危機を脱した。
近づいてきたのは、紺色の宮中侍従のお仕着せを着た若い男だった。
肩までの栗色の髪を衣装と同色のリボンでまとめてある。
見栄えはそこそこだが、攻略対象ではない。それだけはしっかりと確認する。
「アメリア嬢、お待たせしてすみませんね。」
そう言ってアメリアの肩を抱く。どこかで見たような気がするが、たぶん初対面で名前も知らない相手だ。
グレイの瞳が笑みの形になるが、その視線はどこか探るようだ。
そそくさとふくよかなご婦人は立ち去っていく。
「それでアメリア嬢、どの本がご所望ですか?」
そう言いながら、アメリアの手を取ろうとする。
とっさに振り払うとアメリアはキッと表情を引き締めた。
「あの、お名前をお聞かせ願えますか。助けていただいたのは感謝いたしますが、お名前も知らない方とあまり親しくするのもどうかと思いますわ。」
相手はにっこりと笑う。
「それなら、名を教えれば親しくなっていただけるというわけですか?」
そう返されて思わずアメリアはどぎまぎする。
「私は親しくなりたいのですよ。貴女の父上、アガサ男爵の手腕を拝見いたしまして、ぜひお近づきになりたいと思っておりました。」
アメリアの父親が起こしたささやかな事業のことだろうか。
それなりに儲けているので、その利潤にあずかりたいと思うのはありそうだけれど。
「それで、どの本をとるのですか?」
ついでにとアメリアは一番分厚い神話大全を頼んだ。
「随分と難しそうな本を読むのですね。」
こちらの世界では読書くらいしか娯楽がない。一応観劇やコンサートなどもあるが、デビュタントを終えていない女性が通うことは許されない。
最近デビュタントを終えたばかりのアメリアにそうした場所に行く機会は全くなかった。
「私はブラウン男爵家のものですよ。長男のスティーブン見ての通り王宮で侍従をしております」
王宮内で役職に就くには最低でも男爵程度の爵位がいる。
最下層の下っ端仕事、ゴミ捨てのような仕事はさすがに平民だが、それでも身分の保証は必要なので裕福な商家出身の人間が、便所掃除にいそしむこともある。
そんな仕事でも王宮に勤めている身内がいるというのはそれなりのステイタスなのだ。
王宮侍従、そういえば王子様が出てくる時、背景にこんな容姿の人間がいたような気がする。
ドアの前に突っ立ったままだったけど。
ようやく記憶がつながって一安心といった顔をするアメリアを怪訝そうな顔をしてみている。
「最近では、その事業で、カドミウム公爵と取引をなさったとか」
思い出した、カドミウム公爵は悪役令嬢ユーフェミアの実家だ。確か父親にアメリアを愛人として差し出せと言ってきたのだ。
そこに助けに入ったのが、第三王子ジョージ、そこから恋が始まって。
孫娘より若い娘を愛人にしようとするカドミウム公爵に対する不信がユーフェミアの不審へとつながるというイベントがあった気がする。
しかし、そのイベントはすでに潰れている。
なぜなら娘を愛人に差し出せなら一悶着だが、ケーキのレシピでそういう騒ぎを起こすことはまずないだろう。
やはり、これからも地道に生きろと神様はおっしゃっている。
「アメリア嬢、三日後は公休日なのですが、予定はございますか」
とにかくデートの約束を取り付けようとするブラウン男爵家の嫡男の言葉など耳に入っていなかった。