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人の子の終わり

 地獄だった。夜が明けて、ゲッセマネまで司祭たちを先導して。


『この方がイエスです』と知らせるために、そのほおへ合図のキスをして。イエスがって、あまりにおとなしく従順に、その手に縄をかけられて。十一人の弟子たちが、の子を散らすようにイエスのもとから逃げ去って。


 その全てが、ユダにとっては地獄だった。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 呪いのように心中で何度も何度も唱えながら、ユダは頭にとむらいの黒いベールをかぶり、イエスの行く末を見続けた。


 苦しかった。

 悲しかった。

 内臓が全て口から飛び出そうなほど、気の狂うほど切なかった。


 それでも、見届けなくてはいけない。最期まで見届けることが『裏切った』自分の使命だと――。そう硬く胸に誓っていた。


 連行され、裁判を受けるイエスを見ている内に、ユダの感覚は壊れていった。


 分からない、もう何も分からない。すぐ目の前の光景が、幼いころ見た悪夢みたいで、あんまりにも遠くとおく感じてしまって。分からない、もうなにもわからない……、


 まともに言葉も耳に入らぬユダの前で、イエスは有罪だとされた。『民衆をあおり立て、自らをと名乗った政治犯』だと、『よって彼女をはりつけに処す』と断じられた。


 現実をまるで受け入れられず、くらくらしているユダの視界で、イエスはその場に突き倒された。衣を破られ剥ぎとられ、嫌というほど顔をこぶしで殴られる。


 血が噴いて、夜色の黒髪が乱れにみだれて、整った顔がみるみる腫れあがってゆく。白すぎるほど白い肌が、血色にけがれて沈んだ色のあざにまみれて……、


 なに? なに?

 何なの? 何をしているの?

 おれの、綺麗なイエス様に。そのきたならしい毛の生えた手で、一体何をいったいなにを――、


 ――けいだ。

 頭のどこか遠いところで、自分の声が無情に響く。


 私刑だ。イエス様が痛めつけられ、さんざんに乱暴されている!

 そう知った瞬間、くらくらしていた意識が叩き起こされる。激情に舌を噛み切りたくなって、自分の口に思いきり指を突き入れる。


 ――いけない。最期まで見届けなくてはいけない。イエス様を今こんな目に遭わせているのは、おれの、裏切りなのだから。


 精神の苦痛に悶えるユダのとなりで、若い男がつかつかと前へ歩き出す。数人の男が後を追うように法廷の真ん中に向かっていく。


(ああ、救ってくれるんだ)

 乱暴されているイエス様を、助けようとしてくれるんだ。


 涙を流し、ありがたさに微笑むユダの耳に……イエスの嘆きが、大きくなった。抑えようとしても抑えきれぬ悲鳴が、きれぎれに悲痛に洩れてくる。


 男たちは『死肉をあさる獣』のように、イエスの体に群がっていた。前の暴行を止めるどころか、そのうえ思いきり殴りつけ蹴りつけ蹴り飛ばし、てんでにつばを吐きかける。


 見物席の女たちが、黄色い声で男たちをあおり立てる。あれほどまで『』の聖地来訪に熱狂していた民衆が――。


 ――民衆は、この裁判を望んでいた。『神の子』イエスに期待していた。


(もういい、もう充分だ)

(誰かに憎まれ、虐げられて日々を過ごす、そんな日々にはうんざりだ)

(憎しみには憎しみを、我々を虫けらのように扱うローマ帝国へ復讐を――!)


 疲れきって歪んだ心は、いつかそればかり望んでいた。望むあまりに、救世主をいくさの神と思い込んだ。しかし、期待は『裏切られた』。人々は『ただ黙って微笑むだけで、奇跡も起こさぬ非力な乙女イエス』を見限ったのだ。


 だが、ユダにはそう思えなかった。そう思いたくなかったのだ。だからずたずたに泣きながら、腹の底から考えた。


 ……皆、みんな、疲れていたんだ。人間と人間が『同じ生き物どうし』なのに、憎み合い、殺し合う現実に。平和を与えてほしかったんだ、他ならぬ目の前のイエス様に――。


 でも、そうならなかったから。裁判で有罪とされた者を、寄ってたかっていじめるのは、この地方では『当然』だから、だから今、みんなしてこうやって、イエス様を、こうやって――、


 ああ、ああ、ああああああ。おれの清らかなイエス様が。まだ誰も着たことのない、まっさらの白い衣のようなイエス様が。


 汚されていく。穢されていく。

 まるで、いつかのおれのように。


 ユダは目の玉がこぼれそうなほど見開いて、その光景を見続けた。白目を真っ赤に血走らせ、血をしぼるような涙を流して、それでもひたすら見続けた。


 もう、とっくに限界だった。乱暴につぐ乱暴の上、無残にも片目を抉られて。


 あかむらさきのあざだらけになった体にむち打たれ、いばらのかんむりを頭にきつく食いこまされ、自分の体をくくりつけられる十字架を、その細い肩に背負わされて。


 刑場までほとんど裸で歩かされ、手首と足に釘を打たれ、はりつけられて――そんなイエスの姿を見続けて、もう、もう、ユダの心は限界だった。


「おい! 『ユダヤ人の王』はのどが乾いてらっしゃるようだ! ()()()を入れた酢を飲まして差し上げろ!」


 そんな誰かのさげすみの言葉を、頭の遠くでぼんやり聞いた。


 無理やりに飲まされた酢にえずいたかみおとは、その時初めて、怒りを栗色の片目に浮かべた。ユダは、その目が恐ろしかった。


 ああ。ああ。

 おれのことを怒ってらっしゃる。どうにかして断ることだって出来たのに、あっさりうなずいて、イエス様をこんな目にわせたこのおれを……。


 そう考えるとたまらなくなり、たまらなすぎてイエスの顔から目をそらす。次の瞬間、信じられない言葉がイエスの口からあふれ出た。


「……神よ、神よ! ……あなたはどうして、イエスの、愛しいあの者を……このような目に、遭わせるのですか……!」


 かすれきった悲痛な叫びが、ユダの心を貫いた。


『愛しい者』とは、おれのことだ。イエス様はおれとふたりっきりの時に、何度もなんどもおれを、そう呼んでくださった――。


 イエス様。

 あなたは、あなたをこんな目に遭わせたおれを、そこまで愛しんでくれるのですか? こんなおれを、『悪魔の子』だったきたないおれを――……おれを。


 その時イエスと目が合った。ひとつになった栗色の目は、確かにユダの姿をとらえて、かすかにかすかにってくれた。


 微笑った瞬間、ローマの兵が手にしたやりでイエスのわき腹を貫いた。危うい笑顔が見る間に崩れ、生気が抜けて、あやまたぬ死に顔へと変わる。


 ユダのなかで、世界が終わった。


「ぅ……うぉわああああああ!」

 のどの裂けんばかりの悲鳴が自分の口から噴き出した。後はもう自分で何をしているのか、自分でも良く分からなかった。


 弔いのベールをはぎ取って、その場から逃げ出していった気がする。


 昨日の場所まで駆けていき、泣き叫びながら銀三十枚、ぶちまけた気もする。


 腰に結わえたころもめの縄を解き、手ごろな木にかけ、首をくくって死んだ気もして――。


 ふと気がつくと、真っ暗な場所にひとりで立っていた。


「……ここが、地獄?」


 ぽつんとつぶやいたユダは、塩辛く濡れたほおで微笑う。


 何を恐れる必要がある。地獄なんて、今さっきさんざん目にしたばかりなのに。


 この胸の内に真っ赤に灼きついたあの情景が、きっとこの先永遠に消えない光景が、真実おれの地獄なのに……。


 ユダはすさんだ笑いを浮かべ、真っ暗の奥にたったひとりで歩んでいった。闇に呑まれゆく黒いほおを、きりもなく涙が流れていた。


* * *


 ……そうしていつか気がつけば、魂は天界に戻っていた。


 イエスは静かに自分の手首へと目をやった。釘を打たれた生々しい傷跡は、今はもう幻のように消えている。当然のように両目でものが見えている。


 遠かった。何もかもが遠かった。穏やかな天の空気の中で、現世の死までのひとときは、夢に見た嵐のように思えた。あの屈辱も、あの痛みも暴行も、ほろ酔いのうたた寝のごとくに遠い。


 自分をさんざんにいたぶって殺した者たちへも、憎しみの念などは感じない。彼らはただ、腹に渦巻くどうしようもない不安を、怒りを、自分イエスの体にぶつけただけだ。そのことで、死後に永い罰を受けると思えば、むしろ憐れみの情が浮かぶ。


 ――ただ、本心から憎いのは。


「イエス。この度のいけにえの務め、ご苦労だった」


 ふいにそばから言葉をかけられ、イエスが黙ってこうべをもたげる。言いようもないほど酷い目つきをしているのが、自分でも分かる。


 目の前に、ゆったりと玉座に座る唯一神が微笑んでいた。そのすぐそばで、大天使長ミカエルがイエスの表情に怯んだような顔をした。


「ほんによう働いてくれた、礼を言う。これで『人間の原罪』も浄化された……。イエス、三日後の肉体の復活の儀まで、ゆるりと魂を休めるが良い」


 それがねぎらいか、まともに返事もしたくない。

 返事の代わりに、何とも言えない目つきで母なる神を()()()()見つめ、あてつけのように微笑んでやる。


 ……それからなおも無言のまま、ミカエルの元へ歩み寄る。戸惑っている兄の耳もとへ口を寄せ、小さくちいさくささやいた。


「ミカエルにいさま。あなたのお気持ち、今ようやく分かりました。愛する者をおとしめられ、血を噴くほどに誰かを憎む、その気持ち……」


 どこか泣きそうな声音で告白し、イエスは神に一礼もせずに去ってゆく。その背中を呆然と見送ったミカエルが、ふいに神へと向き直る。


「どういう事ですか。あれほどあなたに追従していたイエスが、あからさまにあらがう態度をとるなんて。あなたは、あいつに――……」


 ミカエルの胸の内に、なつかしい感情が湧き上がる。


 いつかの『剣の稽古』の後から、ミカエルの彼女に対する感情はすでに変化していた。けれどたった今噴き出した気持ちは、これまでの後ろめたい、もやついた想いとは違う。


 ――ああ、そうか。

 ぼくは、あいつが、心配なんだ。


 こんじきの目の内に炎を秘めて、ミカエルは断固とした口調で問うた。


「……あいつに、何をしたんですか?」


『母なる神』は、感情の読めない紫水晶アメシストの目を、ひどくゆっくりまたたいた。それから赤いくちびるを開け、平坦な声で語り始めた。


* * *


 塩辛いものが目からあふれる。


 自分の好きなむらさきぼたんの咲く丘で、ひとりきり、塩辛い水はあふれてあふれて止まらない。ひっくひっくと泣き声がのどを震わせて止まらない。


 ああ、ユダ、ユダ。

 お前は今、地の底で何を想っている?

 お前を酷い目に遭わせた、イエスのことを想っているのか?

 逢いたい……けれど、もはや自分には、お前に合わせる顔もない……。


「イエス」

 ふとすぐ後ろで声がして、肩がびくんと跳ね上がる。あわてて乱暴に目を拭って振り向くと、いつになく神妙な顔つきで、ミカエルがこちらを見つめている。


「……ごめん。何度も呼んだんだけど」


 申し訳なさそうに謝って、ミカエルが金の瞳をまたたいた。気づかうそぶりの兄の方がかえって泣きそうな顔をしていて、とても不思議な気持ちになる。


(……兄様、どうして? どうしてそんな顔をするの?)


 兄様、イエスをあんなに憎んでいたじゃない。昔いっぺん殺そうとまでしたじゃない。


 責める気持ちは浮かばない、ただ本当に不思議で、どうして――?

 口を開いたイエスの肩に、兄の骨ばった手が触れる。『触り方が分からない』とつぶやくように、そろっと撫でて、すぐさまぱっと手を離す。


「……神から、聞いた。ユダのこと」


 くちゃくちゃと変にくちびるを噛みしめて、それから兄が口を開く。


「……イエス。ぼくの部屋に、鏡があってさ。おおきい鏡、壁一面に」


 急に話題を変えられて、イエスはかすかに首をかしげる。ミカエルはひどく言いにくそうに、でも懸命に言葉を重ねる。


「その鏡、地獄とつながってるんだ。……『地獄の魔王』の……兄さんの部屋の、鏡とさ」


 とんでもない秘密を明かされ、イエスが潤んだ栗色の目を見開いた。ミカエルは美しい栗色の目を、うかがうそぶりでのぞき込む。


「その、だから……だから、ぼくの部屋に来る? 兄さんに頼めば、きっとユダに逢わせてくれる……」

「……だめ」


 小さな声で、でもきっぱりと拒絶して。イエスが泣き顔の笑顔になった。


「……自分には、もうユダに逢う資格なんてない……」

 ミカエルが、イエスの答えに息を呑む。


(――ああ、ぼくは何にも分かっちゃいなかった)


 イエスは、ぼくの妹は、甘やかされてばっかりの偽りのじゃなかったんだ。こんなにも、強くて、もろくて、危うくて。


 胸の中いっぱいになつかしい感情があふれ出す。もう今ははっきり分かる、それは目の前の妹への、イエスへの……、


 ――ああ。

 強く抱きしめて、なぐさめてやりたい。思うさまこの胸で泣かせてやりたい。


 内心で言葉にしてみると、想いはなおさら血を噴くようにせり上がる。けれど地獄に生きる兄を思うと、どうしてもそれが出来なかった。


 出来ない代わりに、いつかみたいに、イエスの頭へ手を触れる。……こんなことする資格なんて、もうないかもしれないけれど。


 そろそろと、妹の頭をでてやる。くっと小さく、イエスの口から声が洩れる。堪えきれず忍び泣く顔をのぞき込むなんて、そんなこととても出来なくて……、


 ミカエルは何も言わず、何も言えずに、野ぼたんの花を見つめていた。


 紫の花々が風にそよいで、ゆらゆら揺れる。絹細工のようなベルベットの紫が、目にみるほど美しかった。

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