断片《フラグメンツ》/『無価値』の想い
呼ばれるたびに、消えたくなった。
呼ばれるたびに、胸の内にゴミが溜まっていくようだった。
ベリアルという己の名は、神のくだした烙印だった。天界では『無価値』を意味する……ベリアルという言の葉は。
価値がないのなら、僕はどうして天使として生まれてきたのか――。
「なあに、そんなに気にするな」
「単なる神様の気まぐれさ」
他の天使はみんな、そう言ってくれたけど。
「気にするな、ベリアル」……。
そう呼ばれる名前の裏にひそむのは、『お前は無価値だ』という呪い。
ベリアル。ベリアル。
無価値なもの。無価値なもの。
何の気なしに呼ばれるたびに、心の中へ少しずつ毒を塗られていくようだった。いつか自分でも知らない内に、誰にでも甘えてじゃれつくようになっていた。
(誰か、僕を必要として)
(誰でもいいから、『お前には価値がある』って言って)
言い知れぬ不安にかられて絡みつくほど、みんな名前を呼んでくれた。ベリアルと。『無価値なもの』と、何度でも名を呼んでくれた。
(僕は、ここにいていいの?)
(僕は、何のため生まれたの?)
名前ひとつで、悩んで悩んで、己の美しい見た目にすら嫌気が差すようになっていた。
無価値なもの。僕はここでは何の役にも立たない、見た目に美しいだけの、ただそれだけの存在なのか……?
そんなある日、大天使長のルシフェルが母なる神に反逆した。
『自分ではない誰かが、自分よりも神に愛され、尊ばれるのが許せない』……要約すれば子どもみたいな言い分が、神に刃向かう理由だった。それでもルシフェルには、どうしようもなく人を惹きつける魅力があった。
『神の御子のイエスより、我の方が神の世継ぎにふさわしかろう?』
その言葉に引き寄せられて、多くの天使が彼を将とし、神に挑んだ。ベリアルも反逆軍の一員となり『天界の戦い』に身を投じた。
だがそれは、神への反感からではない。むしろ憎いのは『御子』として誰からもひたすら愛されるイエスの方だ。でもそれが理由で、神に反逆したのではない。
……こちら側へついたなら、自分の価値が見出せるかもしれないから。
ただひとつ、たったそれだけが、神への反逆理由だった。
『無価値』と名づけられた自分が、創り主に抗うことで、価値のある存在に生まれ変われるかもしれない――。
……だから今、僕は幸せだ。ぶざまに神に敗北し、地獄に堕とされ、純白の羽は鴉さながらの色になり。それでも、とても幸せだ。
だってもう、きっと僕は『無価値』じゃない。堕天使と名を変えた今、ここではきっと『価値ある存在』でいられるから……。
地獄の業火にほおを濡らし、柔い微笑が口もとへ浮く。ふっとがさつに肩に触れられ、仲間が耳もとで言いかける。
「おいベリアル、ルシファー様のとこに『ご奉仕』に行ってやれ。だいぶストレスが溜まってらっしゃるみたいだからな」
いやらしい口ぶりでささやかれ、弾けるようにうなずいて、黒い羽をさあっと広げる。ふっと自分の身なりに目をとめ、広げた翼を半分たたむ。
ああ。いけない、この姿では……魔王様は『着飾った見た目』がお嫌いだ。
そう思いくるりと優雅に身をひるがえす。その一瞬で半裸に垂れ下がった宝石や装飾品はさっと消え、シンプルなロングの黒衣姿に変わる。
「いいねぇ、そういう素人くさいのも……魔王様はお好きだろうよ」
「ふふ、ありがとう!」
にたにた笑いの賞賛に、花咲くような笑みで応える。黒い翼で飛び立って、飛びながらも微笑がほおに浮いていた。
* * *
魔の宮殿へたどり着き、ベリアルは広いひろい内部をめぐり、ルシファーの居室の前で歩みを止めた。
「ルシファー様? 僕です、配下のベリアルです。お邪魔しても構いませんか?」
絡みつくような甘い声音で、扉の向こうに声をかける。
「――入れ」
突き放すように返事をされて、ぬらついたしぐさで戸を開ける。部屋に入ると、魔王が大きな傷跡の浮いた目で、ベリアルをじっと見つめてきた。
『大天使長ルシフェル』から『魔王ルシファー』へ。
『神に祝福されし者』という意味の『エル』という名を捨てた魔王は、幸せという感情さえ失くしてしまったようにも見えた。
ベリアルは艶やかに微笑んで、魔王のそばへとすり寄った。ルシファーの肩にしなだれかかり、耳もとへ熱っぽい息を吹きかける。
「敬愛する魔王様、ご心労はなはだしいとの報告があり、ベリアルが参上いたしました。よろしければ、この僕を存分に可愛がってくださいませ。そうして甘い秘めごとで、その憂さ、お晴らしくださいませ……」
魔王は深く息をつき、目を合わさずに吐き捨てた。
「……くだらない。第一お前、我と同じ男だろうが」
「男? ほほ、魔王様こそくだらない戯言を言わっしゃる……元は天使のこの体、僕もあなたも男ではなく、両性具有ではありませぬか」
まあ、それでも良いか、サービスだ……。
軽い気持ちで考えて、ベリアルは女の姿へと見た目を変える。魔王のひたいから突き出た角をくすぐる手つきで撫ぜ回し、子猫めかして甘い声音でじゃれかかる。
「魔王様、ここは地獄です。『清い天使』なら吐き気のするほど、芯からみだらな交わりをしても、罰する者などいないのです……っあっっ!」
体がばらばらになるような衝撃、内臓が熱く爆発したような……! 闇の電撃。魔王が手から漆黒を放ち、僕の身をびっと引き剥がしたんだ。
魔王ルシファーの金色の瞳に、怯えて戸惑う自分が映る。髪が電撃で逆立って、くしゃくしゃのちっぽけで、歪んで見える。
「――わたしに、触れるな」
ゴミを見るような目で吐き捨てて、それっきり魔王はぴしりと背を向ける。
世界が終わった、ような、気がした。
無価値なんだ。ここでも、やっぱり。僕はやっぱり……、
いや、違う。僕は、天上ではまだ無価値でいられた。今の僕はそれよりひどい。体で仲間をなぐさめる、腐って爛れた、ゴミ同然の存在なんだ……。
ゴミという言葉いっぱいに脳みそがびっしり埋まっていく、ただただうなだれて声もなく、魔王の居室を後にする。
……ああ、僕は馬鹿だ。
『地獄へ堕ちてまで手に入れた幸福』は、全部にせものだったんだ。
どこにいたって、誰も何も、僕なんか必要としていない。必要なのは、この姿。この体。ただただ見た目に綺麗なだけの、空っぽの美しさだけなんだ。
どこにいたって変わらない。そのうえ地獄でちやほやされて、いい気になって、穢れて、穢れて……穢れて。
もう天使じゃない、純白じゃない、黒いカラスみたいな羽じゃあ、二度と天にも戻れない……。
「……おい、どうしたベリアル? やたらお早いお帰りじゃないか。魔王様に追い返されたか? お前みたいのは好みじゃないのか、あの堅物は?」
先ほどの悪魔が、ふと寄ってきていたずらっぽく肩をたたいた。
――ああ、もういい、どうにでもなれ。
ベリアルはこくりと相手にうなずき、逞しい首に甘えるそぶりで腕を絡める。
「……ねえ、代わりといっては何だけど、あなたがお相手してくれない?」
悪魔がにいっと口をつり上げ、こちらの体へ覆いかぶさる。ベリアルは死んだ魚のような目をして、地獄の黒い空を仰いで、『空っぽに美しい顔』でまた笑う。
腐れ。
腐れ。
腐ってしまえ。
もう二度と、天へ戻れぬ運命ならば。もっともっと腐って穢れて、あとかたもなく消えてしまえ。
『無価値なもの』。
それ以下のもの。
(ああ、僕にぴったりの名前じゃないか――)
内心でそう吐き捨てて、爛れきった笑みを浮かべる。
ああ、ああ、気持ち良い。
心は空っぽ、体はこんなに気持ち良い。
それでいい、それでいいんだ、気持ち良いことだけ考えろ――。
――気持ち良くなんか、ないんだ。性より愛がほしいんだ。心の中で泣きわめく天使のなごりを押し殺し、わざとらしくあえぎ続けて。
心にぽっかり開いた穴が、抱かれるたびに、穢れるたびに、大きくなっていくようで。でも他に出来ることはない、だからあえいで、あえいで、あえいで。
……あふれこぼれてくる涙を、快楽のせいにしてきつくきつく目を閉じた。




