変貌と再会
どのくらいそのままでいただろう。動けずに、何も考えられずに……。
大地に生じた巨大な裂け目は、あとかたもなく消えていた。戦いなど、赤い悪夢など、初めから起こらなかったみたいに。
裂け目の閉じた土の上には草が萌え、またたく間にとりどりの花が咲き誇る。花は甘い香りを放ち、そよかな風がふうわり香りを運んでゆく。
見開いた金色の両の目に、そのさまは美とも映らない。輝くような黄金色だったその髪は、兄の堕天の一瞬でもうすっかり色が抜け、白銀色に変じている。
「……よくやった、ミカエル」
優しい手つきで肩に触れられ、天使はゆるゆるとふり返る。
神がいた。泣き出しそうな微笑を浮かべて……炎色の髪はほつれて、羽は一枚も出ていない。
「ミカエル、お前に戦功のほうびをやろう。新しい部屋だ。気に入ってくれると良いが」
「…………っ」
神の言葉に、ミカエルはがっくりとうなずいた。頭が白く灼けている。何ひとつまともに考えられない。ふらふらと立ち上がり、ただ神の後ろについてゆく。
赤いアネモネの園のほとりに、新しい部屋の扉はあった。そこで初めてミカエルの内に、淡い感情が蘇る。
(……何だか、嫌だ)
赤いアネモネは好きだけど、なんだかこれは、『青いケシの花園』を思わせる。その青い花園のほとり、兄さんの部屋を思わせる。
青いケシ。
赤いアネモネ。
まるきり反対の色の対比が、兄さんへの皮肉みたいだ……。
ゆっくり己を取り戻してゆくミカエルに、サルシェンが気後れしたような笑みを浮かべる。部屋の扉を指し示し、かぼそい声でこう告げる。
「……入るが良い、大天使長ミカエルよ」
その言の葉に鳥肌が立つ。ぶん殴られたように意識が叩き起こされる。
『大天使長』!
嫌だ、その名とその響き。耳にうるさい、いまいましい。その役目は、本当なら兄さんひとりのものなのに!
心の内で悲鳴混じりに叫びつつ、ミカエルは部屋の戸を開ける。
……何だ、今まで使っていた部屋とほとんど一緒じゃないか。ベッドがひとつと書き物机、小さな本棚、描きかけのキャンバス……何枚か壁を飾っている、ぼくの描いた風景画。
違うのは、正面の壁一面にでかでかと広がる鏡だけ。
は、そんなもん興味もないや! これが『兄さんを地獄へ追いやったごほうび』か? どうしてこんな巨きな鏡……!
内心で吐き捨てる自分の姿が、鏡の上で歪み出す……ゆらゆら酔うように歪んで揺らいで変わっていって、しまいに真っ黒な水面にたゆたう亡骸じみた姿が映る。
「に……兄さん!?」
思わず大きな声を上げ、ひしと鏡にすがりつく。鏡に映るは、あまりにも変わり果てた兄の姿。
傷跡だらけのその体、ひたいから突き出た二本のねじれた金の角。背中に生えた十二の翼はミカエルがかつて目にしたこともない、薄くて黒い奇怪なものに変じている。
「兄さん……にいさん!」
もつれほつれる呼びかけに、ルシファーはぴくりとも動かない。鏡は再び揺らぎ出し、いつしか取り乱すミカエルと、となりの神とを映し出した。
「ミカエル、これこそ『天界と地獄とを結ぶ鏡』だ。お前と兄とが望み合うたら、互いの姿を鏡に映せる……語り合うことも出来るのだ」
生殺しの希望の欠片に、心が芯からぐしゃぐしゃになる。何も言わず、何も言えずに、ただただ神の顔を見つめる。
「今はまだ、ルシファーの方が見られることを望んでいない。しばし休め、ミカエルよ。そのうちに兄がお前に見えんことを望んだら……ふたりでゆるりと、語るが良いぞ……」
終わりにくっと声を詰まらせ、神は痛みを堪えるように微笑んだ。部屋を去る神を追おうともせず、ミカエルはなおも鏡にすがりつく。
「兄さん……兄さん! にぃさん……にぃさああん……!」
声はみるみるかすれて潤んで、やがて悲痛な嗚咽に変わる。のどが痛い、胸が熱い、熱くて寒くて吐きそうにえぐい何かが詰まって、それが目からだくだくあふれて止まらない。
それをなだめてくれる右の手は、もう天上のどこにもないと。知りながら、それでも鏡を手の跡だらけにして、泣いて、泣いて、泣き続けた。
* * *
泥のような目覚めだった。
(――痛い)
体が、心が、痛くていたくていたくて痛い。
ルシファーは崩れ落ちそうになる五体を、無理やりに真っ黒な水面の上に持ち上げた。浅いあさい水鏡に、今の己の姿が映る。
あの黄金の長い髪は、茶色の短髪と化している。青白く色あせたひたいからは、ねじれた金の角飾りが生えている。身にまとう鎧も漆黒に変じ、まがまがしく妙な紋様が刻まれて……、
その美しい顔立ちには、べったりと暗い憂鬱が浮いている。己の姿に思わずおののいた羽すらも、前とは似ても似つかない。黒く薄いビロードのようなその翼は、地球で目にしたコウモリのそれ同然だった。
「傷跡が……」
つぶやきながら、ルシファーは胸もとの傷に手を添える。
『傷など残らぬ』天使の体に、無数の傷跡がついている。堕天の証ということだろうか。雷にやられた両目の跡が特にひどい。
でも、雷のつけた傷なんかどうでも良い。ミカエルにつけられた刀傷だけ、名残のように愛おしい。
(ミカエル……)
弟の表情が、胸から消えない。最後に聴いたあの叫びが、胸をちりちり灼き焦がす。ふりきるように長く大きく息をつき、ルシファーは周りに倒れる『仲間』たちへ呼びかけた。
「いつまで眠り呆けているのだ、同志たち! 目覚めよ、しかして立ち上がれ! 耳をそばだてて聞くが良い! 我らの敵に、全知の神に、復讐する手立てがあるのだ!」
絶望に溺れていた堕天使たちが、ざわざわと色めきたって身を起こす。
彼らの身にまとう天衣は、清い白からべたべたの黒へと変じている。羽まで黒いその姿、『堕天使』という形容が情けないくらい良く似合う。
期待と疑いが半々の目で見つめられ、ここぞとばかりに魔王は声を張り上げた。
「我らの敗因は、あの恐るべき雷だ! 雷を奪わぬ限り勝利は望めぬ! だがあの陰険なる神は、決して己の武器を手放さぬに違いない!」
あからさまな完全敗北宣言に、堕天使たちがどよめいた。
(頼りにならぬ将を討ち、この私が神へ再戦を果たそうか――!)
中でも気の短い輩が、そう言いたげに剣の柄へ手をかける。魔王は赤い口もとを歪め、ふふっと小さく笑ってみせた。
「そう早まるな、同志達。確かに神は強大だ……あくまで武力で立ち向かう場合には! しかし、しかしだ! 果たしてあれだけ歪みくさった敵を相手に、正面から戦ってやる義務があろうか?」
聴き手のどよめきに疑問が混じる。ルシファーは己の胸に芝居めかして手を置いて、自嘲を含んだ笑みを浮かべた。
「ああ、そうだ! 我らとて今は清いばかりの天使ではない、穢れた誇りをその身にまとった堕天使だ! 卑劣な敵には卑劣な手口を持ってして、一矢報いてやろうでないか!」
疑問の絡んだどよめきが、希望混じりのざわめきへと変じてゆく。思い通りの反応に、心が凍えてゆくようで……それに気づかぬふりをして、魔王は右手を大きく上げる。
地球のこと、楽園のこと、『人間』のことをオペラのように語り連ねる。堕天使の群れは今やざわめくのも忘れ、らんらんと目を輝かせ、魔王の言葉に聞き入っている。
(次はいったい何を言う? その口から予想もつかぬ、どんな話をしてくれる?)
……お前たちは『眠る前に親に話をねだる子ども』か? ああ、何て分かりやすい奴らなんだ、ため息が出そうだ、でも演じる、演じなくては。ルシファーは吐息を呑み込んで、なおさら声を張り上げる。
清いだけの人間のこと、彼らを神が愛していること。その人間を穢したら、神は当然ひどく哀しみ、ある意味で復讐がかなうだろうと……。
「さよう、復讐など容易い! 楽園のリンゴは罪の果実だ、食えば人間は知恵をつけ、その清さは崩れ去る! 喜べ、諸君! 我らの味わった屈辱は、たったひとつの熟れたリンゴで報われるのだ!」
あっけなく湧き上がる大歓声に、絶望の上塗りをされたよう。
ああ、あまりにも愚かな奴ら。口先だけの軍将の、その本意にも気づかずに。善なるものを害することに、欠片の疑問も抱かないのか……。
「……地球へ出向く役目は、我ひとりが引き受ける。大軍で動けば、無駄にあちらの目につこう。出発は数日の後、これより永く住まうこととなる、地獄がいくらか整備された後とする……」
目もくらむほどの疲労に憑かれ、もう演技すら難しくなる。そんな魔王を、堕天使たちは寄ってたかって賛美する。すさんだ希望に酔いしれて、将の変化にも気づかぬらしい。
せめて、地獄でのなぐさみに。わたしの住まいを、美しい貝の外観にしよう……ルシファーは闇の力で貝の幻影を浮かばせて、建築師らにその美を伝える。
建築師らは天の……否、今は魔の力で、またたくまに新たな宮殿を築き上げた。
出来上がった宮殿に、放つ言葉がのどから消える。これを建てた者たちに、何と言葉をかければ良い? いったい何をどうしたら、あの美しいモチーフからこんな建物を造り出すことが出来るのか。
その宮殿の外観は、毒々しいトゲをまとった巨大な巻き貝。しかも壁一面に七色の彩がぬらぬらと……真珠貝の内側の輝きをまねたらしいが、ぬたぬたいやらしい輝きは、貝とは似ても似つかない。
「いかがですか、魔王様?」
「む……」
ルシファーは崩れた笑みを無理やり浮かべ、「気に入った」と大嘘を吐く。建物内部へ足を踏み入れ、思わずぎゅうっと顔をしかめる。
『悪趣味』という言の葉を、そのまま形にしたようだ。金銀で塗りたくられた内装に、他の堕天使が『美しい』を連呼する。魔の宮殿の内部には、至る所に純金製のどくろがしつらえられていた。
ああ、あの花がなつかしい。天界に咲き乱れていた、あの青いケシの花畑、あの澄みきった美しさが、なつかしい……。
「……少し、部屋で羽を休める」
打ちひしがれた魔王はそれだけ言い残し、『己の居室』へ身をひそめた。
「……ここはここで、また最低の最悪だ!」
部屋じゅうで光る金のてかりに目を射られ、ルシファーが思わず悲鳴を上げる。汚物で出来たでかい蠅でも追うように、さっと大きく利き手を振るう。
と、見る間に部屋の様子は一変した。ベッドと机、立ち並ぶは書棚ばかりのごくシンプルな造りとなった。
「……良し、これでいい」
本当に、せめて自室の趣味だけは、天界でのわたしのままでもいいだろう……。
そう思ったことでようやく、いくらか安らかな吐息がつけた。それから数回まばたいて、壁の一辺に確かめるように手を触れる。
「この鏡だけは……消えないのか?」
壁の一面を覆い尽くす、巨大な鏡。
本当はこの鏡こそ、何より先に消し去りたいものだった。醜く歪んだ今の自分の姿なぞ、まじまじ見たいものではない。
「……おかしいな。建築師たちのしつらえに、わたしの力が及ばぬはずはないのだが……」
言葉に合わせてぬらぬら動くくちびるが、今の心情になおさらの後押しをしてくれる。
(ほら、鏡に映る生き物は、まぎれもないお前の姿だ)
赤いあかいくちびるは、そう嘲っているようにも見えた。鏡ごしの己としばし目を合わせ、合わせていると肩から力が抜けてゆく。……気を張っていからせていた肩から全ての力が抜けて、残ったこいつは何者だろう?
「醜いな……」
腹の底からつぶやくと、ほおに歪んだ微笑が浮かぶ。
(魂の善なるものは美しい。たとえ見た目がどれほど歪んでいようとも)
昔から、ずっとそう思っていた。
けれど今の自分は、『己の清さ』にすら絶対の自信を持てないのだ。内に秘めた深い理由があろうとも、自分が神に『反逆』したのは逃れようのない事実だから。
「……会いたい」
もう一度、我が弟のミカエルに。
あの清らで美しい姿、今一度この瞳へと映せたら。
ルシファーは深くうつむき、きつくくちびるを噛みしめる。その耳に、ふと苦しげな嗚咽が届く。驚いて目を上げた時、鏡には泣きじゃくる弟の姿が映っていた。
「ミ……ミカエル!?」
「にぃ……さん……?」
魔王の声に、ミカエルが涙まみれの顔を上げる。歪みにゆがんだ泣き顔が、嬉し涙になおさらくしゃくしゃ崩れていく。
「兄さん……また、また会えたね、兄さん……」
「ミカエル、本当にミカエルか! 幻ではないのだな!? ……しかし、しかしどうして、こんな奇跡のようなことが……?」
ぐずぐずに崩れた顔と声音で、ミカエルが兄の疑問の種明かしをする。
「か、神が……これは『地獄と天界を結ぶ、鏡』だって……この鏡、ぼくの新しい部屋に……お互いに望み合えば、兄さんとぼくと、鏡ごしに、会えるって……」
ミカエルは涙で顔をぐしゃぐしゃにして、切れぎれの声で説明した。至上の悲哀のためか、再会の喜びの故か、ひきつけたように肩が揺れる。
「……泣くな。泣かないでくれ、ミカエル」
ルシファーは鏡ごしに、青白い指先をすべらせた。弟の涙を拭うそぶりのその指は、硝子に阻まれつっと流れた。
「お前は、綺麗だな……白銀と化したその髪も、涙にくれるその顔も……」
しみじみとつぶやいた兄の言葉に、ミカエルの涙がせき止まる。
「――兄さんの方が綺麗だよ」
真顔でつぶやいたミカエルの目に、また新しく涙があふれた。
「大きな嘘を抱え込んで、何にも知らないふりをして、お綺麗な天使の立場にあぐらをかいてる、ぼくなんかより……」
兄さんの方が。
全部ぜんぶ、その胸の内に秘めたまま、絶対の悪役を演じている優しい兄さんの方が。
「ずっと、ずっと、綺麗だよ……!」
言葉にならない本心までも、魔王の心へ沁みてゆく。ああ、もう駄目だ、もうだめだ……、
堪えにこらえた瞳から、ぼろっと、塩辛い熱があふれた。傷だらけのほおをでこぼこに伝い、熱いしずくがしたたり落ちる。流れながれてくちびるへ伝い、のどの奥まで塩味がして……、
もう誰も止めない、止められない。今はその姿を違えてしまった天の双子は、子どものように泣きじゃくった。お互いにお互いの手をひたと合わせて、映し絵のごとく泣きじゃくった。
――同じ大きさの手と手とを、握ることすら出来ないままに。




