いもうと
――逢えた気がした。
淡く脆い夢の中で、再会出来たような気がした。
目覚めれば、そこは自分の部屋の中、双子の兄がいるはずもない。己の胸に手をあてて、ミカエルはひりひりと息をつく。
「きっとまた、術をかけられたんだろうな……」
今度は、全能を謳われるあの神に。彼女はさっき、気づかうようにこの肩に触れたその指で、眠りの術をかけたんだろう。
「――成し遂げられた」
ミカエルは一言つぶやいて、胸に置いた手に力を込める。
胸が痛い、芯の方から雪降るようにしんしん痛い……この痛みが教えてくれる、双子の兄が心から嘆いていることを。
「……兄さん、誘惑は成功したんだね。だから今、こんなに悲しんでいるんでしょう……?」
ルシファーとミカエル、『天の双子』の精神は、深い所でつながっている。片方が死ぬほど嘆けば、もう片方の胸も痛む。
終わっちゃったんだ、もう全部。
楽園に行っても、どこにも兄さんはいないんだ。
「……会いたかった」
つぶやくとよけい淋しくなって、ミカエルは自分で自分の肩を抱く。白い肌に衣ごしに爪を立て、血の噴くほどに力を込める。
『……ミカエル。いるのか?』
ふいに戸の向こうから、そう呼びかける声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声に、気持ちが一気にすさんだ方に裏返る。けれど無視することも出来ずに、しかたなく部屋の戸を開ける。
扉の向こうに立っていたのは、予想通りの相手だった。
「何の御用でしょう、御御子イエス・クリス・テ様」
ていねい過ぎていっそ無礼な『ごあいさつ』を受け流し、イエスは穏やかに微笑する。
「……ミカエル、気分が悪いそうだな。神から聞いた。大丈夫か?」
(――己の一番嫌う相手に気づかわれるほど、不快なことは他にはないな)
内心でそう吐き捨てながら、ミカエルはおざなりにうなずいた。いいかげんに頭を下げると、イエスの可愛らしい小さな足先が目に入る。
(思いきり、ぎゅっとひねれば、あっさり壊れてしまいそうだ……)
心の内でつぶやくと、ミカエルの中で何かが弾けた。自分が天使でなくなったような、何だかもっと黒いものに、ざわりと変わってしまったような……精神が熱い泥水の詰まった、水風船になったような。
ひどく、悪くない感覚だった。
「……イエス様。気分直しに少し体を動かしたいと、実は思っていたのですが……剣の稽古に、しばし付き合うてくださいませんか?」
「そうか、良いことだ……稽古をしたいと思うほどなら、ほんに具合は良うなったのだな」
吐き気がするな、この笑顔! ……だけど、今は我慢してやろう。もうじきだ。きっともうじき、この顔を見なくても良くなるから。
ミカエルは彼女と共に、赤いアネモネの花園の中央へ進み出た。イエスがふいに大きく腕を振るうと、花園全体に透ける天幕がかけられた。
「これで外から我らは見えぬ。気合の声も外には洩れぬ……早とちりした天使らに『すわ、果し合い!』とでも思われて、いらぬ邪魔が入らぬようにな」
冗談めかして笑うイエスに、ミカエルが口もとを歪めて呼応する。
――は、馬鹿が。
気づきもしないのか、ぼくがどれだけ、どれだけお前を……!
内心でそう嘲って、ミカエルは己の胸に手を触れる。その一瞬で、彼はかっちりと赤い鎧を身にまとう。愛剣を握りしめ、刺すような目でイエスを見やる。
「イエス様、あなた様もお仕度を」
「これでいい」
胸に火のつく想いがした。
これでいい――だと? いつもの白い衣のままで、ぼくと剣で戦うと? 舐めやがって――なめやがって!
イエスが空から細身の剣を生じた瞬間、がっと乙女に斬りかかる。がしがしと足に踏みつけられ、赤いアネモネがぐしゃぐしゃに色を変えてゆく。
ボッ……ゴウウウウッッ!
柄を持つ手が焦げそうに、ミカエルの剣がくらめく炎を噴き上げる。
殺してやる。
殺してやるころしてやるコロシテヤル! 今はお前に『神から借りた雷の力』はないだろう、お前ひとりの能力なら何も恐れることはない!
お前のせいだ、何もかもみんなお前のせいだ!
お前がいるから兄さんがあんな目に! ぼくたち双子が離ればなれに! 殺してやる! 美しいだけのその体、肉片になるまで斬り刻んで、魂もろとも潰して永遠に葬り去ってやる!
ぐちゃぐちゃに燃えたぎる殺意のまま、まるでむちゃくちゃに斬りかかる、相手は泳ぐ魚のように灼熱の刃をすり抜ける。イエスの剣は炎をまとい光をまとい、次の瞬間風をまとう――御子の能力、その素晴らしさを見せつけてでもいるように。
「このぉ……っ! ぅらああああっ!」
業を煮やしてしゃにむに振るった剣先が、イエスの右袖をばつりと断ち切る、次の瞬間、イエスの剣がこちらの剣をはね飛ばす。
ギイイインッ……ッ!
物騒な楽を奏でた後、己の剣はアネモネの園に無力に転がった。炎をまとう剣先で、いくつか赤花の首が飛ぶ。
「……っちっ……くしょおおお……っ!」
その場にがくりと膝を折り、ミカエルがくちびるを噛みしめる。噛みしめすぎて傷ついて、血のすじが赤くしたたり落ちる。
穏やかなしぐさでこちらへ手を伸べて、神乙女が慈しむように微笑する。
「ミカエル。今はお前はイエスに勝てぬ。イエスの無限の能力を、神が定めておられるからだ」
慈愛そのものの声音が、ミカエルの脳を灼いてゆく。さし出された白い手をがっと払いのけ、獣のごとく咆え立てる。
「神!? どこのどいつが神なんだ、手前の息子を地獄に堕とした女が神か!? 偽りの全知全能の神! 情など持たぬ『母なる神』!」
兄の剣幕に、イエスが驚き身をひいた。制しようとする妹の言葉を罵声で封じ、ミカエルは悪魔のごとく吼え立てる。
「神は呪われよ! その栄光は地に堕ちよ! 神の御子など、お前など、魂までも滅びてしまえ!」
イエスのまゆがぎゅっと寄る、怒りや何かが入り混じる、今までに見せたことのない表情をして、のどの奥から叫びを上げる。
「――いいかげんにしろ、ミカエル! 天使の長たるお前が、そのように取り乱して良いものか! お前はいつも兄のことばかり思うている、他の天使や、イエスのことなど気にもかけずに! お前の――」
一瞬ひどく顔を歪めた神の御子が、噛みつくように言葉を吐いた。
「お前の真の兄妹は、地獄に堕ちた双子の兄、魔王ルシファーを除いては、ただのひとりもおらんと言うのか!」
――自分だって。自分だって、兄様、あなたの妹なのに……。
叫びの向こうに見え隠れする本音にも、兄の心は揺らがない。
「ああ、そうだ。ぼくの愛する同胞は、ルシフェルをおいて他にはいない!」
イエスの瞳に、かたくなな兄の姿が映る。ふっと開いたくちびるから、何の言葉もこぼれてこない。乙女は声もなく顔をこわばらせ、細いまゆをすうっとゆっくりひそめていく。
(は、泣くのか? 自らの美しさとたおやかさを武器にして、泣いて気をひいて見せるのか?)
内心で嘲るミカエルに、イエスはほろりと微笑んだ。静かに、しずかに、微笑んだ。
塩辛いものが目からあふれて落ちそうな、けれど確かに笑顔だった。今にも崩れ落ちそうな、あまりにもくしゃくしゃな笑顔だった。……栗色の目が、濡れた宝石みたいだった。
ミカエルは二度も三度もまばたいた。
知らぬ間にかかった憎悪の霧が、一気に晴れたみたいだった。目の前の乙女は、今、殺したいほど憎くてたまらない相手ではなく、自分の妹みたいだった。
「…………っ」
もつれほつれた吐息をついて、イエスはこちらへ背を向ける。泣き声もあげず、何も言わずに、ただただ遠ざかってゆく。その後ろ姿は、今まで目にした彼女の背中の、どれより小さく目に映る。
「……イエス……」
ぽつりとつぶやいてミカエルは、思わず胸に手をあてる。鎧の硬い感触が、手のひらにひどく冷たくて……、
――イエス。
お前は、お前の立場をみずから望んでいたんじゃないか? 神に愛され、皆に尊ばれ、甘やかされて、『御子』の身分に思うさま溺れていたんじゃないか?
「……違う、のか?」
思わず小さく声にして、遠ざかってゆく後ろ姿をじっと見つめる。
(お前も、神の駒なのか? やりたくもない『御子』の役を、自分の気持ちを押し殺して演じているだけなのか……?)
そう思うと、今まで彼女にあてつけた全てのことが、ひりひりした痛みとなって胸を刺す。
――今まで、ぼくは、あいつのどこを見ていたのか。どこを見てそこまで憎んでいたのか。
そうしてあいつは今までに、いったい何度あんな顔をしたのだろう。見えないところで、ぼくのせいで、今みたいな顔を、いったい……、
――なんで? いったいいつから、昔は違ったじゃあないか。そうだ、幼いころは違った、ぼくはあいつを撫でてやったりもしていたのに……!
そうだ、たった今あいつを殺そうとしたこの手。この同じ手で、ぼくはあいつの頭に触れて、とろけるようなあの時の笑顔……!
……だけど、兄さん。地獄に生きる兄さんを想うと、どうしても……、
「歩み寄る気に、なれないんだ……」
ミカエルは妹の後ろ姿を見つめながら、微かにかすかにつぶやいた。哀しいほどに小さな背中が、やがて視界から消えた。
ミカエルは、ただただ黙ってうなだれる。その金色の目に、無残に潰れた花が映る。
……彼の好きな赤花は、彼の足に踏みしだかれて、草の上に赤黒い体液を染ませていた。
* * *
「……ミカエルの様子はどうだった?」
神に聞かれて、イエスは何も答えられずに微笑した。
微笑うしかない。
普段は優しく微笑っていて、命じられれば神から借りた雷で、神の御怒りを敵に浴びせる。
その他に何を命じられても、黙って言いなりになればいい。
求められているのは、それだけだから。
「イエス。人間の罪の浄化の件、よくぞ引き受けてくれた」
「……いえ」
(引き受けるようにしつけたのは、どこのどなただったろう)
内心でそうつぶやきながら、イエスは従順に頭を下げる。その頭を柔いしぐさで撫ぜてやり、神が緩やかな声音で聞いた。
「イエス。……ほうびと言ってはなんだが、お前にひとつ、何でもほしいものをやろう」
――耳が壊れたのかと思った。自分の耳が信じられない。
だって、本当に初めてだもの。
そんな甘やかすような言葉を、ふたりきりの時に言われたのは、真実これが初めてだもの……。
イエスは栗色の目を見開き、じいっと母神の顔を見つめる。嘘でも冗談でもないと、しばらく経って分かってようやく、おずおずと口を開いていく。
「……おと……」
(弟がほしい)
そう言葉にしようとして、イエスははっと口をつぐむ。
――いけない。見た目だけの区別とはいえ、弟だと『同性のよしみ』で、その子はミカエル兄様と仲良くなってしまう気がする……、
「……妹を。妹がひとりほしいのです」
「いもうと?」
「……はい。何も『神の子』でなくとも良いのです。真の兄妹でなくとも、一向に構わないのです。ただ」
言いかけたとたん頭の中に、歪んだ感情に満ちみちたミカエルの目が蘇る。イエスは思わず胸もとへぎゅっと手をあてて、祈る口ぶりで言葉をこぼす。
「……ただ、このイエスを誰より何より慕うてくれる、イエスを心底、愛してくれる……そんな兄妹が、ほしいのです……!」
神は一瞬、言葉を呑んだ。
何か言いたげな、けれど何も言えないような、そんな複雑な顔をした。それからいつもの威厳をまとい直して、ゆったりとした声音で告げる。
「その願い、わらわが叶えよう。イエス。わらわはお前に真の妹を与えよう。その者は初めは単なる人間として、地球のかたすみに生まれ落ちる」
イエスは何とも返事が出来ず、あいまいに首をかしげてみせる。
母の言葉が分からない。『真の妹』とは、自然彼女が『神の子』であることを指す。なのに普通の人間として生まれるとは、いったいどういうことだろう?
……神はどこか遠くを見る目で、淡々と言葉を連ねてゆく。
「わらわはその者に、重い試練を与えよう。世界の終末まで続く、死すら手緩い、辛い試練を。そのことで少しずつ、平凡な魂は美しく非凡に磨かれてゆく」
イエスは思わず口を開いて……やっぱり黙って、口をつぐむ。
声にできない。
今は自分が声を出すことを、神は望んでおられない。
ずっとそうして生きてきたから、これからもきっと、逆らうことなど出来やしない……、
神はそんな娘の気持ちに気づいているのか、いないのか、美しい声で言葉を紡いでゆく。
「いわば宝石の研磨と同じだ。魂は『試練のやすり』で磨けばみがくほど美しくなる。……そうして『最後の審判』の後、試練のやすりに磨き抜かれた魂を、改めて神の子としよう」
――ああ。ああ。目の前の母様は、やっぱり、イエスのことを……。
母様。自分が、イエスがそれほど、それほど可愛くありませんか。それではあなたは、どうしてイエスを……、
芯から問いかけようとして、やっぱりひとつも口に出来ない。何度も小刻みにうなずいたあと、うなだれるように一礼する。そんなイエスに、神は感情の読めない瞳で、かすかな微笑をほおに浮かべる。
「その者の容姿、一度見ればすぐにお前の妹と分かる、そのような見た目に創ろうぞ。その者の名は――」
神はいったん言葉を切り、良く通る声で宣言した。
「その者の名は、ユダという」




