あやまちを正すのは
――どれほどの時が過ぎたろう。
心の中の嵐も過ぎて、ルシフェルがひどくゆっくりと顔を上げる。
「わたしが……その任を負いましょう」
自分でも意外なくらい、澄んだ透明な声が出た。透明な声で告げられて、神が腕から力を抜いた。
(当然、そう言うと思っていた)
(けれどそう言ってほしくなかった)
そんなくしゃくしゃな表情を浮かべ、林檎の陰から現れた息子の顔を見る。
「……本気で、言うておるのだな……?」
「ええ。わたしが魔王となりましょう。その前に、わたしはあなたを裏切ります。全能の神たるあなたに『反逆』します」
くしゃくしゃな神の表情が、なおさらうろたえ崩れてゆく。感情の高ぶりにつれ変じる髪も、みるみる内にほつれてゆく。
(そんな言葉は、予想もしていなかった)
そう言わんばかりの顔をして、サルシェンが何度もなんどもまばたきする。そのさまを見るこちらの気持ちは、不思議なくらいに和やかだ。
「『不万能』を皆に明かす必要はない。あなたは『全知全能の神』なのです……他の天使、他の生き物全てにとって、そのままが一番、良いのです」
「……お前……」
神の言葉を甘く優しく封じるように、青年天使は言葉を重ねる。
「表向きの理由は何でもかまいません。わたしが、あなたへ『反逆』する。あなたはわたしを打ち倒し、罰をお与えになるのです……『天界を追われ、暗黒界の魔王となる』という罰を……」
神の赤いくちびるから、息絶えそうな吐息が洩れる。背の羽根で母を優しくつつむ想いで、ルシフェルは言葉を重ねていく。
「……反逆者たるわたしに味方する者も、わずかながらいることでしょう。わたしはそんな、天界にいる価値もない邪まな者たちを引き連れて、地獄へと堕ちていきましょう」
サルシェンのくちびるがわなないた。かすかな笑みさえほおに浮かべ、ルシフェルは親ゆずりの赤い口から言葉をこぼす。
「……その後に『堕天の復讐』という形で、アダムたちにわたしが罪を教えましょう。それで全ては解決します」
迷いなく言いきったこちらの瞳を、神が食い入るように見つめる。――初めて見る表情だった。己でおのれの心臓を暴いて、見つめるような表情だった。
「……お前も、家畜と変わらぬのか?」
ぽつりつぶやいたサルシェンが、噛みつきそうにこちらを見上げる。
「――お前も、わらわに従うだけの『聞き分けの良い家畜』なのか? なぜ怒らんのだ、なぜ怒鳴らんのだ、出来損ないのこの神を!? どこまで『良い子』の顔をして、そうも素直に従うのだ!!」
『万能の神』が、だだっ子さながらに身を震わせ、かんしゃくを起こしてわめき出す。そんな神にあきれたような顔もせず、天使は静かに言葉を返す。
「わたしが考えて決めたことです。何も思わず、何も考えずに引き受ける訳ではありません」
(だからよけいに悪いのだ)……。
八つ当たりそのもののつぶやきが、歪んだ神の口から洩れる。それに気づかぬふりをして、母の手をきゅっと握りしめる。傷ついた罪のリンゴを受け取って、赤い皮へと歯を立てる。
しゃり……っ。
耳に快く心に苦い、確かな破滅の音がした。甘いあまい、罪の味。
知恵の実の欠片を飲みこんで再び顔を上げた時、神は凍りつくような、冷ややかな表情を浮かべていた。『別の生き物』みたいだった。ついさっきまで露わにしていた、哀しいほどに弱い彼女はもうどこにも見当たらない。
隠してしまった。
殺してしまった。
わたしにだけ見せてくれた『万能の神』の本性を。
心にぼっと風穴の開いた思いがする。そんな息子に、サルシェンは冷淡な声で吐き捨てる。
「――もう遅い。もう取り返しはつかぬ」
開き直ったような突き放した言の葉に、ルシフェルはただうなずいた。
神はルシフェルの手をひいて『蒼い愛星』を後にした。サルシェンが細い手をふると、地球は闇のベールに包まれその姿をくらました。
「……地球のことや人間のこと、わらわのあやまちも知っているのは、お前の他にはひとりだけ。御子のイエス、ただひとり……」
ふっとうつむいてつぶやいて、サルシェンはきっと顔を上げる。
「ルシフェルよ。こうと話が決まったからには、他の天使にはいっさい口外せぬように」
ルシフェルは静かにうなずきかけ、ふうっと首を横にふる。すがるようなまなざしで、母神にこう問いかける。
「……神様。弟のミカエルだけには、全て打ち明けて構いませんか?」
サルシェンがまたうつむいて黙り込む。……やがてゆっくりと顔を上げ、黙ったままでうなずいた。それからふいに、何の関係もないような話を持ち出した。
「ルシフェル、今日の晩餐は御子のイエスが主役だからな。……わらわはそこで、彼女を『神を継ぐ者』として、改めて皆に宣言するからな」
(イエスが神を継ぐ者だなんて、そんなこと分かりきっている。なのになぜ今この時になって、そんなことを仰るのか……)
ルシフェルは心の内でつぶやいて、あいまいな笑みをほおに浮かべた。さっきも一度浮かべた気がするその表情は、きっとさっきよりしおれていた。
ふたりを包む天界の空気は、悔しくなるほどいつも通りに澄んでいる。きらきら輝く日の光と、風に揺られる花の香と。
だが目の前の神の表情は、他人のように冷ややかで……その表情の奥に透ける、やるせないほどの悲哀を見て、ルシフェルの胸がぎしりときしむ。
そんな顔を、させたかった訳じゃない……わたしは選択を誤ったんだ。「やはり無理です」、「わたしには荷が重すぎます」……!!
思わず言葉にしようとして、きつくくちびるを噛みしめる。
――もう遅い。もう取り返しはつかないのだ。
もやがかかる。胸の内に、身の内に、ほの暗いもやがかかってゆく。……例えばそれは、己が何より嫌っている、あの不浄な霧にも似ていた。