第八話 狂犬の牙
この時期に雪が降るのは、非常に珍しいことであった。
猟犬を連れて狩りに出ていたハーキュリーズ・ベルニスは、馬を止めると舞い降りる雪片を煩わしそうに振り払った。
「この季節に雪が降るとは、どういうことだ!」
彼が叫ぶと、周囲の騎士や従者たちは恐ろしそうに距離を取った。
七フィート(約二百十センチメートル)近い体躯を誇る巨漢のベルニス伯に殴られれば、それだけで歯や顎が砕ける。
下手をすれば命を落としかねないのだ。
「恐れながら、閣下。何日か前に、ウィンニールでも雪が降り出したと報告が入っておりました」
「それがどうした。ここは、ウィンニールではない」
ベルニス伯の機嫌が速やかに下降するのを見て、従者は口を閉ざした。
鞭を打たれなかっただけ、ましと言えるだろう。
「帰るぞ。吹雪になる前に城に戻る」
従者たちの間に、ほっとしたような空気が流れた。
その日は何故か獲物が少なく、ベルニス伯の機嫌は元々非常に悪かった。
下手をしたら、雪の中獲物を見つけるまで帰らないと言い出す可能性もあったのだ。
大人しく帰るというのは、彼らにとっても幸運であった。
「──待て、あれは、何だ」
馬首を巡らし、城に帰還しようとしたベルニス伯は、前方にかすかに瞬く光を見つけ、従者にただした。
「──火のようですが、旅人でしょうか」
「でしょうかだと。貴様のその首の上についているのは、飾りか何かか」
ベルニス伯が苛立たしげに鞭を振った。
従者たちは蜘蛛の子を散らすように走り去り、炎に向かった。
「旅人だと。こんな北辺の地を旅するとは、どうせヘルシンヴァル人の商人か何かだろうが」
ハーキュリーズ・ベルニスは、アンダイル部族の貴族の常としてヘルシンヴァル人が嫌いであった。
彼の領民は大抵ヘルシンヴァル人であったが、それが一層この巨漢の騎士を苛立たせた。
「ヘルシンヴァルの商人なら、狩りの獲物にはちょうどいいな」
「は──ひと狩り致しますか」
「ワインでも持っていればちょうどいいですな」
ベルニス伯の左右に控える二人の騎士が、追従の笑みを浮かべた。
ベルニス伯も鞭を従者に渡すと、弓を手に取り報告を待った。
暫くすると、前方で喧騒が起こった。
叫び声と、争闘の音が聞こえる。
ベルニス伯は馬の腹を蹴ると、炎に向かって前進した。
従者たちがもみ合っていたのは、商人などではなかった。
鎖帷子を着たれっきとした兵士だ。
こんなところに、何故兵がいるのか。
「メレディス・バンボロー。あれはどこの兵だ」
「はっ。金地に白い一角獣──あれは、ウィンニール家の紋章かと」
「ヘルシンヴァル人か」
ベルニス伯は侮蔑したかのように鼻を鳴らした。
「ヘルシンヴァル人がおれの領土で何をしているんだ」
「──閣下、あれを」
左に控えていた騎士、メレディス卿が炎の側で炙られる鹿肉を指差した。
それを見た瞬間、ベルニス伯の中で何かがぷちんと切れた。
「やつら、おれの森の鹿を狩りやがったか」
怒りのあまり、ベルニス伯の声は震えた。
今日の狩りが不調だったのは、彼の獲物を不当に奪っている者がいたせいだ。
「おい、貴様ら、おれの領土で、おれの鹿を狩り、おれの従者に手を挙げてただで済むとは思ってないよなあ、このヘルシンヴァル人め!」
馬の歩を進めたベルニス伯は、いきなり剣を抜くと、一番前にいた兵の頭蓋を叩き割った。
大剣をも片手で操るベルニス伯の膂力は、鉄の兜を容易く砕き、脳漿を飛び散らせた。
「ハーキュリーズ・ベルニスだ!」
「アンダイルの狂犬!」
兵士たちがざわめき、そして腰が引けた。
ベルニス伯は歯を剥き、更に剣を振り下ろした。
逃げようとした兵士が背中から斬り伏せられ、絶叫を上げた。
「何事だ!」
怒声が響き、天幕から騎士が現れた。
先頭の男は、ベルニス伯にも見覚えがあった。
ウィンニール公の騎士、ソルサ・オーバルだ。
「これは、ウィンニールの軟弱騎士のご登場か。何で貴様らが、おれの土地にいやがる」
「お前は王国に叛逆するつもりか、ベルニス伯」
静かに怒りを押し殺しつつ、ソルサ卿が剣を抜いた。
「これは、王女殿下の一行だ。お前は王女に剣を向けているんだぞ。気でも狂ったのか、アンダイルの狂犬」
「ヘルシンヴァルのやわな剣が、おれに通じるか、ソルサ・オーバル。だが、待て、王女だと?」
「そうだ。ウィンニールに王女殿下がご逗留されていることを知らなかったのか? お前は、王都に帰還する王女殿下の一行を襲ったのだ、狂犬。万死に値する愚行だ」
ベルニス伯を見上げるソルサ卿の瞳には、強烈な気迫がこもっていた。
だが、ベルニス伯はせせら笑うと、のしかかるように一歩踏み出した。
「ほう、じゃあ貴様がおれを殺すか? ソルサ・オーバル。貴様の軟弱な刃が、おれの筋肉を断てると思うなよ」
「やめんか、ベルニス伯!」
ソルサ卿の背後から、鋭い叱咤が飛んできた。
現れた老人も、ベルニス伯とは旧知の仲であった。
王家の近衛騎士、タキソス部族のアーサー・エーディングだ。
ヘルシンヴァル人には傲慢なベルニス伯も、国王を擁するタキソス部族の騎士には強くは出れなかった。
「アーサー卿、卿がヘルシンヴァル人なんかと一緒におられるとは」
「その口を閉じよ、ベルニス伯。そして、その大剣をしまうのだ。何故、こんなところでいさかいを起こしておる」
「こっちの科白だ、アーサー卿。何故卿らがおれの土地で、おれの鹿を狩る。ここは王都じゃない。おれの土地だ」
言葉では非難をしたが、ベルニス伯は大剣を納めて一歩下がった。
威圧が減じたのを感じ、ソルサ卿は密かに小さく息を吐いた。
「この鹿が貴方のものだというしるしでもありますか?」
不意に背後から気配を感じ、思わずベルニス伯は半回転して振り払った。
彼の拳を軽やかに回避すると、プラチナブロンドの髪の男が不敵に笑った。
「森のけものはすべからく森の神のもの。人の子が占有してよいものではありません」
「貴様、精霊の民かっ」
ヘルシンヴァル人すら侮蔑するベルニス伯にとって、精霊の民などもはや人間の範疇には入っていなかった。
再び激昂したベルニス伯は一度納めた大剣に手をかけるが、それを馬を寄せたメレディス・バンボロー卿が右手を掴んで止めた。
「お止めください、閣下。王女殿下と知って剣を抜けば、流石に刑罰を免れませぬぞ」
「ぐ──ぬぬ」
ベルニス伯は唸ったが、メレディス卿が正しいと認めざるを得なかった。
彼は唾を吐き捨てると、半精霊、アーサー卿、ソルサ卿と視線を移した。
「ふん、その面覚えておくぜ、貴様ら。このハーキュリーズ・ベルニスの名にかけて、いつか思い知らせてやるからな」
苛立たしげに鞭を振るうと、ベルニス伯は駆け去った。
「アンダイル部族は本当に頭がおかしいのか」
アーサー卿も、ベルニス伯の態度に憤懣やる方ない様子であった。
「あれで正常さ──狂犬だからな。狂っているのが普通なんだ」
ソルサ卿の言葉は、ベルニス伯に対する皮肉で満ちていた。




