第七話 雪中の野営
馬車は、南東へと向かっていた。
馬車に乗るのは、フルンディル王国の王女アシュリンとウィンニール公の公子イーヴァル、そして二人の侍女と従者である。
グレイシャルの陥落を知ったウィンニール公は、直ちに麾下の諸侯に動員をかけて熊人に対抗する決意を固めたが、同時に王女と息子を王都に派遣し、国王の援軍を要請することにした。
数千の規模の熊人の群れは、数万の軍団に匹敵するだろう。
北部の諸侯だけで対抗するのは、難しい事態である。
ここは、王国を挙げて立ち向かわないといけないところであろう。
王女だけを王都に戻すことを心配する息子を納得させるために、ウィンニール公は息子の同行も許した。
そして、ソルサ卿に彼の従士、イーヴァルの従者、そして十人の衛兵を付けたのである。
更には、急を知らせた二人の異邦人、エースティンとシェルヴェンも同行させていた。
ウィンニール公は二人に王への報告を依頼し、二人はそれを引き受けたのである。
ウィンニールはフルンディル王国のほぼ北端に位置しており、その南には山地が広がっていた。
南に向かう街道は南西と南東と二通りあり、イーヴァルは南西に向かいたかった。
南西の街道は山沿いから谷間を抜けて行くことになるが、基本的にヘルシンヴァル人の諸侯の土地である。
イーヴァルとしても安心できる旅路だと思っていたのだが、エースティンに反対された。
グレイシャルを襲った熊人がウィンニールに行かずに南下すれば、この街道に来ることになる。
エースティンはそれを警戒したのである。
結果として、南東に向かわざるを得なくなった。
ウィンニールの南東は、フルンディル人の占領地である。
フルンディル人の三大部族のうち、アンダイル部族がこの地に進出していた。
ヨークバラン公を旗頭とする諸侯が支配しており、ウィンニール公とはあまり仲はよくない。
イーヴァルとしては、好ましくない相手である。
「アンダイル部族には三人の公爵がいるけれど、ヨークバラン公はまだましな方よ」
「禿鷹と狐に比べれば、狸がましだと言っているようなものじゃないか」
「そうよ。禿鷹に比べれば、千倍ましよ」
「君の義母上の父親だろう」
「ええ。そして、わたしの命を狙っている」
国王の後妻は、アンダイル部族の雄、メルシャン公の娘である。
タキソス部族出身のフルンディル王が、アンダイル部族との連携を強化するために迎えたのがいまの王妃だ。
アシュリンの父は南部のユルト部族をまとめているが、タキソス部族、アンダイル部族に比べれば勢力は小さい。
それでも、先の王妃の時代はアンダイル部族の肩身は狭かった。
ユルト部族が宮廷でも幅を利かせ、アンダイル部族はないがしろにされていたのだ。
だが、王妃の交替とともに立場は逆転した。
いまや、王都で風を切って歩いているのはアンダイル部族である。
ユルト部族は南に逼塞し、アシュリンも家族の愛情を失った。
世はメルシャン公の時代となったが、アシュリンとイーヴァルの婚姻でユルト部族とヘルシンヴァル人が結びつけば、北と南からアンダイル部族が圧迫される危険性もある。
メルシャン公が、この婚姻を歓迎するはずがなかった。
「ヨークバラン公は温厚な人柄と言われているけれど、全く油断はできないわ。でも、公然とわたしを殺しはしない。大丈夫よ、イーヴ。彼が考えるのは、精々わたしをどう利用しようかくらいだわ」
イーヴァルは、王女の言葉にとても安心できないと言いたげに肩をすくめた。
この辺りの地域は、ヨークバラン公を旗頭とするベルニス伯の治める土地である。
狂犬と異名をとるベルニス伯は、地元のヘルシンヴァル人からは恐怖と憎悪をもって忌み嫌われている。
彼のヘルシンヴァル人嫌いは有名で、ヘルシンヴァル貴族に対して面前で侮辱や挑発を繰り返す男だ。
アーサー卿はともかく、ソルサ卿などと出会えば面倒な事態を起こしかねない。
イーヴァルにしてみれば、早足で通り抜けたい地であった。
だが、ウィンニールで降り出した雪の勢力圏からは、未だに脱出していない。
移動速度は、亀のように遅くならざるを得なかった。
「王女殿下、今夜は野営になりそうだとのことです」
馬車の御者から、侍女に伝言が回ってきたようだ。
先頭を行くアーサー卿が判断したのであろう。
北の原野は広大だが、その広さに対して住む人間は明らかに少なかった。
一日二日駆けた程度では、人家を目にすることはできないのだ。
馬車が止められ、兵たちは外で天幕の準備を始めた。
イーヴァルの従者と王女の侍女も馬車の外に降り、食事の準備を行っていた。
「ちょっと外に出てくるよ」
傷を負ってからろくに動いてなかったイーヴァルは、強ばった筋肉をほぐそうと考えた。
「寒いのに物好きね」
「ヘルシンヴァル人は、この程度の寒さは冬とは言わないんだ。まだ外に出られるしね」
「フルンディル人は寒さに弱いのよ」
「ベルニス伯は例外のようだな」
「アンダイルの連中はおかしいのよ」
「そうだね」
馬車の扉を開けると、イーヴァルは振り向いて笑顔を作った。
「アンダイル部族は大抵おかしい。隣人にはしたくないやつらさ」
外に出たイーヴァルは、手を上げて大きく伸びをした。
ここ数日寝台で寝るか馬車に座っているかだったのだ。
ようやく体を動かすと、固まっていた体に血が流れ出すのを感じ取れた。
鹿の焼ける匂いが漂ってきた。
シェルヴェンが仕留めてきた鹿である。
この半精霊は、信じられないほど目がよく、そして神業のような弓の腕を持っていた。
「こいつは、グレイシャルでも一矢で熊人を射殺した」
天幕の端で鹿の肉を焼いていたエースティンが、半精霊を指差した。
「こいつに殺された熊人は、三十体はいただろう」
「驚いたな。熊人の毛皮は硬い。わたしの刃は、やつの皮は切れたが肉は断てなかった。それを一矢で殺しただと?」
ソルサ卿は心底驚いていた。
その驚きは、実際に熊人と戦って歯が立たなかったイーヴァルも同じであった。
「エースティンの剣も、一撃で熊人の心臓を貫きました。彼も十体は屠っていましたよ」
「剣で!」
イーヴァルは少しふらつきながら彼らのもとに歩み寄った。
あの驚くべき獣を相手に接近戦で倒すとは、何と勇敢な剣士であろうか。
「ぼくの剣は、全く刃が立たなかった。どうやってあの巨体を貫いたんだ?」
エースティンは焼いていた鹿肉をイーヴァルに差し出すと、その思慮深い眼差しを公子に向けた。
「わたしはバドティビラ人だ。神秘に仕える者だ。だから、こういう真似もできる」
エースティンは剣を抜くと、その刃に沿って指を滑らせた。
すると、その刀身に奇妙な文字が輝き、いきなり剣が燃え始めた。
ソルサ卿は息を飲み、イーヴァルも目を丸くして立ちすくんだ。
魔法の炎──その力で、熊人の分厚い毛皮と筋肉を貫いたのか。
それでは、普通の剣では無理だということだろうか。
「お前とその半精霊の二人が揃っていて、それでもグレイシャルは落ちたのか」
いつもどこかに軽さを失わないソルサ卿が、暗く重い口調で言った。
「そうだ」
エースティンは火を消すと、剣を鞘に納めた。
「なすすべもなかった。逃げ出すことしか、できなかったんだ」




