懇願
イエス様が何だかおかしい。
ユダはここ数日の間、思い続けに思っていた。
イエスが『母なる神』と呼ぶ、神をまつる大きな神殿。その神殿のある聖地。布教を続け、数日前に聖地にようやく足を踏み入れ、民衆に救世主として狂気のように歓迎され。それなのに、このごろのイエスはずっと沈んでいた。
おかしいといえば、自分もおかしい。
――ざわざわするのだ。たまらなく胸がざわざわする。さしたる理由も見当たらないのに、何だか突然、今までの幸福が終わりを告げてしまいそうな。
「……ユダ。眠れないのか?」
聖地の宿屋で過ごす夜、同室のイエスに訊ねられ、ユダは素直にこう答えた。
「眠れません……何だか、こう……胸のあたりが、ざわざわと……」
「そうか……見ての通り、自分も何だか寝つけなくてな。おいで、ユダ。ふたりで夜の散歩とゆこう」
「……でも」
ユダは珍しく、イエスの誘いに少しためらうそぶりを見せた。
イエスたち一行は、古くからの宗教者たちにとっては明らかに異端。そのために彼らからは煙たがられ、何かにつけて言いがかりをつけられている。
そうしてこの聖地はいわば、彼らの絶対のテリトリー。夜中に歩いているところを見つかれば、きっとややこしいことになる……。こちらの心配に気づいたのか、イエスがほんのり苦笑した。
「今は大丈夫、何も起きない。行こう、ユダ。ふたりで少し話をしよう……」
そこまで言われれば、断る理由は見あたらない。ユダは母に甘える子どものように、さし伸べられた手を取った。
『話をしよう』と言ったのに、イエスは何もしゃべらなかった。
しばらくは、ふたりして静かな夜の魔物のように、言葉も交わさず街を歩いた。やがて民家の連なりもとぎれ、イエスとユダは大きな広場に行き着いた。
「ここなら良いか」
ふとつぶやいたイエスが、ふうっと大きく息をつく。まつ毛の長い綺麗な瞳に、どうしようもない憂いが見えた。
「イエス様……?」
ささやくこちらに向き直り、イエスが微笑しながら告げる。
「ユダ。お前にお願いがある」
「お願い? は、はい! 何なりと!」
「そうか。きっときっと、お前は叶えてくれような」
「はい! おれに出来ることなら何でもします! あ、出来ないことでも頑張ってします!」
――きっとだな。
柔らかな脅しのように決めつけて、イエスはやっと自分のお願いを口にした。
「ユダ。このイエスを、殺してくれ」
耳が壊れたのかと思った。
(ころす? 誰を? イエス様を?)
「……ご冗談を……、」
「冗談ではない。出来ぬのか? ユダ、お前は何でもするとたった今、その口で誓うたではないか。出来ぬのか? このイエスの願いがきけぬのか?」
詰め寄るそぶりでたたみかけられ、思わずじりじり後じさる。背後の石に蹴つまずき、ぶざまに転び、尻をしたたかに打ちつけた。
「ユダ」
手をさしのばそうともせずに、イエスがぐっと眼前に顔を近づける。その表情がふいに崩れて、溶け落ちて消え去りそうな笑顔になった。
「お願いだ。殺してくれ。そうしなければ、自分がこの世に生まれ出でた意味がないのだ」
「……わ、分かりません! いったいどういうことですか!? だったらあなたは死ぬためだけに、この世に生まれたというんですか!?」
「ああ、そうだ。自分は、イエスは――『原罪を清める子羊』なのだ」
やけくそで言い放った言の葉に、真正面から応えられる。イエスはようやくユダへ白い手をさしのばし、彼女の肩を優しく抱いた。
「ユダ。人間は、生まれながらに全員が罪を負っている。人間の始祖のアダムとイブが、大きな罪を犯したからだ」
「……知ってます……彼らふたりが、楽園の知恵の実を食べたから……でも! それがあなたと、あなたの死と、いったい何の関係があるって言うんです!?」
「人間は、今のままでは救われぬ。全ての人間の魂は、死して後にも永遠に、天界には行き着けぬ。他ならぬ『知恵の実の罪』があるからだ」
何か言おうと口を開いて、何も言えずに息だけ胸から洩れてくる。こちらの肩になだめるように指をすべらせ、イエスが言葉を継いでゆく。
「罪の浄化には、『生贄の子羊』が必要だ。罪人として磔刑にされ、贄は死ぬ……その肉体の滅びこそ、唯一の『原罪を清める手段』だ」
「……あなたが……あなたが、その子羊だって言うんですか……?」
「そうだ、だがそんなものは何でもない……自分の役より、もっと酷い役目があるのだ……。ユダ、他ならぬお前に、その役を……『裏切り者』の大役を頼みたい」
こちらの肩を抱く手に、痛いくらい力がこもる。自分の運命を語るときより悲痛な瞳で、イエスは秘密を明かしてゆく。
「ユダ、お前は古くからの宗教の、司祭らにイエスの居場所を告げるのだ。彼らはイエスを……『異端の女』をどうにか捕らえて、処刑したいと思うている。彼らにイエスを売るのだ、ユダ……」
「……や……」
「嫌とは言うてくれるな、ユダよ! お、お前にしか……お前にしか、頼めぬのだよ……!」
愛するひとが哀願する。泣き出しそうにこいねがう。『自分を裏切って、殺してくれ』と。
「……ユダ、お前は『裏切り者』として、死後も永く名を遺す。たとえいかなる訳があろうと、罪は罪、罰は罰……死して後は地獄に堕ちる……そこでお前を待っているのは、永遠とも思える、惨たらしい刑罰だ……」
息を呑むこちらの肩に、イエスがひしとしがみつく。それはまるで、おびやかされた幼子が、母親にしがみつくように。
「……他の弟子にはとても頼めぬ。彼らはきっと役目の重さに耐え切れず、投げ出してしまうに違いない。今の彼らが望むのは、死後の名声、魂の安楽、ただそれだけなのだから……」
殺して。
殺して。殺してくれ……。
抱きついたイエスの肩が、ひきつけるように震えている。潤んで歪んだ切れぎれの声で、何度も耳もとでささやかれ……とうとう泣きながらうなずいた。ぐしゃぐしゃに泣きながらうなずいた。
うなずきながら、目に灼きつけようとする尊いお顔が、潤んで歪んでよく見えなくて……ただただ抱きしめてくる腕が、苦しいくらいに愛おしい。
「ごめん、ユダ、ごめん……」
「ごめんなさい、ごめんなさい……ごめんなさい、イエス様……」
呪いのように、何度も互いに謝り続け。しまいに何を謝っているのかも分からなくなって、けれどふたりは、夜の明けるまで互いに謝罪し続けた。
……『弔いの香油』の独特の匂いが、イエスの体からいまだ残酷に香っていた。




