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生贄

 地獄での数日が過ぎた。


 ある日の早朝、ルシファーはひっそりと天上へ向けて飛び立った。と言っても、日の差さない地獄での一日の始まりを『早朝』と呼べればの話だが。


 ひたすら飛び続ける翼に、手足に、体じゅうに重苦しい圧がかかる。身を潰そうとのしかかってくる、どろどろと熱い泥のような闇……。堕ちる時はあっさりと底の底まで堕ちたのに、上に上がるのは困難だった。


(堕ちるのは『神の望まれたこと』、だが今わたしが天へ向かうのは、そのにそむいている。だから、こんなにも混沌がわたしを追い堕とそうとするのだ)


 本当はわたしのこの行動すらも、神の望まれたことなのだがな……。


 くちびるだけで苦笑しながら、魔王ルシファーは飛翔を続ける。


 人間の始祖、アダムとイブを穢すため。

 今はまだ美しいだけの魂を、遠い未来に救うため。


 ルシファーは固い決意を胸に秘め、ひたすらに地球を目指して上へうえへと翼を駆った。


* * *


「ルシファーがこちらへ向こうている」


 ふと神のこぼしたつぶやきに、天界の空気が鳥肌だつ。黙りこんで次の言を待つ天使らに、サルシェンはげんに満ちた声音で告げる。


「お前たち、安心するが良い。ルシファーの考えは読めておる。おそらくはわらわの創りし美なる星、地球に住まう『人間』を堕落させんと思うておるのだ」


 さざ波めいてざわつく天使たちの群れに、神は説明を重ねてゆく。


 地球と楽園エデンの存在、新たな命『人間』のこと。禁じられた『知恵の実』のこと、ルシファーの企んでいよう誘惑のこと。


 ――ミカエルはかすかすに乾いた心地で、神の言葉を耳にした。


(もう知っている)

 そんなことは、堕ちる前のルシフェル兄さんから聞いた。そうして神よ、ぼくはお前が決して口にしない、その裏側の真実だって何もかも全て知っている!


 内心で神に悪態をつくミカエルに、かたわらのイエスが少し微笑む。


 ――気に食わない! こいつの笑顔が、何かと思わせぶりなそぶりが、こいつの全部が気に食わない!


 心の内で吼えながら、ミカエルが猛獣じみた目でイエスを睨む。そのことに気づいているのかいないのか、神はおごそかに言葉を重ねる。


「もちろんのこと、監視もつけよう、わらわがこの目にかけていよう。だが万一、人間が魔王に誘惑され、清い魂をけがしたとする。そうなった時、人間の魂を救わんとする者はおるだろうか?」


 ほぼ全ての天使たちが、『私がその任を負いましょう』とばかりに綺麗な口を開く。それをしぐさで留めておいて、神はことを紡いでゆく。


「人間の魂を救うためには、人間に殺されねばならぬ。救うべき人間たちの手にかかり、罪人として死なねばならぬ」


 天使たちが、すうっと静かに息を呑む。黙りこんだしもべたちに、神はあくまで表情を変えず、さくさく言葉を重ねてゆく。


「この天界から下界へくだり、人間として生まれ落ちる。そうして『大罪人』とされ、罵声を喰らい、拷問を受け、はりつけにされて殺される。我が愛しき天使たちよ、これが人間を救う手段だ」


 誰も言葉を発しない。

 ただ小さくのどを鳴らす音だけが、そちこちからかすかに響く。


「肉の器の死によって、人間の始祖の罪をあがなう……むろん、肉体が滅びようとも、魂は傷つかぬ。魂は再び、天界へ立ち返る。だが嘲笑と拷問と肉の死は、その者にすさまじい苦しみを……」


 神の言葉のしっぽが消える。一瞬ぎゅうっとひそめられた細い眉が、『その者の苦しみ』のむごさを語る。


「……その者は、その身をいけにえとして、大罪を人間の代わりにつぐなうのだ。それほどに酷い手段をとらなければ、知恵の実の罪は消えぬのだ……」


 中でも気の弱い者たちが、ぶるると羽をおののかせる。その身震いのかすかな音が、重なり連なり天界の空気を震わせる。……大天使ミカエルさえも気を呑まれ、神の口もとを凝視する。


「……誰かがその任を負わぬ限り、人間はいかなる善の者であろうと、死後にには行き着けぬ。おびただしい『人間たちの魂』は、永遠にこの天上にはたどり着くことが出来ぬのだ……」


 そこまで打ち明けておいて、神は何かを断ち切るように問いかける。


「――……さあ、誰かおらぬか。生贄のせき、人間のために負わんとする者は?」


 天界じゅうが死に切ったように静まり返る。その沈黙の中、天使の群れの内から()()と白い手が伸びた。


「自分が、その任を負いましょう」

 天界が一気にざわめいた。……いったい誰だ、慈悲の塊のごときそのひとは?


 天使の目はいっせいに声の主にそそがれ、次の瞬間湧きこぼつ水さながらにどよめいた。


「……イエス様だ」

「神の御子、イエス様……!」

「……信じがたい、このようなお役目をお望みに……! さすがは『慈悲の御子』イエス様……!」


 本心からの天使の賛美のささやきが、灼けつくように耳を貫く、じくじく精神こころをむしばんでいく。ミカエルはぎちぎちとくちびるを噛みしめ、叫び出しそうな自分を堪える。


 は、くだらない。確かにちょっと驚いたけど、いっときの肉体の死が何だ? 拷問と嘲笑が何だっていうんだ? 兄さんは、地獄の兄さんはもっとずっと……、


「受けてくれるか、わらわの愛するかみおと……」


 神が慈しみをこめたしぐさで、進み出たイエスのほおをぜてやる。イエスは静かにうなずいて、ほんの少し微笑した。


 ――ああ、ああ、いつだってお前だ。

 神に愛され、天使みんなに尊ばれ、今だって『未来の一時の苦しみ』と引きかえに、敬意に満ちた賛美のまなざしを一身に浴びて……そうして今この時、地獄に生きる兄さんは……!


 ――そうして、このぼくは何なんだ?

 この平和な天界にいて、きたない想いで腹の中をいっぱいにして、のうのう生きて、兄さんのために何にもできない、このぼくは……、


 のどがひくつき、ぎゅうっと醜い音を立てる。

 ああ、すごく苦しい。気持ち悪い。おなかの中に吐くものなんてないっていうのに、体が何かを噴き出そうとえずいている……。


 無意識に前かがみになる息子の肩に、神が静かに手をかける。


「ミカエル、顔色が良くないぞ。部屋にさがって休むと良い……」


 ミカエルは他になすすべもなく、口もとを押さえながらうなずいた。天界じゅうに満ちみちる、イエスを賛美する天使の歌が、耳にしつこく絡みつく。


 違う。

 違う。

 本当に賛美されるべきは、人間のためにその身どころか魂さえもなげうった、清く美しく優しいひとは。


(今お前たちが憎んでいる、魔王ルシファーそのひとなんだ……!)


 言葉はのどまで出かかって、重いえずきにもつれて消えた。ルシファーに科せられた口づけのいんが、まだくちびるに残っている。


(誰にも、明かすな)――。

 その烙印のような感触が、他ならぬ兄そのひとの望みが、真実を言わせてはくれなかった。


 ミカエルはふらつく足取りで、悪夢の中を進むように()()()()と己の部屋に向かう。部屋に近づけば近づくほど、吐き気はゆっくり収まってゆく。その代わりに、とろりと眠気がせり上がる。まるで何かのやまいさながら、眠気が意識を覆ってゆく。


 部屋に戻った瞬間に、ミカエルは床にがっくりひざをついた。倒れ込むほおに、床が冷たい。


(眠い)

 何なんだろう、信じられないくらい眠い。自分の体が、自分のものじゃないみたいだ。


 まぶたを無理やり開きつつ、溶けそうに重い体を持ち上げる。何よりの『再会の可能性』に、今さら気がついたのだ。


「……こんなことしてる場合じゃ、ないや。会わなきゃ。にい、さんに……」


 今なら、会える。

 ぼくは地球も、楽園エデンの場所も知らないけれど。どうにかして、神からそれを聞き出して、楽園で待っていれば、絶対、もう一度、会えるから……。


 ミカエルのほおに微笑が浮かぶ。今しも死ぬる者のごとく、ぼんやりとした微笑みが。そしてそのまま、床の上に崩れ落ち、あとはもう何も分からなくなる。


 ……夢を見た。

 淡く桃色に色づいた、もろもろともろい夢の中で、兄にまみえたような気がした。

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