四つ.試練の日
「おはよう、片桐君」
僕はその日、意外な一言に朝から狐につままれたように瞬きを何度も繰り返した。
「片桐君?」
「へ? あ、う、うん。おはよう、湊川さん。どうしたの?」
朝、二日前から譲治と武士が湊川さんの家で集中的試験勉強で泊まりに行って、残った僕らは僕らで静かな勉強時間を過ごして迎えた試験当日の朝、朝食を食べようと食堂に下りてきたら、湊川さんがいた。
「あれを連れてきたのよ。ついでに私も朝食を摂りに早めに出たの」
湊川さんの視線が僕から外れて、いつもの僕らの食堂の席に向く。
「う〜ぁ〜……」
「ふぁああああぁぁぁ〜……」
机に突っ伏す譲治と豪快な欠伸と椅子に座って両腕を伸ばす武士がいた。
「ああ、戻ってきたんだ。でも、随分やつれてない?」
「普段やらないことを詰め込んだからでしょ。あんなに馬鹿な高校生、私は見たことなかったわよ」
続々と寮生が朝食を摂りに食堂に来る中で、譲治と武士は座って立ち上がれなくなったみたいに疲れきってた。どれだけ勉強されられたのかはしらないけど、相当みたいだ。
「大樹、おまたせ……あれ? 湊川さん?」
二人に近寄ろうとすると、背後からトイレに行っていた琢磨が湊川さんに気づく。
「おはよう、妹尾君」
「おはよう。珍しいね、朝からこんなところで会うなんて」
珍しいも何も、湊川さんが晴れてユースウォーカーズに所属を決めてから、まだ二日目。挨拶をするのは徐々に普通になってきたけど、まだ湊川さんは少し遠慮があるのか、少しだけ硬い。無理もないのは分かっているから、僕らは誰もいつもと何も変わらない接し方でいる。僕らだって正式にはまだ同好会として活動が認められたわけじゃないから、今は今日からの試験の為に、あまり遊んだりすることがなくて、みんなやっぱり譲治の始めたユースウォーカーズを楽しみにしてるのかもしれないって、僕も勉強を頑張った。結果が伴うかは分からないけど。
「ゆっくりするならこっちの方が良いと思ったのよ」
「譲治と武士、戻ってきたんだ。随分と苦労したんじゃないかい?」
琢磨はあの二人に勉強を教えることの難しさを一番知っているから、湊川さんに苦笑していた。
「別に私が手ほどきしたわけじゃないわ。私の家庭教師は相当苦労したみたいだけれど」
ああ、そうなんだ。やっぱり二日で中学レベルから高三レベルまで勉強を教えるのって、大変なんだろうな、あの二人を相手にだから。何だか湊川さんの家庭教師の人にはお疲れ様って言ってあげたいかも。
「それよりも僕らも早く朝ごはんにしようよ」
「そうね。まだ美紀や有美香は来てないのかしら?」
「あの二人はそろそろ来るだろうから、先に用意しておけば大丈夫さ」
僕らはとりあえず、いつもの席で燃え尽きている二人の分も、せめてもの労いとして朝食を摂りに列に並んだ。
「そう言えばなんだけど」
僕らの朝食は基本的に朝食はバイキング。メニューも特に際立つもののない、平凡で、でも慣れ親しんだ和と洋のメニューが二十種類くらい並んでる。
「どうしたの琢磨?」
僕と琢磨と湊川さんの三人で朝食を皿に載せていく。琢磨は和食を。僕と湊川さんは洋食を。後で譲治と武士の分も取らないと。
「どうして湊川さんがここで朝食を?」
琢磨のひょんな問いかけに、ウィンナーを掴もうとしていた湊川さんの手が止まった。
「な、何よ? 私が食堂で朝食を食べちゃ、い、いけないわけ?」
どうしてか、湊川さんは気まずそうと言うか、いよいよ来た、みたいな顔で僕らを見る。
「いや、別にウチの食堂は学園生なら朝食は自由だけど、別に家で食べた方が良くないかい?」
琢磨が僕に、ここのメニューは特出して味が良いわけでもない。朝は特に大量調理だからどこか機械的と言うか、決められた味しかしない。朝からそんなにガッツリ食べる生徒もいないしね。武士は別だけど。
「い、良いでしょっ。今日はこっちで食べてみたい気分だっただけよ。大体あの二人と一緒に朝食なんて嫌じゃない」
湊川さんの視線が譲治と武士に向く。
「あ、美紀と有美香も来たね」
譲治たちの所に美紀たちが来てた。譲治と武士の燃え尽きた姿に二人して何か言葉をかけてるけど、譲治たちには今は返す気力もないみたい。あんなに力尽きてる二人を見るのは初めてだ。
「でも大樹となら朝ごはんを食べても良いと?」
「んなっ!?」
「え?」
琢磨の言葉に湊川さんがびっくりして、また掴んだウィンナーが今度はお盆から落ちた。
「あっ……」
「良いよ。僕が拾うから」
床に落ちたウィンナーを拾ってゴミ箱に捨てて戻る。それにしても湊川さんもそんなミスをするなんてちょっと意外だった。
「ごめんね、片桐君」
「別に良いよ。良くあることだし」
主に武士が良くこぼすから、そんなに珍しいものじゃないし。フォローになってないか。
「事実っぽいね?」
琢磨が微笑ましいと言うか、少しおかしそうにそう言うと、湊川さんの顔が赤くなった。
「うっ、うるさいわねっ! 別にそれだけじゃないわよっ」
「どうかしましたか? 湊川さん」
「ぐっどもーにんぐですぅ、みなさんっ」
騒ぎを聞きつけて、いや、普通に朝食を取りに来た美紀と有美香が僕らの後ろから不思議そうに僕らを見る。ああ、どうしてこうもっとみんな湊川さんに普通に接してあげないんだろう。湊川さんって弄られるのが苦手みたいなのに。
「ごめんごめん、からかい過ぎたね。別に悪気があったわけじゃないよ」
周囲が少し喧騒に包まれてきたからか、琢磨があっさりと引き下がる。やっぱり緊張を解こうとしたんだって分かるけど、湊川さん、何だかすごく恥ずかしそう。
「私、決めたわ」
不意に湊川さんが琢磨に鋭い視線を向ける。
「妹尾君、私、金輪際あなたと口を利かないことにするわ」
「えぇ? どうしたの、湊川さん?」
いきなり琢磨との絶交宣言!?
「琢磨さん、何かご迷惑をお掛けしたんですか?」
「れでぃを虐めるのは、男の恥と知れっ、ですですよ」
そんな琢磨に、美紀と有美香は状況が良く分かっていないせいか、琢磨に非難がましい視線を向ける。
「あれ? いつの間にか僕は悪者かい? 今回の件では結構な功労をしたつもりなんだけど」
琢磨が湊川さんにそう言う。確かに決定打を持ちかけたのは琢磨だ。まさかあんなことをするなんて思ってなかったし、その効果は本当に大きいものだった。
「うっ」
湊川さんの足が琢磨の一言に止まる。
「僕なりのスキンシップのつもりだったんだけど。まだ緊張してるみたいだったから」
「琢磨、その辺にしときなよ。湊川さん困ってるよ」
「そうですよ。まだ慣れないことが多いだけなんですから」
それでも琢磨は面白そうに笑ってる。その半面で湊川さんは僕らに背を向けて、少しだけ考えた後に振り返った。
「じょっ、冗談に決まってるでしょっ! ……そ、その、一応、仲間……なんだから……」
虫の声みたいにどんどん声が小さくなり、湊川さんの顔が反比例に赤くなる。
「な、なによっ?」
「いや。ちゃんと自覚が出てるなぁって思っただけだよ」
やっぱり冗談だったんだ。ちょっとだけハラハラしたけど、問題はないみたい。やっぱりみんな仲良くが一番だしね。
「有美香。ウィンナーばかりじゃなくて、サラダもちゃんと取りなさい。大きくなれないわよ」
「ふわぁっ。そ、そんな食べられないですですよぉ」
恥ずかしいのか、湊川さんは楽しそうに朝食を取っていた有美香の皿に栄養がどうだこうだ言いながら、有美香を連れて先に歩いていった。
「やりすぎですよ、琢磨さん」
「ごめんごめん。でも、慣れるなら今のうちだと思っただけだよ」
「まぁ、そうかもね」
今日はいつも以上に静か。その理由は簡単。譲治と武士が燃え尽きてるから。だから琢磨は湊川さんに耐性をつけてもらおうとしたのかも。
「でも良かったね、大樹」
「何が?」
二人分の朝食を取りながら琢磨が隣で笑う。
「湊川さん、大樹のこと信用してるみたいだ」
「た、琢磨っ?」
「はははっ。さすがは大樹だよ。君はやっぱり優しいね」
笑いながら琢磨は先に戻るよ、と譲治と武士の分の朝食を運んでいった。
「もう、変なこと言わないでよ……」
顔が熱くなった。湊川さんが信用してくれてるって言われただけなのに、嬉しいような恥ずかしいような、嫌じゃないけど、とにかく全身に熱さを感じた。
「……美紀?」
「何ですか、大樹さん」
そして不意に感じる視線に振り返ると、美紀が僕を見てた。
「どうかした?」
「……何でもありません。私も先に戻ります」
「え? あ、美紀?」
いつもの調子なんだけど、ちょっと冷たくない? 僕何かしたかな?
「おぉ〜し、お前ら……いただきまーす……」
いつもなら譲治が音頭を取って僕らがあわせて食べ始めるんだけど、今日に限ってはほんとに疲れてるみたいで、口上が途中で終わった。
「ほんとやつれてるね、二人とも」
「おめぇの徹夜がどんだけ楽だったかよ……」
あんなに琢磨に徹夜させられた時は怒ってたのに、武士が琢磨に懐かしむように言った。琢磨の教え方もちょっと普通じゃなかったけど、それ以上だったんだ、湊川さんの家での勉強会って。
「馬鹿を天才の領域に連れて行くな……。紙一重ってのはな、薄っぺらいもんじゃねぇんだぞ」
譲治と武士が二人して盛大にため息を吐いた。
「とりあえずはちゃんと教えたんだから、試験中に寝たら許さないわよ」
湊川さんの忠告に、二人は自信なさげ、と言うか明らかに無理と主張してる目で、承諾の返事を小さく漏らした。
「はーおーっ! ってうおぉぅっ?」
朝食をいつも以上に落ち着いてみんなが食べていると、それを打ち破る威勢のいい声が響いて、驚きの声に変わった。
「あれあれぇ、いつもの元気はどーしたー? ほらほらほらほらっ」
今日は寝坊しなかったのか、上条さんが譲治と武士の燃え尽きっぷりにテンションを上げた。面白いものでも見つけたみたいに。
「何何々? 元気ないぞぉー? ボクシングの試合で燃え尽きたのかなぁ? 真白いよ? いつもみたいに、よしっ、カバディするかっ! って言わないのぉ?」
上条さんが遠慮なしに譲治の隣の空いていた席に座って、一人で譲治の真似をした。あんまり似てないよ。ってか、カバディなんかしたことないし。
「ほらほら、筋・筋・筋肉〜筋・筋・筋肉〜♪ っていつもみたいにあっっっつ苦しい筋肉音頭は踊らないのぉ?」
そんな音頭は武士でも踊ったことはないと思う。初耳だよ。
「ねぇねぇねぇ、大樹君、どったの、この二人?」
あ〜うぜぇ、とかちょっと音量下げろとか、譲治と武士の反応はいつも以上に暗い。上条さん的にはそこは元気良く非難して欲しい場所だったんだろうけど、今日はその元気が二人にはない。
「実はさ、今日から試験でしょ? 譲治と武士は湊川さんの家で勉強を教わってたんだ」
「この二人の馬鹿さにはうんざりしたけどね」
横目で二人を見ながら湊川さんは紅茶を啜った。やっぱり綺麗だなってその仕草に思った。
「何? 私に何か付いてる?」
「え? う、ううん。何でもないよ」
「そお? なら良いけど」
うっかり見入ってた。今まで近くにこういうよく出来た、と言うかお嬢様って感じの子と接したことがないから、すごいなぁって思う。前に湊川さんが言ってた通り、僕らの住む世界はこんなにも違うんだって改めて思う。それでも今は同じ仲間として友達なんだって気持ちが嬉しいけど。
「ふーん。でもでも、何で? この二人お馬鹿で有名じゃん。勉強する意味あるの〜? キャラ壊しても一発屋で消えてくだけだよ?」
いや、別に譲治と武士はキャラを変えてるわけじゃなくて、疲れてるだけなんだけど。それにお笑い芸人じゃないし。
「同好会の発足の最低条件に赤点があるんだよ」
「あー、そなんだ。大変だねぇ。ま、頑張りたまえよ」
「ちくしょー、人事だと思いやがって」
武士が少しずつ調子が出てきたのか、いつもみたいに舌打ちで返す。
「いやだなぁ人事だしぃ。毎日授業をちゃんと聞いてれば、テストなんて楽チン楽チン」
上条さんの一言に、僕らの意外そうな目が向く。皆が思ってることは恐らく共通してる。
「那美」
譲治が代表して上条さんを見る。
「はいはい?」
「お前、勉強出来たか?」
「でっきるわけないじゃーんっ。あっはははっ、譲ぴょんってば何言ってんの〜?」
そして上条さんはやっぱり上条さんなんだ。譲治の背中をバンバンと叩きながら上条さんだけやっぱりこの空気を読めていないというか、相変わらずのゴーイングマイウェイだ。
「おめぇな、そーゆことは勉強できる奴がゆーんだよ。大樹みたいなのがな」
武士が僕を売り込む。僕、そんなこと言った覚えないし、そんなに勉強出来るほうじゃないけどなぁ。
「えー、いーじゃん。あたし、眼鏡かけるとすっごい勉強出来るような気がするように見えないこともない子になるんだよ〜?」
「それって結局見えるだけで出来るわけじゃないでしょ?」
「はうわっ! 麗たんにつっこまれたっ!? って麗たんがなぜここにっ!?」
「誰が麗たんよ。それに気づくのが遅いでしょ」
上条さんの二重の驚きに、湊川さんは丁寧に二重の返事をした。
「麗たん、自宅通学じゃなかったですかネ?」
通学生で学食で朝食を食べるのは朝練で食べてこなかった生徒か、時間がなかった生徒。時間には余裕があるし、湊川さんは部活に入ってないから、上条さんが驚くのも無理はない。
「理由は聞いたでしょ?」
今僕が上条さんに話した。
「はいはい、きぃーたよ? でも、何で?」
「何が?」
上条さんの的を得ていない問いかけに、僕らの首も一様に同じ方向へ曲がる。
「譲ぴょんと武っちの勉強を見てたからこの灰コンビはイーとして、麗たんは別にここで食べなくてもいーんじゃない?」
二人を送ったついでに食べ損ねたって、それも説明したはずなんだけど、納得してなかったと言うか、上条さん、話聞いてなかったね……。
「別にそれだけじゃないわよ」
「え? 湊川さん、どう言うこと?」
僕の問いかけに、湊川さんがしまった、と表情を濁す。何か隠してる? やっぱり。
「そ、そのうち分かるわ」
だから今は言いたくない。湊川さんはそのまま有美香にちゃんと野菜を食べなさいとまた話をはぐらかせた。
「では兄さん、武士さん、試験頑張ってくださいね」
「ぐっじょぶですっ、お二人とも」
朝食は静かなものだった。物足りなさすらある。それは僕らだけじゃない。いつもの騒がしさがないせいか、他に朝食を食べにきていた寮生たちも時折僕らのことを見ていた。もうすっかり名物なのかもしれない。
「あたしは〜? あたしもやばやばなんだよぉ〜? あたしも応援してぇ〜ねぇねぇねぇ〜?」
一旦部屋に戻る美紀と有美香が寮の入り口で別れようとすると、上条さんもエールが欲しいのか有美香に抱きついた。
「ふぁぁっ! あ、あのあのあの……」
僕らは上条さんのことは良く知っているけど、有美香はついこの間まで僕らのことは美紀くらいしか知らなかったわけだから、急に上条さんに抱きつかれてびっくりしてた。
「上条先輩も頑張ってください」
「あいがとーみ〜ちゃんっ! あたしやる気バリバリボリだよっ。結果はどーせ変わんないけどねっ」
美紀のエールにわけの分からない笑顔を向ける。いつものことだから美紀も気にかけず、小さく笑った。どうしてこの人のやる気は勉強に向かないんだろう。
「ゆ〜ちゃんはぁ? あたしに構ってぇよぉ」
「ふぁふぁふぁっ!?」
すりすりすり。上条さんは人目もはばかることなく有美香の胸に頬摺りした。うわぁ、遠慮ないなぁ、ほんと。食堂から出てくる人が見てるのに。
「おぉ〜、ゆ〜ちゃんのおっぱいほにほにしてるぅ。良いねぇ、良いよぉ、那美ちゃんはこのおっぱい大好きかもぉ」
「あ、ああ、あああのののっ!」
頬擦りする上条さんに有美香はパニックを起こした。そりゃそうだよね。人前で自分のおっぱいのことを暴露されてるんだし。いけないいけない。僕は何を反応してるんだ。止めないと。
「上条さん、あなた先輩なんだからそう言うくだらないことは止めなさい」
「ほーい。麗たんがゆーならこれくらいにしとくぅ。おぉしっ、おっぱいパワーで試験頑張ろっと」
呆れたように、少し冷たい口調で湊川さんが言うと、上条さんは思いのほかあっさりと有美香から離れた。あぁ、何だろ。ちょっとだけ寂しいような羨ましいようなものを感じるかも。
「ゆみちゃん? どうかした?」
でも美紀はようやく解放されたのに、表情が沈んだ有美香の顔を覗きこむ。
「うぅ……私のおっぱいは下らないですですか……」
「おや、そっちに落ち込むんだ?」
琢磨も意外そうに小さく笑った。
「えっ? ち、違うわよっ。別にそう言う意味で言ったんじゃないのよ? ほんとよ?」
「はぅぅ〜、まだまだちっさいのです。ぺっちゃんこは分かってるです……」
なぜかどんどん有美香は落ち込んでいく。湊川さん的には、上条さんにそんなはしたない真似は止めなさいって意味で言ったと思うけど、受け取り方に誤解があったみたい。朝から譲治たちは静かなのに、やっぱり普通にはならないのかな、僕らって。
「あぁ、もぉっ。何でそう受け取るのよ、この子は……」
「いーけなんだ、いけなんだぁ。麗たん、後輩を虐めちゃ、めっだよ」
しかも今度は上条さんが囃し立ててるし。根源が調子に乗っちゃダメでしょ。
「なっ!? ちょっと、何で私のせいなのよっ! 元はといえばあなたのせいでしょっ?」
そして湊川さんが怒る。あぁ、何だろう、この感じ。これがこれからの日常に新しく加わるいつものことになりそうな気がしてくる。
「まぁまぁ、みんな落ち着いてよ。ここ、寮だよ? みんな見てるし、僕らも早く学校に行かないと」
結局僕が止めに入るしかないみたい。いい加減食堂から出られない人たちの目がちょっと痛くなってきたし、あんまり朝から騒いでると、
「お前らなぁ……」
ほら出た。
「大和さん、おはようございます」
「ミスター大和さん、ぐっどもーにんぐ〜ですぅ」
「おいっすっ! 寮監やまちゃん」
「ああ、おはようさん。美紀、有美香、那美。で、那美そのあだ名はセンスがねぇから止めろ。それからお前ら、朝から騒いでるとどうなるか分かってんのか?」
やっぱり大和さんはフェミニストだ。寮生の美紀と有美香と上条さんには爽やかイケメンに笑顔なのに、僕らを見る目は瞬間的に総長になってる。
「ん? 麗香もいるのか。珍しいな、今朝の組み合わせは」
「お、おはようございます」
湊川さんはまだ慣れてないせいか、この間の大和さんを見た記憶があるせいか、ちょっと体に力が入ってるかも。
「おう。あ、そうだ。麗香、お前の荷物午前中に実家の方から搬入って手配だが、部屋の方に運んでおいて良いのか? 一応相部屋の……もが?」
「〜〜〜〜〜っ!」
さっきまでうるさいと目で訴えられていた僕らが、今度は一様に静まり返る。目の前の光景が信じられないんだ。大和さんすらも呆気に取られた顔で見下ろしてる。
「どしたの麗たん?」
一様が見る先にいる人は、湊川さん。今まで見たことがないくらいに赤面して物凄い小刻みで首を振ってる。何かすごい。髪が揺れていい匂いがするけど、そんなことに気を取られることがないくらいに、湊川さんのその威容とも思える行動に、場が凍ってた。
「ちょっ、ちょっと、大和さん」
「ぉお? な、何だ?」
湊川さんは僕らのことを一回睨みつけるように威圧してから、大和さんをどこかへ連れて行った。
「どうしたのでしょうか、湊川さん?」
「ふぁ〜、大和さんもびっくりくりでしたよぉ」
「珍しいね、あんな顔の大和さんは」
「麗たんだいたーん」
「いや、そうじゃないと思うけど……」
僕らに、ついてくるなって言ってるように睨んできたし。ちょっと恐かった。
「あ、戻ってきた。麗たーん、どったの?」
「な、なんでもないわ。ほら早く学園に行きましょ。遅刻するわ」
戻ってきたかと思うと、湊川さんは今度はそそくさと逃げるように身を翻して出て行く。
「あ、ちょっぉと待ってよ麗た〜ん。あっちを置いてかないでぇ。あっ、大樹くん、美紀ぴょん、ゆみっち、琢磨君、あたしおっさきに行くねぇっ!」
待ってよ姉御ぉ〜、と後姿も絵になりそうな湊川さんのあとを上条さんが小走りで追いかけていった。ほんとにマイペースで風のように去っていく人だ。
「何だったんだろうね?」
「さぁ、何かあったようですけど……」
「大和さんに聞いてみれば分かると思いますですですよ」
有美香の一言に、戻ってきた大和さんに僕らの視線が集まる。
「大和さん、今湊川さんに何か言われました?」
琢磨が代表して聞く。眼鏡を上げながら。やっぱり変えたほうがいいような気もするけど、その仕草には雰囲気を感じた。
「まっ、そのうち分かるってことだ。ほら、お前らもさっさと支度して行け。試験前に少しくらいは勉強しとけ」
大和さんは湊川さんに何か口止めをされたのか、僕らをはぐらかすように先を急がせ、逆らうわけにも行かず僕らは従った。
「何か隠しているね、大和さんも知っているみたいだね?」
「そうですね。さしずめ湊川さんが私たちに知られたくないことを大和さんにも口止めしてるのでしょう。本人が知られたくないと言うのであれば、私たちが関与すべきことじゃありませんよ」
「そうだね。何かあれば湊川さんから教えてくれるだろうし」
素直に話してくれるかはまた別の話のような気もするんだけど。
「ではでは、いざ往かんっテストの地へ、ですですよっ」
妙に自信に溢れている有美香の一言に、僕らは湊川さんの不審な行動から、今日から三日間に渡って行われる、ユースウォーカーズ発足を左右する試験の始まる学園へと歩き始める。
「ゆみちゃん、今日は大丈夫そう?」
「はいなのですですよ。美紀のおかげで安心なのですっ」
まだ試験が始まったわけじゃないのに、有美香はこの数日間僕らの指導を熱心に受けた甲斐あってか、燃え尽きた譲治たちとは違って、燃え上がっていた。燃え尽きないといいけど。
「元気な有美香に比べて、あっちは何だろうねぇ?」
登校する生徒の中、いつもは先陣を切って歩く譲治と武士が、僕らの後ろに居た。
「……共通因数はない……因数分解の公式は使えない……最低次数の文字を整理して共通因数をくくりだす……わけわかんねぇ……ノリか? 分からねぇ時はノリで良いっつったよな……ちくしょぉ、こうなりゃあの手しかねぇのか……?」
「……舞姫って、何が良いんだ? ……女より仕事とって、俺にだって色々あんだよって話じゃないのか? ……未練がましい男の何が良いんだ? 分からん。俺には分からん……」
武士と譲治がぼそぼそと何か呟いてるけど、上手く聞き取れない。とりあえず今は関わらないほうが良いかもしれないって思う僕は正しいのかも。誰も後ろを振り返ろうとしないし。
「じゃあ、有美香。君はあまり熱くならないようにね。落ち着いて問題を読むんだよ」
「あいあむがってんですですっ。皆さんに教わったことをしかと発揮するですっ!」
琢磨の忠告にも有美香は意気込んでいた。まぁ元気があるから無理さえしなければ大丈夫だと思うけど。
「美紀は大丈夫だよね?」
「安心はしてませんよ。出来ることはちゃんとするだけです。大樹さんも気をつけて下さいね?」
「うん。分かってるよ」
琢磨は問題ないし、美紀も大丈夫。後は僕らがへまをしなければ、今週中にも同好会が発足する。今の目標はそれだけだ。
「じゃあ、みんな落ち着いていこうっ」
「はい」
「分かりましたですですっ」
「まぁ、譲治と武士は落ち着きすぎて寝ないことを祈るだけだね」
そうして僕らは昇降口を潜り、それぞれの教室へと別れた。みんなで始めて一つのことに向かって頑張ってきた、暫定だけどユースウォーカーズの最初の活動の結果が出るんだ。僕だっていつも以上に頑張った。だから信じよう。僕らは頑張れるし、頑張ったんだから、悪いことは何もない。その先に待ってるユースウォーカーズと言う形にもうすぐ手が届く。その思いにテスト前なのに、僕は緊張と言うよりも高揚の方が強かった。
一限目は現代文の試験だった。今日は現代文、数3、社会選択の午前三時間。
(そう言えば、舞姫とか出てきてないなぁ)
今朝譲治がうわ言の様に言っていたけど、どこにもそんな問題はなかった。
「ぐぉおおぉ〜……がぁぁぁ〜」
「…………」
始まって二十分と少し。まだ問題の半分くらいまでしか解いてないのに、僕の隣、と言うか武士から物凄いイビキが聞こえてきた。前で監視していた先生が立ち上がる。起こしたいけど試験中だから、僕にはどうすることも出来ない。
「寝るのは早いぞ」
「んがぁっ? ……う、んぁあ〜」
先生が武士の頭を持ち上げると、武士が起きた。やっぱり疲れてるのかな?
「……っ」
思わず笑いが出そうだった。咳に変えてごまかしたけど、武士の顔に解答用紙の答えが移ってた。せめて顔は腕で覆えば良いのに。ってか、うっすら反対に写ってる文字が、エイティーズって書いてある。どこにそんな答えをする質問あったっけ? 八十年代とかちょっと古いよ。
(琢磨は……相変わらずだね)
前の席に居る琢磨に顔を上げると、すまし顔で迷うことなくシャープペンが動いてる。さすがは琢磨って感じかな。みんなの勉強を見てても、夜遅くまで一人で頑張ってたし。あの時の琢磨の普通ってものが改めてそうなのかもって思った。
「ぐっ、がぁぁああ〜……」
静になったと思った瞬間だった。また武士が暫く舟を漕いだかと思ったらおんなじ姿勢でまた寝始めた。何人かの手が止まる音がした。結構武士のイビキはうるさい。何となくかもしれないけど、武士のイビキに誰かがため息を吐いた気がした。
「おい、吾妻」
「んぁ……」
またしても先生が起こしに来た。僕に注意は向いてないのに、僕も緊張する。おかげでなかなか進まないよ。
「問題はやってるのか?」
先生が武の解答用紙に目を向ける。
「おぅ……あがっ、こぉっ!」
先生の言葉を交わして再び武士が眠りに落ちた瞬間、教室内にゴンと音が響いて、武士の変な声が出た。
「おぉ〜〜〜いってぇ〜っ。ちくしょー誰だっこらっ!」
そして武士が叫んだ。その声に何人かの背中がびくっと跳ねた。僕もだけど。と言うか武士、寝ぼけてるよね? 自分から突っ伏して頭打ったじゃん。
「吾妻、お前はいい加減にしろ」
「あいってぇっ! 何しやがる?」
「今は試験中だ。黙って問題を解かんか」
「あぁん? っておぉ、そうだったそうだった」
「全く……」
武士の怒りは先生によって正当に鎮圧された。先生は物凄く面倒そうだったけど。
「……なぁ、大樹」
って、武士が試験中に話しかけてきた。びっくりもしたけど、それ以前の問題だ。心臓が一気に強くドクンってなった。ここはどうするべきなんだろう? 試験中だからカンニングと思われると二人とも危ないから無視するべきか、それとも消しゴム貸してくれとか、僕の方に何かが落ちたから拾ってくれとか、頼もうとしているから、ばれないようにこっそりと応対するべきか、先生が見てないなら大丈夫だとこっそり横を振り向くか、僕は悩んだ。問題を考える以上に。
「……な、なに?」
先生が教室の空気が淀み始めたのか、窓を開けて外を見ている隙に、僕はそっと横を向いた。もういつバレルか心臓がドキドキだ。
「……腹、減ったな」
「……へ?」
図体の大きな武士からは不相応なか細い声に、僕はそれを聞き取れなかった。
「……昼休み、一緒に飯、食おうな?」
何だろう、武士のか細い声は、これから死に戦に行こうとする戦士みたいに見えた。でも、その言葉はあまりにも下らなかった。
「……無事に終わったら、カツ丼、食おうな」
「…………」
なにその遺言。僕はカツ丼よりも今日はパンな気分だけど……って、そうじゃなくて。
「……それだけ?」
「……おう、約束だぜ」
って試験中に呼びつけておいてそれ? 今言わないといけないこと? 僕のドキドキは何だったの? 思わず突っ込みが声になりそうだったのを我慢する。
「ん?」
先生が振り返って、僕らはとっさに答案用紙に目を移した。武士の下らない呼びつけのせいで、僕の内心は無駄に緊張した。もぉ、そんなことなら休み時間で良いじゃん。武士のおかげで結局現代文の試験は最後まで解けなかった。一応赤点にならない様に埋められるところは埋めたけど、なんか物凄い時間を無駄にした気がした。
「ふぃ〜、終わった終わったぁ。なっ、大樹?」
次の数学の勉強をしようとしたら武士がガッと肩を組んできた。その終わったと言う意味が、別の意味じゃないことを、僕はこっそり祈った。
「次もあるんだから、勉強したら?」
ほとんどはトイレか教室で数学の勉強をしてる。僕もそうしないと結構危ない方だから、今は武士に構ってる暇はないんだけどな……。
「なぁに、数学なんざ数書きゃ当たるってもんだろ」
下手な鉄砲じゃないんだから。まぁ武士に言ったところでどうしようもないのは、言わないけど分かってるから、苦笑した。
「大樹、武士、順調か?」
とりあえず教科書を読み返してたら、今度は譲治がご機嫌な顔をして僕の机に座った。人の机に座らないで欲しいなぁ。
「そう言う譲治は機嫌良いね?」
朝とは別人、と言うか現代文の時は武士以上に落ち込んでたような気がする。
「現代文は元々最低限のことしかやってないからな。しかも次は数学だ。武士」
譲治は僕の隣で大きな欠伸を掻いていた武士を見る。
「んぁ?」
「俺はここでお前に格の違いを見せつけてやる。覚悟しておけ」
「あぁん? かくの違いだとぉ? へっ、甘ぇな、譲治。俺だってな、だてに麗香の家で寝てたわけじゃねぇぞ」
寝てたんだ。どおりで湊川さんは大変だったんだろうな。
「ほぉ? お前が俺に勝てるとでも?」
「たりめぇだろ。俺をなめんなよ?」
ぐぅ〜。
挑発的な譲治に武士は腹を鳴らす。いや、何でお腹をならすかな、ここで。鼻だよね、普通は。
「かくの違いなんてな、サインコサインタンジェントだろ? へっ、俺だって覚えてんだぞ。どうだ? びびったか?」
僕らは絶句した。物凄い自慢気に言う武士。格違いも良い所だよ、高校生なのに。
「……あぁ、びびったぜ。せいぜいそのままのお前で居てくれ」
譲治が諦めたみたいに武士の方を物凄く愁いを帯びた目をしながら叩いた。
「へっ、俺は進化を続ける男だぜ」
明後日の方にかな? 譲治と噛み合ってない話はさておき、
「次は譲治の得意分野だし、余裕だね?」
「ああ。ここで汚名を挽回してやる。悪いな大樹。俺はここで首一つ分は出るぞ」
あぁ、突っ込みどころ満載なんだけど、今はそれどころじゃないし、二人が何だか可哀想な気もしてきた。ここはそっとしておくって選択肢もありかもしれない。美紀とか湊川さんもきっとそうするだろうし。
「さて、戦が始まるぜ」
「おうよ。てめぇにゃ負けねぇぞ?」
「ふん、受けて立ってやろう」
チャイムが鳴って、僕らは自分の席に着く。何か二人は無駄に格好良く見えるけど、僕以上に傍観している人には、物凄く馬鹿にみえるんだろうなぁ。それより、試験なんだし他人を相手にするより、自分に負けないようにすることの方が大事だと思うんだけどなぁ。質問を受けていた琢磨は今度も涼しい表情で、僕らに振り返って、視線でエールを送ってきたから、僕は肯いておいた。
「何だよ、あいつは。俺たちを馬鹿にしてんのか、くそ」
武士には伝わらなかったけど。
「くっ……ちっ」
カランカランと机の上を鉛筆が転がる音と舌打ちが、試験が始まってからまだ五分も経ってないのに聞こえてくる、隣からだけ。
「……あぁ? ちっ」
カランカラン。また鉛筆が転がる音が聞こえてくる。それと舌打ち。
「……はぁ……ちっ」
無意識なんだろう。そうだと思いたくなる唸り。それと舌打ち。
「……うぁ? ……ぁあ……ぉぉ……ちっ」
(あぁっ、もぉっ!)
僕は心の中で叫んだ。さっきから武士が鉛筆を転がしてる。きっと分からないから鉛筆サイコロで数を適当に書いてるんだろうけど、それは別に良いんだ。他の人のカリカリと書いてる音と大して変わらないから良いんだけど、はっきりと聞こえてくる舌打ちと苦悩とため息は集中力をかき乱して仕方がない。それも僕だけかと思ったら、顔を上げたら、僕の方にもなぜか敵視するような痛い視線を感じた。僕は武士係りじゃないし、試験中だから注意とか出来ないのに。
「……これしかねぇな」
試験が半ばを過ぎた頃、不意に武士の小言が教室に響いた。
「どうかしたのか? 吾妻」
試験中に口を開くのは、何か問題があった時だけ。それ以外はカンニングを疑われてもおかしくない。だから僕はさっきからドキドキが止まらない。僕自身に疑いの火が飛ぶこともあるし、それ以上に今回の試験は同好会がかかってる。だから武士の一挙手一投足がほんとに心臓に悪い。
「…………」
武士の声に反応したさっきの先生とは別の先生が僕と武士の間に立つ。問題を解く振りをしながらも、やっぱり隣が気になる。耳を澄まして様子を伺う。
「…………」
武の手がさっきまで止まってばかりだったのに、急に何かに取り付かれたみたいに誰よりもカリカリカリと動く音が聞こえてくる。
「…………はぁ」
武士が急にどうしたのか気になるけど、隣を見るわけにも行かない。でも、先生がどこか切なそうなため息を吐いて、前に戻っていく音に、僕は一抹の不安を覚えた。
(譲治は……)
不意に譲治の方を見てみた。寝てた。武士みたいにいびきをかいてはないけど、うつぶせになって丸くなってた。きっと諦めたから寝てるんじゃなくて、することがなくなったから譲治は寝てるんだ。先生も起こす時に答案用紙を見て、また突っ伏した譲治を起こそうとしないし。
(何だろ、僕だけ何もないのって、むなしいなぁ)
譲治は理系科目は本当にずば抜けてる。勉強してる姿なんか見たことないのに、成績はいつも琢磨の上を行ってる。だからかな? 琢磨がさっきとは違ってちょくちょく体の鈍りを解くように譲治の方を振り返るような仕草をしながら、何度か消しゴムを使う仕草が見えた。
(結構ライバル視してるみたいだ)
琢磨の方がどう考えても頭が良いし、譲治もそれは認めてるのに琢磨は意外と負けず嫌いなのか、何だか少し面白い。
数学の試験は何となく僕らはいつもと少しだけ違う雰囲気で終わった。僕らはと言うか、僕は相変わらずだったけど。
「いよっしっ。終わったぜ」
「どうしたの武士? 何だか急にやる気になってたみたいだけど?」
最後の最後まで武士の手は止まることはなかった。おかげで僕も何だか触発されたみたいに後半からは変に力が入ってた。間違ってなければ良いけど。
「へへっ、ちょいと必殺技を使っただけだ」
武士が背伸びをしながらこれで赤点はねぇぞ、と普通にしても大きいのに、さらに熊が立ち上がったみたいに大きくなった。
「ほぉ? それで俺に勝てるつもりか?」
「当然だろ。おめぇに負けたんなら、俺は逆立ちで小便してやるよ」
「また下らないことを……」
琢磨が眼鏡を拭きながら僕の席に来た。どうして僕の席の周りに集まるんだろう。譲治とか琢磨の席の方が端だし良いと思うんだけど。
「琢磨は大丈夫だよね?」
「ん? まぁそうだね。小さなミスさえなければ大丈夫かな」
琢磨は謙遜しない。それに見合うだけの下地があるから不思議と違和感がない。
「譲治、君は相変わらずみたいだね?」
「当たり前だ。点数は稼ぐ時に稼ぐもんだ」
琢磨が眼鏡を中指でクイッと上げながら譲治を若干下から見る。そして譲治はそれを受け取るように少し首を傾げながらも目は少し上から余裕の笑みを浮かべた。
「ん? 何かピリリってんぞ?」
おっ? と武士は何かは感じたみたいだけど、それ以上は気づかなかった。意外と二人ともここでは競い合ってたんだ。とてもじゃないけど、僕が入り込めるものはどこにもなかった。
「次が最後だね」
次はそれぞれの社会の選択科目。琢磨と譲治は世界史で、僕と武士は地理。さっきまで出席番号順に座ってたけど、今度は選択科目ごとに席が替わる。
「よしお前ら。これが終われば昼飯だっ。最後まで気合抜くなよ」
その譲治が一番気合が入らない文系科目だと思うんだけど。
「おうよっ、大樹とカツ丼が待ってっからなっ」
僕は別に待ってないよ。まぁ結局みんなで学食で、その後は勉強会だろうけど。
「明日の方がもっときついから、あんまり気力を使い果たさないことだよ」
琢磨の言う通り、明日は古典、英語、理科選択。今日も大変だけど明日も大変だ。譲治と武士が気力を使い切らないといいけど。
「次は席が替わるぞ。早く席に着け」
入ってきた先生の一声で教室内で勉強していたみんなが教科書類を仕舞って席を移動した。長いようで今日はこれで授業が終わると言う、疲労と開放感がチャイムで緊張に変わった。
「……なぁ、大樹よ」
地理の試験は今日の科目の中では結構自信があった。ケアレスミスがなければ、僕の中では結構良い点数じゃないかと思う出来だった。
「どうしたの、武士? なんか浮かない顔だよ?」
案の定と言うか、武士の顔は疲れてた。数学に比べたら舌打ちの数はなかったけど、欠伸が多かった。
「俺ぁよ、日本人だ」
いきなり人種を宣言された。
「うん。僕もだよ」
いまいち意味が分からないから同じように返す。
「だよな」
「うん」
会話が終わる。えっ? 武士、一体僕に何を聞きたかったの?
「ねぇ、武士、それがどうかしたの?」
「あぁ……俺はよ、日本人だ。何で日本人の俺が米国やら仏国やら別世界を知る必要があんだよ」
こめこくにふつくにって……。アメリカとフランスって言えば良いのに。
「武士だってそのうち海外旅行とか仕事とか関係が出てくるかもしれないよ?」
「俺はこの町から出ない。死んでもなっ」
狭い。狭いよ、武士。いくらなんでもこの町から出ないのは逆に難しいと思う。
「そっ、そっか、頑張ってね」
「あぁ……って、去年の修学旅行に俺は東京に行ったじゃねぇかあぁっ!」
武士が頭を抱えて叫んだ。そう言えば去年の修学旅行は三泊で東京神奈川を行ったんだっけ。武士の誓いは誓う前に破られていた。
「うん、まぁ、出来る限り頑張れば良いと思うよ、たぶん」
この町に居るならそれでいいと思うし、出る機会があれば世界を知るのもありだと思うよ。今時そんなに閉塞的なものってないと思うし。
「なぁ……俺は思うことがある」
そして今度は譲治? 一人でため息を吐きながらまた僕の机に乗ってきた。もうお昼なのに、まだ学食に行かなくて良いのかな? と言うか、譲治はさっきの数学の時の元気さがなくなってる。やっぱり出来は悪かったみたい。
「どうしたの、譲治?」
きっと僕が話を聞かないといけないんだと、直感で感じた。琢磨も一緒に来たけど譲治は琢磨には話す気はないのか、琢磨も聞きだす気はないのか、僕の机の周りに集まるだけで、僕の言葉を待ってた。何か嫌だなぁ。僕はカウンセラーとか聞き上手とかじゃないのに。
「俺は常に前を向いて生きている」
譲治も断言した。どうしてみんな僕にそう言うことを言うんだろう。
「だから、俺は後ろは振り返らない」
「今、振り返ろうとしているのは、突っ込むだけ野暮だろうね?」
「当然だ。これは振り返るわけじゃない」
琢磨のツッコミにも譲治はすんなりと否定する。あぁ、でも僕には分かったよ。譲治、それは間違いなく振り返ろうとしてるよね?
「世界史ってのは、地球の昔話だ」
「違うんじゃないかな、ちょっと」
間違ってはないと思うけど、それはそれで大雑把過ぎるような気がする。
「つまりそれは既に過ぎたことだ」
「まぁ、そうだね」
琢磨の肯きも、どうやら僕と同じ考えみたいだ。とりあえず話は聞いてあげよう。僕と琢磨はアイコンタクトでそう語り合った。
「俺は前を向いて生きている」
「おめぇ、それ今さっき言ったぞ? もう忘れちまったのか? おめぇやっぱ馬鹿だろ?」
武士にまで突っ込まれる譲治。きっと武士は意味を分かってない。
「お前にだけは言われたくないぞ」
「んだとぉ? てめぇ、やんならやんぞ?」
ほら、やっぱり。
「まぁまぁ抑えて。それで譲治、結局何が言いたいの?」
あんまり長く教室に残ってると昼休みがなくなる。
「歴史はこの世界から消えてしまえば良いんだよ」
まぁそう言うだろうとは思ってたよ。ただ、譲治のことだから斜め上のことを言うんじゃないかと思って、ちょっとだけ期待してたから、思った以上に普通のふてくされに苦笑しか浮かばなかった。
「そう言う場合は、歴史が消えるより、発言者が世の中から消える方が簡単だと思う僕なんだけど?」
琢磨も想像内の返答に、ちょっと嗜虐心でも湧いたみたいにそう言う。
「なるほどな。そう言うことか。よし、ちょっと憂さ晴らしに飛んでみるか」
「え?」
譲治が不意に僕の机から飛び降りて、窓際に歩き出す。僕らは譲治の行動に首を傾げて顔を見合わせた。
「……大樹、今までありがとうな。お前のこと地味とか思ったけど、大好きだぜ」
譲治が僕に悟りの境地にでも達したように、愁いを帯びながらも力のない笑顔だった。
「ちょっ、譲治?」
僕の声にも譲治は背中で語るように片手を上げた。
「琢磨……お前とはソリが合いそうで微妙にずれてたな。でもな、お前のその頭脳ムカつくくらい羨ましかったぜ」
「それは褒め言葉として受け取っておくよ」
琢磨は僕と違って涼しい顔で眼鏡を上げた。レンズの奥にある瞳は不思議な力を放っているようにも見えた。
「武士……」
「んだよ? てめぇらしくねぇしおらしさだぜ」
そこは普通聞くところじゃないかな、武士?
「お前には……いや、やっぱ良い」
武士がゴクッと喉を鳴らして譲治の言葉を待つ。
「っておいっ! 俺にはねぇのかよっ! 何かあんだろがよっ」
武士がこけそうになりながら吠えた。欲しいんだ、譲治の言葉。
「しょーがねぇやつだな。なら武士」
「おう」
譲治の足が立ち止まる。別に武士に何かを言う為じゃない。窓辺に来て、それ以上進めなくなっただけだ。でも振り返らない。何かゲームに出てくるキャラクターがプレイヤーがトイレに立って、ゲーム世界で停止してるみたい。
「……武士、麗香にお前ん家に泊まった時に、部屋にあったよく分からん絵にアレンジしておいたって謝っといてくれ」
「は?」
えっと、今譲治は何をカミングアウトしたんだろう? 武士もポカンとしてる。
「それから美紀には、もう少し柔らかくなって肩肘張るなって言っといてくれ。ついでに前にお前から借りた少女マンガ、小遣い足りなくて売ったこと謝っといてくれ」
え? そんなことしてたわけ? 美紀が聞いたら絶対怒るよ、それ。
「あと有美香には、俺は実は日本人だったって白状しといてくれ」
いや、有美香は絶対気づいてるし、バレてるよ。今までバレてないと思ってた方がびっくりだ。
「ってパシリかよっ! 俺にはねぇのかよっ」
いや、もうそれ以前の問題じゃないかな? そこまでして譲治の言葉が欲しい意味が分からないよ。
「お前には、もういいだろ……?」
譲治がふいに力ない笑みで横顔だけ振り返った。僕らは思わずそのりりしさのある横顔に、言葉を待った。
「どうゆうことだ、おい?」
でも、武士はそこを切り込む。
「どういうことも、俺とお前だろ? 言葉が必要か?」
「っ! ……へっ、そうだったな」
武士が格好付けるように笑う。僕としてはそうは思えないんだけど。
「思いつかないだけだね、あれは」
「やっぱり?」
どこか二人の世界に入っている横で、琢磨が耳元で呆れたように呟いた。
「じゃあな、お前ら……俺は先にいってる。また会おうな」
そして譲治は窓枠に手をかけ、身を乗り出した。遠くに住み渡す青空へ、今羽ばたこうとするようにその姿は聡明で、格好良かった。
「まっ、待って譲治っ!」
僕はとっさに譲治を止めようとした。そんなことをしちゃダメだ。
「大樹、無駄だよ」
琢磨が駆け出そうとした僕の腕を掴む。その目は諦めを諭す色だった。
「で、でもっ」
「大樹、止めとけ。あいつが決めたことだ。俺らにどうこう出来るもんじゃねぇ」
武士も譲治の背中を見送るだけで、僕を止める。どうして? どうしてこんなことするの? 止めないとっ。
「だっ、だって、このままじゃ譲治がっ……っ!」
その瞬間、僕の視界から譲治が消えた。教室内からもざわつきが一際大きくなった。
譲治が窓からその身を投げた。そして僕は、力が抜けて椅子に落ちるように座った。
「こらっ! 何をやってるかっ!」
そして聞こえた怒声。
「あ〜ぁ。せっかく大樹が止めたのにねぇ」
「ったく、馬鹿もいいところだぜ、あいつはよぉ」
琢磨と武士が同時に窓から跳んで消えた譲治にため息を吐く。
「さて、僕らは先に昼食に行こうか。みんな待ってる頃だろうしね」
「おうっ! 大樹行こうぜっ」
「う、うん。でも、譲治が……」
窓の外は青い空が果てしなく広がってる。上を見れば。でも、視線を横にまっすぐにすると、垣根と花壇が見える。そして、立ち上がった譲治が先生に捕まった姿も。
「自業自得だよ。放っておいて良いさ」
「自分だけ先に学食行こうとした罰だぜ」
僕らの教室は一階。窓から飛び下りた所で死ぬことは、よほど打ち所が悪くない限りはありえない。その証拠に、格好つけるだけ格好つけて窓から飛び降りた譲治は、まったくの無傷で、僕が先生が居るのを見つけたから止めるように言ったのに、案の定で先生にパッチリと見られてた。そして譲治は捕まった。可哀想だけど、琢磨と武士の言うことは正しくて、僕も心の中で合掌しつつ、一足先に学食へ向かった。譲治は先に行こうとしたのに、結局僕らが昼食を食べ終える頃に、面倒そうに来た。
「兄さん、高校生にもなって恥ずかしい真似はしないで下さい」
「うっ……」
「おぉ、来た来た。噂をすればだね。譲ぴょん、とんだ災難だったねぇ。自分から災難浴びるって、譲ぴょんの趣味?」
「承知してるさ……」
先に来ていた女子組に遅れた事情を話して、譲治のことも話したら、ようやく来た譲治を見た瞬間、冷ややかな美紀の視線に譲治は言葉を出せず、上条さんの笑いに羞恥を感じたのか、項垂れた。
「まぁ譲治、早くご飯食べた方がいいよ。時間もそろそろないし」
譲治が来るまで僕らは、混雑していたのにやっぱり空いていた僕らの席で試験の出来と確認をし合ってた。今日も終わりだからか、食堂はどこかしこも僕らと同じ話と気の抜けた笑い声で溢れていた。
「そうだな……またこうして集まれたんだからな」
譲治が開いていた真ん中の椅子に腰掛ける。大げさな物言いだけど、譲治らしかった。
「ちょっと待ちなさい」
だが、譲治のようやくつけた一息も、怒を含んだ声にかき消された。
「何だ?」
譲治は首を傾げる。僕らもその声の主で、僕の隣にいた湊川さんを見る。
「聞いたわよ。あんた何てことしてくれたのよ」
「そうなのですですっ! ミスタージョージッ! 日本人だったのですですかぁっ!?」
「有美香、これからは俺のことはサムライジョージと呼んでくれ」
湊川さんは明らかに機嫌が悪かった。さっきまでは僕らとだいぶ打ち解けてきたから、結構僕らの話にあきれたりしながらも笑ってくれたんだけどなぁ。と言うか、有美香、キミはやっぱり天然なんだね。一人だけ空気読めてないよ。と言うか気づこうね。譲治も譲治で場の空気を読もうとしないのは強気だ。誰も読んだり市内と思うんだけど。
「そうでしたね。兄さん、人の言えのものを勝手に弄るなんて何考えているんですか。と言うよりも本の代金は改めて弁償してもらいますから」
美紀も思い出したように譲治を見る。あぁ、譲治が湊川さんの家の絵に落書きしたってことか。怒るよね、普通。そして美紀もやっぱり気にしてるんだ。勝手に兄に漫画売られたなんて、美紀にしたら許せないだろうし。
「……武士、お前何チクッてんだよ?」
「あぁ? てめぇが言えっつったんだろうがよ」
うん、言ってた。それを律儀に守る武士も武士だと思ったけど。
「どうしてくれるのよっ。あの絵画はね……いいわ、どうせ」
怒っていた湊川さんは、ふいに何かに思い当たったみたいに諦めのため息を吐いた。
「何でもないわけにはいきません。湊川先輩、私が兄に代わって弁償します」
美紀が深々と申し訳ありませんと頭を下げる。さっき武士が報告した時も何度も謝ってた。
「良いのよ。貴女には関係ないわ。それに、弁償できるような安いものじゃないのよ」
その一言は、どんな言葉よりも場の空気を沈黙させ、譲治に非難の目が集った。
「麗香、お前はまだ絵を見ていないだろ?」
でも、譲治だけは強気だ。その意味が分からない。絵画に落書きなんてとんでもないことなのに、どうして譲治は反省の顔一つしないんだろう。
「ええ。今さっき聞かされて、一刻も早く帰りたい気分よ」
湊川さんはそう言いながらも席を立とうとする気配はない。むしろ帰ろうとする気がないくらいに深く腰を下ろしてる。
「まぁ帰ってから見てみろ。最悪だったらマグロ漁船にでも何でも乗ってやるさ」
譲治はもう学園はないからゆっくりとB定食を食べてる。僕も琢磨も武士も美紀も有美香も湊川さんも上条さんも、とっくに食べ終わってくつろいでる。誰も勉強しようとかしてないのは、ちょっと焦りを感じた。
「ねぇねぇ、麗たん麗たん、譲ぴょんの描いた絵って、あたしも見たいっすっ!」
「おっ、そうだな。俺も見てみてぇぜ」
「私もなのですです。サムライジョージのぴくちゃーを見たいです」
上条さんがずびしっと手を上げて立候補と言うか主張する。僕としてもどんなことを譲治は仕出かしたのか興味はある。上条さんに釣られて武士や有美香も同じように手を上げた。
「え? ちょっ、な、何言ってるのよ?」
続々と興味を持つ僕らに、湊川さんは困った顔をして僕を見る。僕も見ていて目が合った。ちょっとドキッとした。
「み、みんな、今はほら、試験中だし勉強しないと」
「そ、そうよ。同好会だって懸かってるんでしょ?」
僕のとっさの言葉に湊川さんが肯く。
「そうです。私たちが今日まで勉強してきたことが後二日間は試されるんですから、あまり不必要な真似はしないほうが良いですよ」
美紀の決定打とでも言えるような、ちょっときつい言葉。
「うっ、美紀に言われちゃぁ、しゃーねぇな」
「はぅぅ。そうなのですです。今は試験中。私の成績も危ないですっ。勉強をしましょーっ!」
武士としては美紀の口調の強さに身を引いたんだろう。有美香は自分で落ち込んで立ち直った。切り替えが早い子だなぁ。
「じゃあ、試験が終わったらいーってことだねっ! うん、決まりっ! しあさって麗たんの家に遊びに行く人、このゆーびとーまれっ!」
「へ?」
「え?」
不意に響いた声に、僕と湊川さんだけじゃなく、ユースウォーカーズの面々の視線が集まった。
「おうっ、一番乗りは俺だっ!」
上条さんの空に掲げた細い指を武士の太い指が真っ先に掴む。
「ちょっ! 上条さんっ? 何勝手なことを言ってるのよっ」
「えー、いーじゃんいーじゃん。麗たんとあたしたちの仲を一気に縮めるぜっこーのチャンスだよ?」
あれ? 上条さんは僕らの中では一番湊川さんと仲がいいと思うんだけど。同じクラスだし、あの日以来昼食の時は一緒に来るし。
「だっ、だめよ。絶対にダメ」
湊川さんは上条さんの独断を拒否する。
「どーしてぇ?」
つまんなぁい、と上条さんが駄々を捏ねる。
「譲治並みの子供っぽさだね、相変わらず」
琢磨が苦笑する。
「ふぁ? おへふぉいっひょひふふはお」
「兄さん、食べながら話さないで下さい。飛んで汚いです」
きっと譲治的には上条さんと一緒にするな、とか思ってるんだろうけど、喋るたびに零れる食べかすを、正面に座ってる美紀が布巾で拭き取る。兄妹の光景なんだろうね、こういうのって。ちょっと羨ましいかも。
「私にも色々あるの。とにかく家に来ることはダメよ、良いわね?」
有無を言わせない湊川さんの言葉。さすがの上条さんも諦めたように腕を下ろした。
「と言うか、湊川さんはまだ帰らないんだ?」
ホームルームも終わって、学園の授業は今日は終了。部も発足してないし、この後はここで勉強会か、部屋で各自明日へ備えるくらい。さすがにこの期間中まで騒ごうと言う気はない。今は特にだしね。
「え、ええ。あんたたちは勉強会をするんでしょ?」
「そうですね。明日は兄さんたちも私たちも一番大変だと思うので」
「そうなのですですっ! 私はピンチなのです」
正直な告白ありがとう、有美香。今日はみんなで勉強会だね。
「はいはいはーいっ! あたしも混ぜて混ぜて」
「ダメだっ」
上条さんの元気な申し出を、なぜか武士が却下する。
「どうして、武士? 別に良いんじゃない?」
騒がしくさえしなければ問題ないし。
「そうだよぉ。やっぱり大樹君はやーさしー」
上条さんが僕ににっこり笑む。不意のことに戸惑った。
「はいはい、そう言うお調子だから断られるのよ、あなたは」
湊川さんが呆れたように吐く。
「それはそうと、別に構わないですよ。武士さん、女の子を邪険にしてはいけません」
「いや、だってよぉ」
美紀に言われ、武士は燻る素振りを見せるけど、それ以上は上条さんを一睨みすると、立ち上がった。
「勉強する前にちょっくら筋トレしてくる。大樹、いつものいこーぜ」
武士が今度は気分を転換させたのか爽やかに僕だけを誘ってくる。
「行かないよ。勉強するし」
「大樹……お前まで俺に冷てぇのか……世の中、寂れちまったんだな……」
いつもならここで、何でだよっ! とかついて来てくれよっ! とか叫ぶ武士が珍しく落ち込んだように僕らに背中を向けた。
「美紀にも冷たくされて、大樹にも見捨てられた。ここは叫ぶより悲しみの背中を見せた方が追いかけてくれるとか思ってるんだろうね、あれ」
僕は罪悪感を感じたのに、琢磨の言葉にその罪悪感が苦笑に変わった。だって、学食を出た途端に腿上げしながら走っていくんだもん。琢磨の言葉が正しいってすぐに分かったよ。
「それで話を戻すけど、何か理由でもあるのかい?」
琢磨が話を戻す。湊川さんが気まずそうな顔をする。
「麗香、お前今朝から何隠してる?」
「っ! ……な、何でもないわよっ」
譲治の声に湊川さんは明らかに動揺した。僕も何となく今日は変だなぁとか思ってたけど。
「あまり女の子のことを詮索するのは良くないですよ」
「そうなのですです。女は秘めたる生き物ですです。男は黙って引くのですよ」
前から思ってたことなんだけど、有美香って帰国子女の割りに発言が古いというか、妙に日本人チックじゃないかな?
「あ、えっと、あのね……良いのよ、気にしなくて」
良心の呵責でも受けたみたいに湊川さんが二人の発言にフォローを入れようとする。
「いいえ、兄さんたちを他の方と同じに見てはいけません。言うことは言っておかなければ後が面倒になるんです」
だが、美紀は頑なだった。そう言う子だってのは分かってるから、別に何も言わないけど、ちょっと僕らってやっぱり普通じゃないのかなぁってちょっと複雑な気持ちにはなった。
「……ねえ、片桐君、ちょっと」
「え? どうかしたの?」
休憩しながら他にすることもない僕らはそれぞれ会話を楽しんでた。その時湊川さんが僕の二の腕を軽く叩いた。何だか物凄く申し訳なさそうな表情で。
「あのね、私ちょっと、外して良いかしら? そう長くないうちに戻れると思うんだけど」
「うん、いいと思うよ。僕らはここで勉強するから」
「そう……ありがとう」
安堵したように湊川さんが立ち上がる。それが僕には不思議だった。ちょくちょく琢磨とかは何も言わないで席を立って勉強道具を取りに行ってたりするのに、湊川さんはわざわざ確認してきた。
「あいつ、どうしたんだ?」
譲治がその背中を見ながら聞いてくる。
「さぁ? 何か用事がありそうだったけど……」
ごめんね、とだけ言い残して席を立った湊川さん。
「まぁ、そのうち分かることか。さぁて、お前らそろそろ休憩終わりにするぞ」
譲治は小さく笑った。もう分かっているように。
「構いませんけど、勉強を始めるなら一時間はきっちり勉強ですよ?」
「はいっ、頑張るのですっ! やりましょう、みなさんっ」
「道具は持ってきたし、今日はちょっと大変だけど大丈夫かい?」
「あ〜、あたし、用事があったんだぁ。あははっ、ごめんねぇ、あたし先に帰るねぇっ」
言うが早いか、上条さんは琢磨の勉強道具の量を見て、逃げ出すように立ち上がって愛嬌をたっぷりと振りまいて、髪を揺らして駆けていった。明らかに逃げたね。
「待てお前ら」
そして、それを見た譲治も声を上げる。
「あと、十分休憩にしよう」
そして譲治も口実を残して席を立つ。みんなの冷めた視線が譲治を射抜く。
「どこへ行くのですか?」
それでも流れとして美紀が譲治に問う。その問いにもう意味がないのは周知の事実。
「武士を連れてくる」
まぁ言わずもがなかな。誰も譲治を止めなかったのは言うまでもないし。
「さて、じゃあ僕らは先に始めようか」
「そうだね」
「はい。兄さんたちは恐らく大和さんが連れてくるでしょうから」
「みなさん、よろしくお願いしますのですっ!」
残された、と言うか残った僕らは先に静になりつつある学食の一角で、明日に備えて持ち寄った教科書と参考書を開いた。そのうちやってくるだろうと僕らの予想する騒ぎが来る前に、集中しておきたかったから。
次回更新予定は、六月十八日です。
次は第六部になるので、五部はここまでと言うことにします。
〜追伸〜
次の更新はちょっと時間をあけます。理由は一つが先に他に執筆中の「if」を書きたいのと、ネタがちょっとなくなってきたので、ネタの仕入れをしたいので、もしかしたら二十日前後になるかもしれませんので、ご了承下さい。