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そして、青いケシ

 悪気はなかった。うっかり口にしただけだった。


 フェリアルはもう、すっかり『フェリアル』になじんでいた。前世での忌まわしい名など、無意識の記憶からも溶けて消え去ったようだった。


 彼女は新しい名を得た今、まさに名の通り『妖精』だった。美しく優しく……けがれも痛みも知らないような。


 だが昔を知るふるい天使が、うっかり彼女を『ベリアル』と呼んでしまった、その瞬間――美天使は白い羽を震わせ、歯を鳴らして凍えたようにおののき出した。


「ベリアル……ベリアル……」


 フェリアルは昔の自己の名を繰り返しくり返し、天然に赤いくちびるがみるみる色を失って、あおむらさきに変じていって……そうして、気を失ってその場に倒れ込んだのだ。


 倒れた場所がユダのから近かったので、ひとまずフェリアルはユダの部屋へと移された。大丈夫かな、だいじょうぶかな……自分のベッドにフェリアルを寝かせ、寝顔を見つめるユダの目には、まっすぐな心配しか浮かんでいない。


 もしこの部屋にユダの夫のルシフェルがいれば、つぶやくように訊ねるだろう。


――「お前は、フェリアルを……彼女の前世の、堕天使ベリアルを恨んではいないのか?」「あれだけ酷いことをされて、その全てをゆるしたのか?」


 嘲られた。犯されかけた。『もう二度と子をはらめぬよう』呪われた。そんな転生前の記憶を、まるですっかり忘れたように、ユダはフェリアルの様子を見守る。


 フェリアルは苦しげにひくひく息をして、時おりひどいうめきを上げた。きつく閉じた目から涙を流し、死にそうなでうなされて……あわてたユダが揺り起こそうと手を出したとたん、すうっと静かになるのだった。


「……何で、こんなにうなされるんだろう……」


 あんまりそのさまが痛々しくて、ユダは思わず手を伸ばす。なだめるようにフェリアルの、うすもも色の巻き毛に触れる。幼い子どもにするように、ひらひらと優しく頭をぜて……、


 ――その瞬間、フェリアルは涙に濡れた目を開いた。きらきら潤んだいちご色の大きな瞳に、こちらの姿がうるうる映る。


「ユダ……様……」


 美しい声がちぢれて絡まる。見開く瞳に映る自分が、涙ににじんで揺れている。


 フェリアルは()()と起き上がり、虫のようにベッドの上にひれ伏した。仰天するこちらに向かって、肩から何からぶるぶると震わせながら繰り返す。


「――ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……!」


 声音はまるきり『後悔の塊』のように響いて、フェリアルは顔も上げられず、泣き声で繰り返しくり返す。


(……ああ、思い出したんだね。昔、地獄にいた時のこと、あなたが『ベリアル』だった時のこと……)


 ユダは内心でつぶやいて、心からの微笑を浮かべて、震える肩に優しくやわく手を置いた。


「もう良いよ。……もういいんだよ」


 全部、終わったことだもの……本心からささやいて微笑むユダに、フェリアルが涙でぐちゃぐちゃの顔を上げて言いすがる。


「――でも! それじゃあわたしの、わたしの気が済みません……!」

「いいんだよ、本当に……あなたはもうベリアルじゃない、ラファエルに新しく名づけてもらった『妖精さん』なんだから……」

「でも……だけど……!」


 言いつのりながらなおもぽろぽろ涙をこぼす美天使に、ユダが背中の羽を揺らして、困ったように微笑んだ。


「……そう? じゃあ代わりと言っちゃあなんだけど、ひとつだけ『お願い』を聞いてもらおうかな……」

「は、はい! このわたしに出来ることなら……いえ! いいえ! 出来ないことでも頑張ってします!」


 どこかなつかしい言い方ですがられ、しょっぱくなったフェリアルのほおにキスをする。芯から驚くフェリアルの目に、今の自分のとろけるような笑顔が映る。


「はい、今のは約束のキス! たった今、これからね、あなたはおれの妹です!」

「…………いもうと?」

「そう、妹! おれには兄さんもふたりいるし、姉さんもひとりいるけどさ、下のきょうだいはいなかったから! ほしかったんだ、可愛い妹!」


 言葉の意味が、しばらく理解出来なかった。妹。いもうと……、


 ――それからぐんと目が灼けるほど熱くなる、しゃっくりに似た声があふれる。喜びに泣きじゃくるフェリアルを抱きしめようとしたとたん、彼女がひどくせき込んだ。


「わわ! どしたの、大丈夫っ!?」


 あわてて背中をさすってやると、せきは何とか落ちついた。美天使の顔をのぞき込み、ユダが気づかって問いかける。


「大丈夫? ……どしたの、風邪でもひいた?」

「いいえ……何だかこのごろ、しばしば吐き気が……」

『あ』


 まるっきりふたり同時に声を出し、フェリアルのほおにみるみる朱がのぼってくる。そんな彼女のピンクにった手を握り、ユダがきゃあきゃあはしゃぎ出す。


「――良かったね、良かったねえ! そっかそっか、フェリアルもお母さんになるのかあ!」

「ほ、本当かそれはっ! 私との子が、本当かフェリアルっっ!」


 部屋の外からたくましげな声が響き、それから後は()()と沈黙……ユダがって顔を見やると、フェリアルはますます真っ赤になってうつむいてしまう。ユダが扉を開けてやると、心配で堪らなかったらしいラファエルが、ほおを染めて気まずそうに入って来た。


「……フェリアル……」


 愛しいひとに名を呼ばれ、美天使が赤く色づいた顔を上げる。そのほおにそっと大きな手を触れ、ラファエルは「熱いな、ほっぺ」とつぶやいて、その声が潤んで濡れている。


 白い羽と羽とが触れて、そのまま柔らかに重なって……ふたりは()()と抱き合った。永い永い、ながい間、引き裂かれていた運命の恋人たちみたいに。


 ……いちご色の瞳と、すみれ色の瞳から、塩辛い宝石のようなしずくが落ちた。


* * *


「……良かったのか? それで」

「んん? 何が?」

「……何が、って……」


 ふと言いよどむルシフェルに、()()を語り終えたユダが、ひざの上で寝る我が子をでる。その手つきはとても優しく、見守るルシフェルがうらやましくなるほどだ。


 ここは、実質ほとんど使われぬユダの部屋――ではなく、『新しい神の住まい』の中。といっても、無機質な白い宮殿などではない。意思を持つ樹の……しんじゅの内部だ。


 ふるい神、サルシェンの住まう『神樹ルポラ』の小枝を土に植え、それが見る間にすくすく伸びて、のルポラよりなお丈高く成長した、『神樹ジュニア』の中である。


 ジュニアも親樹と同じように、気まぐれにさまざまな花や実をつける。あるじのルシフェルが好むので、ジュニアは青いケシの花をいっぱいに咲かすことが多かった。


 ……そして、今。地獄の『魔王ルシファー』にとって何よりのなぐさめとなっていたユダが……青いケシに似た美しさを持つユダが、あまりに優しく、眠る幼子を撫でている。


 神となったルシフェルは、何か言いかけて思いやめ、とろりとした甘さを含んでにがわらう。


 ――かなわないな。この妻には、とてもとても、かなわない。


 胸の内で繰り返しくり返しつぶやくほどに、苦笑いが薄れていって……いつしか真顔で見つめてしまう妻の姿が、神々しいほどまぶしく見えて。


「ユダ、お前は……」


 どうしてそんなに、あまりに清く、あまりに優しく、美しく……、


 そのまま言葉にしようとして、口にするのは照れくさく、ルシフェルはそっと赤いくちびるをつぐんでしまう。


 感謝している。

 それこそ言葉では言い表せないくらい、お前に。


 ――ユダ。お前がいたから、わたしはを殺さずに済んだ。お前がいたから、今わたしは穏やかな気持ちで、フェリアルや昔の堕天使たちの転生後を愛しく想える。


「ユダ、お前は……」


 まさしく天使だ。いや、聖女だ、いいや、このわたしの女神だ――。


 口にしたいが、気恥ずかしい。迷うルシフェルのこんじきの目を、妻は見つめて問いかける。


「……どうしたの? また、地獄のひとたちのこと、考えてる?」

「……いや……」


 かん違いでそう問われ、思わず言葉につまってしまう。


 ――この永遠の幸福の中、まだ地獄にいる罪人たちの魂は、いまだ救われず大いなる罰を受けている。しかし彼らも昔の堕天使たちと同じ、『ルシフェルを次代の神にするための、芝居の悪役』だったのだ。


 彼らが救われないかぎり、まことの幸福は訪れないと……今、神となったルシフェルは、心の底から全ての救済を望んでいる。


 黙り込んで息を呑む夫に、ユダは寝る子を撫でながら、マシュマロを思わすふわふわの笑みを浮かべてみせる。


「大丈夫だよ、ルシフェル。あなたなら……ううん、あなたとおれと、天界の皆で力を合わせて頑張れば……」


 黒肌の乙女は一呼吸おいて、確信に満ちてはにかんだ。


「今も地獄にいるひとたち、ひとり残らず、いつかはきっと救えるよ……!」


 微笑む妻の、あどけないほど清い笑顔が、いとしくて、あんまり愛しすぎて……、


 新たな神はこんじきの目を潤ませて、ありったけの想いを込めて、妻のほおへと口づける。


 ユダの膝で眠る子の、カフェオレ色の綺麗なほおに、父親ゆずりのがねの髪が落ちかかり……そのささやかなきらめきが、希望の光を想わせて。ふっと目覚めた幼い息子が、丸窓の外をあどけない手で指さした。


「……どうした、ミヒャエル?」

「ゆき」

「……雪?」

「きれい……あおい、青い雪……!」


 舌足らずな息子の言葉に、夫婦そろってそちらを見やる。丸い窓の外、ひらひら軽く落ちてきたのは……、


 ――花だ。『青』と言いつつ、目に見れば透けるほど深い水色の……美しいケシの花びらが、後からあとから舞い散って、草地に落ちては春の雪さながらに溶けてゆく。


「……ジュニアがくれた、青い雪だね」


 ささやいてうユダの肩を、甘い手つきで抱きしめて……神の金色の瞳から、透けるしずくがこぼれ出た。ミヒャエルがはしゃいで窓へと手を伸ばし……見つめ続ける聖家族の視界を染めて、花びらは青く柔らかく舞い落ちる。


 ……恵みのようにも、救いのようにも、祝福のようにも舞い落ちて、きっと地の底の底の方まで、あたたかく青く沁みていった。

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