ルシフェルとイエス
天界は今日も変わらず美しい。
見渡すかぎりの草原に、甘い香りを放ちつつさまざまな花が揺れている。降りそそぐ陽の光は蜜のよう、大空は目に痛いほどきりっと青い。
花の満ちみちる草原に、青年天使が立っている。
長いながい黄金の髪、きらきら輝く金色の瞳。白くまばゆい二枚の羽根は、ついさっき降り立ったばかりのように、ひらひら大きくはためいている。
「――大天使長ルシフェル、昼の見回り完了しました!」
他に聞く者もいないのに、天使はきまじめに宣言する。仕事を終えた満足感に、白いほおにふんわりと笑みが咲いてゆく。
と、ふいに天使の目の前に、もやもやとした薄暗い霧が現われた。
歪み。震え。
うごめき、揺らぎ。
霧はおののくようなそぶりで、見る者を不安にさせる舞を踊る。何かの形をとろうとしてでもいるのだろうか。
「……気分の悪い。今しがた見回りを終えたばかりというに……」
舌打ちしそうな口ぶりが、赤いくちびるから洩れる。あとはぷっつり黙り込み、暗い霧へと手を伸ばす。
――骨ばった指が、深く切りつめた美しい爪が、霧をぎりぎりと握り潰す。自分の肉まで傷つけかねない、あらん限りの力を込めて。
きゅうぅ……う……。
霧は断末魔めいた音を発して、あとかたもなく消え去った。
「良し、今度こそ見回り完了!」
(……任務とはいえ、穢いものに触れてしまった)
内心でそう吐き捨てながら、ルシフェルはがくがく音がしそうなほどに、己の右手をひらつかせる。
――天界にはあの霧が、時おり気まぐれに現れる。
『混沌の不純なエネルギーが、天界の生気を吸って具体化したもの』……。
霧はそういう存在らしい。ただし、何ひとつ悪さは出来ない。はっきり形をとることもなく、気づけばまた元の闇へとかすれきって消えてゆく。
「やつらには何の害もない。放っておくといい」
何度も神に言われたが、うなずくことは出来なかった。
「わたしには『不浄なものが天界に在る』、そのこと自体が許せません。霧を見つけしだい消す、これを天上の掟として下さい……!」
ルシフェルがいつになく強く訴えて、霧は悪しきものとされた。天使らは見回りを行い、いち早く霧を発見しては潰してゆく。見回りの総しあげ、最終確認の役目は、当のルシフェルが望んだものだ。
意味のないこと。己のわがままだとは思うが、中止を申し出るつもりはない。
……耐えられないのだ。
(善い魂は好ましい。好ましいものは愛おしい。しかしそうでないもの……穢れたものは大嫌いだ。少しも理解出来ないし、理解したいとも思わない)
何もお前、そこまで激しく……自分でも時おりあきれるほどの、精神面での潔癖症。だが改める気にはなれない。善くないものと親しくしたいとは思えない。
「――天界に生きるものたちは、全て善くあるべきなのだ」
ルシフェルはまっすぐ前を見据え、あえてひとりで口にする。己の正しさを確かめるよう、骨ばった手を握りしめる。……と、ふいに背中へ甘えるように何かが触れた。
「わ……!」
不意打ちの感触に、思わず声が出てしまう。あわてて振り向くと、ひとりの乙女が含み笑いして立っていた。白い足がわずかに宙に浮いている。こちらを驚かそうとして、足音をさせず忍びよって来たらしい。
……ひとり言を聞かれてしまい、天使は少々きまりが悪い。だが乙女は気にするそぶりもなく、音も立てずに地に降りる。含み笑いが真顔になって、こちらをしみじみ見上げてくる。
「……お前はいつ見ても、悔しくなるほど綺麗だな」
そうこぼす乙女の大きな瞳に、こちらの姿が映っている。乙女はルシフェルを見つめつつ、その見目かたちを桃色の口で描写する。
「黄金の長髪をひとつに束ね、切れ長の目は金の色……しなやかでありつつ逞しい体、白一色の天衣……まさに天使の理想形だな。うらやましいぞ、ルシフェルよ」
お褒めの言葉に思わず首をかしげてしまう。小柄な乙女をじっと見つめて、本心から口を開く。
「イエス様、あなた様の方がわたしよりずっと、お綺麗で可愛くていらっしゃいます」
イエスと呼ばれたその乙女は、こそばゆそうに苦笑する。
「……あまりおだてるな。本気にするぞ?」
「本気も何も、わたしは見たまま、思うままを述べているだけ……艶のある夜色の髪、宝石めいた栗色の瞳、飾りけのない白い服……」
「よせ、おだてても何も出ないぞ?」
「ふさふさと豊かな髪は右肩でゆったり束ねられ、袖からのぞく白い手の、桃色の爪は天界の花を思わせる……」
乙女は困ったように微笑み、言葉にせずに肩をすくめる。彼女には羽根も光輪もない。彼女は『天使』ではないからだ。天使ではなく、もっとずっと特別な……、
イエスは背の高いルシフェルを見上げ、小鈴の声音で口を開く。
「ほめてくれるのは、正直言って嬉しいが……」
と言ってふっと黙り込み、口調を改めてすがるような目つきで続ける。
「……ふたりきりでいる時まで、かしこまるのは止めていただきたいのです。自分たちは真の兄妹なのですから……」
「とんでもない、姉上に向かって気やすい口などきけません! それにあなた様は『神の御子』、神のお世継ぎでもありますし……」
流れるような賛美の言葉に、イエスはむしろ腕でもつねられたような、痛々しい顔をする。
「けれど、本当は自分はあなたの……!」
(妹なのに)
……言いかけたくちびるへ細く長い指をあて、ルシフェルがちょっとおどけて周りを見回す。
「危ない、あぶない……その先を誰かに聞かれたら!」
あえてふざける兄の目を見て、乙女の瞳がほんのわずかに潤んでくる。それに気づかぬふりをして、ルシフェルはにっこりと音の出るような笑みを浮かべる。
「……イエス様、それを言ってはなりませんよ。あなた様はわたしの『姉上様』、神様が初めにお創りになられた『長子』です」
そんなの、まるきり嘘なのに……。
イエスはそう言いたげに口をつぐんで目を伏せる。ふっと目を上げ、何か言いかけた妹に、ルシフェルは笑ったままで首をふる。にこやかな笑みを浮かべたまま、続けて言葉を紡いでゆく。
「わたしが……」
『長子ということは』と声なしでそっとつぶやいて、続く言葉を声に出す。
「……神様と、わたしたち三兄妹しか知りません。他の天使に知られることを、神は望んでおられない。ですから絶対に秘密です……!」
ルシフェルが今度は己のくちびるへ指をあて、いたずらっぽく念を押す。そんな『弟』の輝かんばかりの笑顔に、イエスはぱちぱち何度もせわしくまばたきする。
「……どんな時でも、お前は敬語を崩してくれぬ」
吐き出すようにつぶやいて、イエスはこちらの顔を見上げる。
「ルシフェル、神がお前に何かお話があるそうだ。見回りの続きはこのイエスが引き受けるから、早く参じてやるが良い」
「分かりました、それでは今すぐ参ります! 見回りの件は大丈夫です、今しがた終えたところですから!」
「――……馬鹿!!」
羽根を広げて飛び立つ瞬間、イエスがすさんだ声で叫んだ。泣き出しそうに潤んだ声で……、
短い嘲りの言葉より、潤みにうるんだその声音が、何だかひどく気になった。