを睨みつけた。
「やぁもう、そんな顔しないでよ! ごめんなさぁい!!」
いたずらを怒られた子どものように、ミカエルが大げさに声を上げる。形の良いまゆをひそめて、なんとも無邪気に苦笑う。
……彼がたった今おとしめたのは、もちろん兄のルシフェルではない。『翼も光輪もない誰かさん』『神の御子』のイエスの方だ。ミカエルは妹のイエスを嫌っている。
(本当なら、神の長男の兄さんが次代の神になるべきなのに……! なんでイエスが跡継ぎなんだ? どうしてあいつが『神が最初に創りし者』って、周りからちやほやされるんだ?)
『兄さんがいれば、何もいらない』。
そんなミカエルは、当然イエスが気に入らない。『神の跡を継ぐのは自分だ』という考えにも至らない。ただひたすらに兄を慕い、妹が憎くてたまらない。
……もう、覚えてはいないのか?
ミカエル、お前が子どものころ、ちゃんと妹を愛していたこと。
もうはるか遠い昔、イエスがなにか善いことをして、お前は微笑って頭を撫でてあげたろう? その時のイエスの幼い笑顔、お前は忘れてしまったのか?
口にしようとして、やはり言葉に出来なくて。
分かっている。もうそんな言葉は、弟の心に届かない。
天界に他の天使が増えるにつれて、ミカエルはしだいに変わってきた。あまりに『御子』としてイエスを崇める雰囲気に、いつしか違和感を覚え……そこから少しずつ歪み、とうとう憎むまでになった。
分かっている。その感情は『双子の兄』を――このわたしを、愛しているから。だが、これからもそのままのお前では困るのだ。
「お前はもっと、大人にならねば……」
芯からの気持ちを込めて口にしたが、いつもの『甘いお小言』だと思われてしまったらしい。ふざけてぺろりと赤い舌を出す弟に、なるべく穏やかに言いかける。
「ミカエル、わたしの部屋へ来てくれ……ふたりで少し話をしよう」
「えー、何なに? 兄さんやっと、ぼくと恋仲になってくれんの? ……」
半分本気でおどけた後で、ミカエルはふいに二三度まばたいた。しげしげと兄の顔をのぞき込み、うかがうように問いかける。
「……兄さん、何か嫌なことあった?」
ようやく感づいた弟に、ルシフェルは力ない笑みを浮かべる。
何も言わず、何も答えず、ミカエルへ右手をさし伸ばす。ミカエルは神妙な顔をして、そっと左手をさし出した。
生まれた時と同じように手をつなぎ、ふたりはルシフェルの部屋へ向かった。
* * *
一面に青いケシの花の群れ。
その群れのすみに扉『だけ』が突っ立っている。意味のないオブジェめいたその扉が、ルシフェルの部屋の入り口だ。
部屋の持ち主が戸を開ければ、当然のように部屋につながる。主以外が扉を開けても、見上げれば空が見えるだけ……何回開けても、部屋の中とはつながらない。天使たちの過ごす部屋は全てそのような造りなのだ。
……ルシフェルがミカエルの先に立ち、その不可思議な扉へ手をかける。
現れたのは、例えるなら『寝られる図書室』。ずらりと並んだ書棚たち、きゅうくつそうに書き物机と簡素なベッドがひとつずつ。書棚にぎっしり詰め込まれた、詩集や画集やレシピ集……。
――詩集の詩は己の作った、画集はミカエルの描いたもので、レシピは全て妹のイエスのこしらえたもの。慣れ親しんだ空間で、ルシフェルは全てを打ち明けた。
地球のこと。
人間のこと。唯一の神の不万能。
そして、自分から授かった運命のこと。
初めのうちは何やかや口をはさんだ弟は、とちゅうから何も言わなくなった。話を終えた双子の兄に、暗い声音で問いかける。
「――何でルシフェル兄さんなのさ」
「……なんで、って?」
「魔王? 地獄の長? 人間を救うための誘惑? そんな、そんな『素晴らしいお役目』を担うのが、どうしてイエスじゃないんだよ!!」
語尾にいきなり火がついて、骨ばった左手がめちゃくちゃに机を打ち叩く。その激しさにまごつく兄に、ミカエルは吼えるがごとく怒鳴り散らす。
「イエスにやらせろ! 優しいお方、素晴らしいお方ってちやほやされてるあいつこそが適任だ! ――なのに、どうして兄さんばっかり! ルシフェル兄さんはいっつも、いっつも、まるきり損な役ばっかり!!」
ミカエルが息を荒げつつ、子どもみたいに言葉の毒をまき散らす。かんしゃくの訳が分かったルシフェルが、なだめるそぶりで微笑いかける。
「……ミカエル、そんな無茶を言うな。イエス様は『次代の神』だぞ……? そのお方が地獄に堕ちて、魔王になってしまってどうする」
「それで良い! イエスが魔王に、兄さんが神になるべきだ! 神が初めて創ったのは、本当は兄さん、あなたじゃないか! あの女はぼくらの妹、神の三番めの子ども、神の末っ子じゃあないか!!」
「ミカエル」
冷たい、冷たい声が出た。それは自分でも意外なほどで、名を呼ばれたミカエルの肩が大きく跳ねた。ルシフェルは厳しいまなざしで、黙って弟の顔を見つめる。
「……ミカエル、母様はイエスを御子と定めた。それはつまり、わたしとお前が跡継ぎにふさわしくないからだ。初めから、我らに跡を継がせようとは思っておられなかったのだろう」
ミカエルは何事か言おうとして、そのままかすかに頭を振ってうつむいた。ルシフェルがたたみかける口ぶりで、ぴしぴし言葉を連ねてゆく。
「だから母様は、わたしたちの後に創りしイエスを跡継ぎとした。……そのようなこと、言われずともお前にも分かっているだろう?」
しぼんだ風船のように力を抜いたミカエルが、小さな声で訴えた。
「……だったら、ぼくも兄さんと一緒に堕ちる」
「馬鹿」
ルシフェルが短く吐き捨てた。珍しく蔑みの言葉を浴びて、ミカエルが必死の口調で言いつのる。
「――そんなんだったら、ぼくも堕ちる! 兄さんのいない天界なんて、それこそ地獄じゃあないか!!」
「駄目だ、ミカエル。お前はわたしが欠けた後に、わたしの代わりを務めるんだ。他の天使にはなるべく優しくするように。イエス様には親愛と、尊敬の情をもって接しなさい」
「そんなの……」
(そんなの、ぼくらが双子じゃなかったみたいじゃないか)
(ぼくが初めからひとりっきりで、生まれてきたみたいじゃないか)
ミカエルが言葉をのどに詰まらせる。口にすれば、そのとたん言葉は嗚咽に変わってしまう。きっとそんな気がしたのだろう。
「……ミカエル。このこと、絶対に他言は無用。未来永劫この話はよそには漏らすな」
嫌だ――。
答えようとしたミカエルの口に、ルシフェルは己の口でふたをした。
烙印のような、誓いの口づけ。もう何も言えなくなったミカエルを、ルシフェルは優しいしぐさで部屋の外へと追い出した。そして扉のすきまから、遺言のように弟へ向けてこう告げる。
「……ミカエル。わたしが神を裏切った後は、もう『ルシフェル』とは呼んでくれるな」
「……なんで……?」
「エルという言葉は、『神に祝福されし者』という意味を持つ。穢れた身にはふさわしくない。反逆を試みたその時から、わたしのことは『穢れた光』と……そう、『ルシファー』と呼んでくれ」
くしゃくしゃに歪むミカエルの表情から逃げ出すように、部屋の扉をぴたりと閉める。
『嫌だ、嫌だよ! ずっと一緒にいたいんだ、兄さんと離れたくないよ!! 開けて、開けてよ、ルシフェル兄さん!!』
ミカエルの悲鳴じみた叫びが、扉ごしにも響いてくる。だが彼はもうこの部屋に来られない。部屋の主のルシフェルが、それを望んでいないから。
どこにもつながらない扉を、ミカエルは何度も開けては閉じ、開けては閉じて、むちゃくちゃに叫んでいるのだろう。
――それほど、望んでくれるなら。
ミカエル、いっそお前も共に地獄へ……、
顔を上げて、口を開いて、血の噴くほどにきつくくちびるを噛みしめる。
もう言うな、思ったまま口を開くな。もう『取り返しのつかないこと』はしたくない――。
噛みしめたくちびるがじんわり緩む。涙の代わりにやりきれない微笑だけ、ほおに浮かんで消えなくて……扉の向こうで、ミカエルの声が、いつまでもいつまでも響いていた。