第五話 グレイシャルの暴風雪
夕方から、吹雪が強くなってきた。
グレイシャルの大路には雪が膝丈ほども積もり、出歩く者もいない。
北の城壁に登ったエースティンは、外套の襟を合わせると白い息を吐いた。
もうすでに、十ヤード(約九メートル)先も見えない。
それでも、シェルヴェンの言葉を信じるなら、何千もの熊人が来るはずだ。
キリアン・グレイシャルに熊人への対策を進言したが、老いた公爵は全く半精霊の言葉を信用しようとはしなかった。
それでも、エースティンは密かに熊人がやってくると噂を流し、衛兵に警戒を強化させた。
噂を信じて船でグレイシャルを脱出した者は、目端のきく者であろう。
「逃げろと言いましたよね」
暗闇の中に、緑と金の妖瞳が輝いている。
エースティンはそちらを振り向きもせず、暗闇を見つめたまま答えた。
「お前こそ、グレイシャルに義理はないだろう、シェルヴェン」
「グレイシャルには義理はありません。ですが、貴方にはいささかの義理はあります、エースティン。そして、やつらを倒すのには、貴方の神秘の力がいるのです。熊人などではない、その後からやってくる恐ろしいものと。そのためには、こんなところで死んではなりません」
「死ぬ気はない──だが、グレイシャルを見捨てるわけにもいかん」
「グレイシャルのバドティビラ人の兵は何人ですか?」
「グレイシャル公には封土を持つ麾下の騎士はおらん。全て、交易による俸給を支給する兵だ。それも、常時いるのは千人ほどだ」
「数千の兵が押し寄せても、城門が破られなければ耐えられる数ではありますね。ですが、来るのは人間ではありません。わたしの見立てでは、城門はすぐにでも破られるでしょう」
シェルヴェンの冷静な予測にも、エースティンは揺るがなかった。
「それでもだ。命に代えてもグレイシャルを守るなんていう気はないが、見捨てて去るわけにもいかん」
「賢い選択ではありません」
シェルヴェンは首を振った。
そして、次第に強まる雪と風に、警戒の色を強めた。
「ですが、もう時間もありません。──やつらが、来ます」
半精霊の声と同時に、北からの風に乗って咆哮が聞こえてきた。
それも、ひとつやふたつではない。
数十、数百の咆哮が遠雷のように響き渡る。
「鐘を打て!」
衛兵たちは不安げに顔を見合わせていたが、エースティンの命令に我に返って走った。
たちまち、グレイシャルに敵襲を告げる鐘が鳴り響く。
城壁の上で、弓兵が矢をつがえるが、しかし視界が悪く熊人の視認は難しかった。
「来ますよ、エースティン。距離百ヤード(約九十メートル)」
その中で、シェルヴェンだけは熊人が見えているようであった。
精霊の弓を引き絞ると、ひょうと矢を放つ。
すると、咆哮に混ざって悲鳴が聞こえてきた。
「構え!」
エースティンが叫ぶと、弓兵は一斉に弓の弦を引いた。
その間にシェルヴェンはもう一度矢を放ち、更に悲鳴がひとつ上がる。
「距離五十(約四十五メートル)!」
「撃て!」
シェルヴェンの観測と同時に、エースティンが叫んだ。
衛兵たちの矢が、吹雪の中に吸い込まれていく。
強風に翻弄され、多くの矢は暗闇に消えただけで終わったが、幾つかの悲鳴は聞こえた。
シェルヴェンは連続して矢を放ち、更に二体の熊人を仕留めていたが、もはや地鳴りのような足音と震動は衛兵たちにもはっきりと伝わってきていた。
この程度の迎撃で、熊人の勢いは止められない。
それが、エースティンにも明瞭にわかった。
もう一射。
悲鳴の数は増えたが、地鳴りはもうすぐそこまで迫っていた。
咆哮に浮き足だった兵は、もう矢をつがえることも忘れ、逃げ腰になっている。
そして、殺到する熊人の姿が見えたとき、城壁の上の兵は我先に逃げ始めた。
「エースティン!」
シェルヴェンは神業のように矢を放ち続けているが、焼け石に水であった。
城門に轟音が響き、熊人がぶつかっているのがわかる。
長く持たないのは、明白であった。
「もう無理です、エースティン」
「わかっている」
いまから逃げようとしても、退路は海しかなかった。
船は逃げようとするバドティビラ人で一杯であろう。
どのみち、全員が乗れる船の数はない。
この半精霊を無駄に道連れにしてしまったな、とエースティンは思った。
「エースティン、異常な魔力が集まっています」
シェルヴェンの指摘と同時に、城門で凄まじい音が起こった。
巨大な氷柱が城門に突き刺さり、分厚い鉄の扉を破壊していた。
唸り声を上げながら熊人はねじ曲がった城門の隙間から閂を壊し、城内に雪崩れ込んでくる。
「シェルヴェン、あれはお前たちの使う力だな」
「精霊の民に氷の精霊使いはいません」
エースティンは剣を抜くと、刀身を指でなぞる。
すると、剣刃から燃え盛る炎が噴き出した。
「エースティン、行っても無駄ですよ」
「精霊使いを探して斬る。この騒動を惹き起こしているのは、そいつだろう」
「いえ、そいつはただの手先にすぎません。いま命を捨てて斬りに向かっても、意味はありません。ここは、逃げるべきです」
「逃げるといっても、もう船もないぞ」
「わたしが隠している船があります。ついてきてください」
エースティンは、何かをしたかった。
この異常な事態に対し、自分は及ばずながらも一矢を報いたのだという自己満足を得たかった。
だが、シェルヴェンは初めから最後まで、エースティンを助けるために動いていた。
本来、彼は一人でさっさと逃げていればよかったのだ。
エースティンの我が儘が、シェルヴェンの命まで危険に晒している。
強情なエースティンも、その半精霊の友情に折れざるを得なかった。
「わかった。行こう、シェルヴェン」
シェルヴェンは頷くと、城壁の階段に向けて走った。
走りながら、無造作に進行方向に矢を射る。
暗闇に吸い込まれた矢の先で、悲鳴と何かが倒れる音が起こった。
半精霊の目は、暗闇も吹雪もものともしないようだ。
再び、シェルヴェンの矢が放たれた。
だが、今度は接近してくる気配が複数あった。
剣の炎に照らされ、暗がりに毛むくじゃらの巨体が浮かび上がる。
獣の咆哮。
刹那に踏み込む。
手応えがあり、エースティンの剣は熊人の胸を貫いていた。
どさりと音がして、もう一体の熊人の眉間にシェルヴェンの矢が突き立っているのが見える。
「急ぎましょう。やつらはすぐに集まってきます」
足下には、熊人の死体だけではなく、引き裂かれた衛兵の亡骸もあった。
逃げ遅れた者もいたのだろう。
それは、自分の責任なのだ、とエースティンは思った。




