ルシフェルと地球
ルシフェルはしばし空を舞い、天界の中心へ降り立った。
そこには天界一の巨木が、文字どおり『天を突くように』そびえている。
巨木の名は神樹ルポラ……この巨木こそが『神の家』だ。神は無機質な宮殿ではなく、好んでこの木を住まいとしている。
神樹は『天界の植物の長』でもあり、気分しだいでいろいろな花や実をつける。さまざまな花実の放つ甘い香りときたら、鼻がじんわりしびれるくらいだ。
……だが当の本樹はこちらの鼻などどこ吹く風、むんと誇らしくそびえている。
ルポラの根もとには木製のごつい扉があるが、取っ手がどこにも見当たらない。ルシフェルは二三度まばたいて、それから微笑って巨樹の木肌へ手を触れた。
「……眠っているのか、ルポラ? 起きてくれ、わたしだよ、ルシフェルだ」
言い終えない内、むるむると扉に取っ手が浮き出した。それと同時に、頭上から一輪の花が降ってきた。
「……ケシの花だ」
それもルシフェルの一番好きな、透けるほど青いケシの花。……意思を持つ巨木は、やはり居眠りをしていたらしい。花はおわびのしるしだろう。
「ありがとう、ルポラ」
ルシフェルはふわりと微笑んで礼を言い、花を片手に扉を開けた。玄関の向こうに、美しい空間が広がっている。家具にはくるくる蔦が絡み、生きた花があちこちに根つき、自由に楽しげに咲いている。
「こうしていると、何ひとつ難しいことはないのだが……」
部屋から部屋へ、散歩気分で歩みつつ、ルシフェルは思わずつぶやいた。
他の天使から話を聞くと、ルポラの中は『難易度の変わるパズル』のようなものらしい。難易度の決め手はシンプルだ――ルポラが客をどう思うか。神樹は嫌いな相手が来ると、迷路さながらに部屋を連ねる。
神に会えぬまま追い出された者もいると聞く。その場合、ルポラは部屋をねじれにねじらせ、客をめちゃくちゃに迷わせる。そうして哀れな客人がやっとの思いで開けた扉を、表へとつなげてしまうのだ。
「……わたしには、そんなことはしないのにな?」
不思議そうに大天使がつぶやくと、部屋が小さくかしいでみせた。おそらく巨樹がちょっぴり照れ笑いしたのだろう。
……三つめの扉を開けた時、ルシフェルは玉座で微笑む神に出逢えた。ケシの花を手渡すと、神はふっと宙から小さな花びんを取り出し、青い花を一輪活けた。
ルシフェルは親しみを込めて一礼し、微笑みながら訊ねかける。
「神様、お待たせいたしました。何かわたしにお話がおありとのことですが……」
柔らかな声で訊ねる息子に、玉座の神はひとつゆったりとうなずいた。
天界の全てのものを創りし神、唯一神サルシェン=サイビス。彼女は今日もいつもと変わらず美しい。
炎色の長髪に、気高い紫水晶の瞳。熟れた果実を思わす豊かな体を、透き通る衣ときらきら輝く飾り布で包んでいる。
神の見た目は、まさに『神がかったほどの美女』……だが、彼女はいわゆる女神ではない。天界に住まう生き物は、男女両方の性を持つのだ。もちろんルシフェルもミカエルも、『神の御子』のイエスもそうだ。
……したがって女や男、妹や弟といった表現も正しくはないのだが、たいがいの天使たちは見た目でものを言い分けている。
(どうやら今日の母様は、ご機嫌がよろしくないようだ……)
ルシフェルは内心でつぶやいた。機嫌が良いとふうわりと広げられる、十二枚の白い翼が、今は一枚も出ていない。
「……神様、何かご心配でもおありに……?」
「何故にそう思うのだ」
「いえ、羽根が……」
舌足らずな息子の答えに、神はすうっとまばたきした。それからなんだか、苦い飴でも舐めたような笑みを浮かべる。
「……さすがは我が息子ルシフェル、隠しごとなど出来ぬのう……いや、実はお前に見てもらいたいものがあるのだ」
神は玉座から降り立って、誘うそぶりで首をかしげる。
「ルシフェル、わらわについて来い。美しいものを見せようぞ……わらわの創りし蒼玉のごとき愛星と、その星に住まう新たな命を……」
言いつつ神の背に翼がぱあっと花開く、同時に部屋の天井が、大きく空へと口を開く。
「『外へ出るのに、手間はとらせぬ』ということか……ありがとう、ルポラ!」
言った瞬間ルシフェルもばさり翼を広げ、ふたりは空へ舞い上がる。残像を引いて奔る白い光の塊ふたつは、天にひらめくほうき星のようだった。
「……おや? 神様と大天使長、おふたりでどこかへお出かけかな?」
のどかに散歩していた一天使が、ゆったりと天を見上げて目を細めた。……
しばし宙空を駆けた後、神は見たことのない星を指さした。――世界から言葉が消えたよう、声にならない声が洩れる。
「青い……」
ようやく声になったのは、そんな他愛ない言の葉だった。
何なのだろう、この星は。目に沁みるほど澄んで青い。地上の緑も、ふわふわと巡る雲の白も、息を呑むほど美しい。
「……これは、生きた宝石ですか?」
「『地球』というのだ。わらわが先ほど口にした『蒼玉のごとき愛星』だ」
心底からあふれた賛辞に、神がかすかな笑みを浮かべる。淡すぎるような微笑みをたたえ、神はこちらの手をひいた。
* * *
地球へ降り立ったルシフェルは、神にまず海を見せられた。天界には存在しない『海』の美に、目がちかちかするようだった。
深い青色と寄せる白波に感動し、波打ちぎわに散らばる貝がらを夢中で拾い……青年天使は、まるきり少年にかえっていた。
母神が『貝』と『貝がら』のことを、優しく説明してくれる。それを夢うつつに聞きながら、ルシフェルは真珠貝の貝がらを、陽に透かして見つめ出す。
とたん、大きく打ち寄せた波が足をざばりと濡らしていく。驚きに貝がらが手から落ち、甘い悲鳴が口から飛び出る。
「ひゃあ、冷たいっ! ははは、びっしゃびしゃだあ!!」
天使長らしくないふるまいに、神がふうっと細い眉をひそめて微笑う。
「……来るがよい、ルシフェル。お前に真に見せたいものは、海の中にはないのだから」
神が息子の足に触れる。濡れた足をほんの一瞬で乾かして、神は微笑に微笑を重ねる。
はしゃいでいるルシフェルさえ、ふっと不思議に思うほど……何かをあきらめてしまったような、力の抜けた笑みだった。
* * *
海から陸へとみちびかれ、天使の感動はいや増した。
全てが違う、天界の生き物と全く違う。
……天界の生き物は、決して死なない。
つかのま滅びたように見えても、次の日が来れば当然のように蘇る。
しかし、地球の木々や花々は『死』があるからこそ、いっそう儚く美しかった。いつか消えると知っていて、だからこそ命いっぱい生き続けているようだった。
また、天界には存在しない獣たちも素晴らしかった。獣たちは争い合うこともなく、牙を持つライオンや虎さえも、ほおをすり寄せて甘えてきた。
鳥に魚に、蛙や蛇。
全てのものはその時点では美しく、あやまたぬ『神の申し子』だった。
「この生き物は、恐ろしいほど美しい……」
足もとで虹色のうろこをきらめかせ、蛇が優雅にくねっている。魅せられた想いのこちらの耳に、神の言葉が優しく触れる。
「ルシフェルよ、もっと美しい生き物が他にいる。そうして本当は彼らこそ『わらわが真に見せたいもの』だ」
「ほ、本当ですか? それほど美なる生き物が、まだこの星にいるのですか!?」
「ああ、そうだ……。楽園に行こう、ルシフェルよ。そこでお前を待っているのは『人間』という新たな命だ」
「……行きましょう! すぐに参りましょう! ああしかし、これほど美しいものばかり映していたら、喜びのあまりこの目がとろけてしまうかも……!!」
あんまり楽しくて嬉しくて、子どものようにはしゃいで笑う。そんなこちらを黙って見つめ、神はなぜだかまゆをひそめ、くちびるを噛んで微笑んだ。