断片《フラグメンツ》/ノリ・メ・タンゲレ
ああ、この耳よ、腐れ落ちろ――。
『魔王のつとめ』を終えたルシファーが、内心で繰り返しくり返す。罪人たちの、苦痛に満ちたおめき声……その声が部屋の中以外、どこにいようと聞こえるのだ。
一日分の刑が終わり、今はつかのまの休息の時。そのはずなのに、あちこちから切れぎれの悲鳴が耳を刺す。『仕事熱心』な堕天使たちが、気まぐれに罪人を罰しているからだ。
おそらく奴らは地獄の酒でも飲みながら、つまみのように罪人の悲鳴を心地よく味わっているのだろう。
『悪しき魂』を責めるつとめを、堕天使たちは心から楽しんでいるようだ。
『神様のお決めになったことだ。悪しき魂に絡む役目は、お前たち悪しき天使たちにこそふさわしい』……そんな高飛車な口ぶりで、天からの使者に命じられたのにも関わらず。
(要はあいつらは、目の前の弱者をいたぶれればそれで良いのだ)
唾を吐きたいそぶりさえ見せ、魔王が心中で配下をなじる。なじる自分が、やりきれない。自分はどれほど、天界にいた時からどれほど……、
違うんだ。本当は、違うんだ。
人間を穢したのは、遠い未来に天使の高みへ引き上げるため。決して、決して、お前たちが憎くてそうした訳ではない……!
そんな真実を言える相手は、この地獄にはひとりもいない。自分の本心を吐けるのは、鏡ごしに語らえる双子の弟しかいない。だから、今夜もルシファーはつとめの終わりを待ちかねて、自分の部屋へすべり込む。
「ミカエル……」
部屋の壁一面に広がる巨きな鏡……それこそがミカエルと逢えるたったひとつの手段。魔王は檻ごしに恋人の姿を求めるように、澄んだ鏡へ触れようとする。そのとたん、扉の向こうから声がした。
「ルシファー様? 僕です、配下のベリアルです。お邪魔しても構いませんか?」
思わず舌打ちしそうになって、ルシファーはしかめ面でふり返る。
「――入れ」
心底うんざりした声が、赤いくちびるを伝って洩れた。
ベリアルがそっと扉を開けて入室し、魔王に色っぽく一礼した。酔いの回った蝶のように顔を上げ、黙ったままでほんのり微笑む。
(……相変わらず、姿だけは綺麗だな)
むしろ穢いものでも見るように、魔王はベリアルをつらつら眺める。
魂の善でない時には『見た目の美』などむしろ嫌味になるものだ。美しい堕天使のその姿も、全身に泥でも塗られたように、こちらの目には映ってしまう。
……何も気づいていないのだろう、ベリアルが甘える身ぶりですり寄ってくる。口づけんばかりにしなだれかかり、耳もとに熱っぽい息を吹きかける。
「敬愛する魔王様、ご心労はなはだしいとの報告があり、ベリアルが参上いたしました。よろしければ、この僕を存分に可愛がってくださいませ。そうして甘い秘めごとで、その憂さ、お晴らしくださいませ……」
腹の底の底の方から、思わず深いため息が出る。
(そんな腐った営みで、この憂いが拭えるとでも思っているのか。馬鹿にするな。わたしはお前らとは違う――!)
言えない。言える訳もない。だから魔王は、全く興味のないふりをして、目を合わさずに吐き捨てた。
「……くだらない。第一お前、我と同じ男だろうが」
「男? ほほ、魔王様こそくだらない戯言を言わっしゃる。……元は天使のこの体、僕もあなたも男ではなく、両性具有ではありませぬか」
ころころと女狐じみて笑いながらも、ベリアルが見る間に姿を変える。
ピンク色に上気した肌、はだけた胸もと、見るもみだらに振り立てるたっぷりとした腰回り……。
そのいやらしく突き出た胸も、下品に張り出した尻の肉づきも、全てが忌まわしく目に映る。ひたいから突き出た角を撫でられ、甘い声音でじゃれかかられ、魔王の眉間にみるみる内に深いみぞが刻まれる。
ああ。あああああうるさいしつこい、もう我慢の限界だ――!
「っあっっ!」
ふいに雷に撃たれたように、ベリアルの身がのけぞった。その右手から漆黒を放ち、ルシファーがベリアルを嫌というほど『懲らしめた』のだ。
「――わたしに、触れるな」
のどが潰れたかと思うほど、鋭く低い声が出た。それきりベリアルへぐっと背を向け、鏡ごしにも彼の姿を見ずにすむよう、きつくきつく目を閉じる。
背後でしめやかな足音と、ドアの閉まる音がした。ルシファーは深く息を吐き、まつ毛の長い目を開く。
――鏡に映る、醜い姿。
この姿に似合うくらい、この魂も地獄の毒気にあてられて、穢れて腐ってしまったろうか。
知りたい。……知りたいけれど、知りたくない。
魔王は指先で鏡に触れて、つうっと指をすべらせる。鏡に映った自分の姿は霞んで消えて、代わりにひとりの天使の姿が夢のように現れた。
「……兄さん……!」
天界にいる双子の弟ミカエルが、泣き出しそうな笑顔を見せる。
その笑顔は昔の自分によく似ていて。
切なくなるほど、美しかった。




