第9話 これは、ゲームじゃない
ガサッ。
右手の茂みが揺れた。
足を止める。同時に、手の中の短槍をきつく握り直していた。
茂みから出てきたのは、灰色の毛並みをした獣だった。体高は俺の腰くらい。犬よりもずっと大きく、痩せた狼に似ている。牙は口の端からはみ出るほど長く、こちらを見据える目は金色に光っていた。
一瞬、頭のどこかが「魔物だ」と興奮した。ゲームで散々見てきた光景が、ついに目の前に現れた。そんな、場違いな高揚感がよぎる。
だが、それはすぐに消えた。現実の獣は、画面越しに眺めるようなものじゃなかった。
鼻をつく獣臭。喉の奥で低く鳴る唸り声。地面を踏みしめる足音。舌なめずりをするような、値踏みする視線。全身が総毛立つ。
名前も、レベルも、弱点も、どこにも表示されない。当たり前だ。これは画面の向こうの出来事じゃない。
これは、ゲームじゃない。
「……安全なんじゃないのかよ」
そんな言葉が口をついて出たが、すぐに考え直す。比較的穏やかとは言っていたが、絶対安全とは一言も言われていない。あれだけ確認しておいて、恨み言を言うのは格好悪い。
行き先も、道も、危険度も、ちゃんと調べてから選んだはずだった。
だが、こうして目の前に本物の魔物が立っていることに変わりはない。準備していたからといって、うまくいくとは限らないらしい。
脳裏に、あの理不尽な死に方をした夜が一瞬よぎる。
あの時は全裸で、武器も情報も何もなかった。逃げることすらできないまま、あっけなく終わった。
今は違う。
手には自分で作った短槍がある。予備だってインベントリの中にある。あの時よりは、ずっとましだ。
(……今度は違う。少なくとも、何かを試せる)
そう思っても、恐怖が消えるわけじゃない。足はすくみ、槍を握る手は震えていた。せっかくもう一度生きられることになったんだ。こんなところで、また何もできないまま終わるのは嫌だった。
獣が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。俺は後ずさりながら、槍の穂先を相手へ向けた。
構えなんて、我流にすらなっていない。穂先が細かく震える。どのタイミングで突けばいいのかも分からない。
獣がわずかに身をよじっただけで、反射的に槍を振ってしまう。当たるはずもない。両手に伝わる木の重みだけが、やけにはっきりしていた。
素手よりはましだと思っていた。それは間違っていない。だが、武器を持っていることと、使えることはまるで別だった。振り方も、構え方も、誰にも教わっていないのだから当然だった。
獣が、じりじりと横へ回り込む。合わせて動こうとすると、あっさり反応された。獣の視線が、俺の足の動きに合わせてぴたりと追ってくる。
(……速い)
思っていたより反応がいい。距離を取って様子を見る、なんて選択肢はすぐに崩れた。
試しに、槍を軽く振って威嚇するふりをしてみる。多少は怯むかと思ったが、獣はまったく怯まなかった。むしろ、こちらの動きに合わせて低く身を沈める。
(――来る)
直感がそう告げた瞬間、獣が地を蹴った。
地面を蹴る音が聞こえたと思った時には、もう目の前まで来ていた。さっきまで数歩先にいたはずなのに、灰色の毛並みと剥き出しの牙が、一瞬で視界いっぱいに広がる。
頭では槍を突き出せと思っている。それなのに、身体がほんの一瞬だけ遅れた。
「うわっ――」
とっさに槍を突き出す。狙いは甘く、早すぎた。切っ先は獣の肩をかすめただけで、まともには刺さらない。伸びた穂先が壁になって、獣は正面から俺へ飛び込めず、わずかに軌道を逸らした。牙が空を切る音が、耳のすぐ側で響いた。
助かった。だが、それだけだ。心臓が痛いほど鳴っていた。荒くなる呼吸を整える間もなく、獣はもう距離を詰め直している。
距離を取り直す間もなく、獣は二度目の突進に移る。今度は小さくフェイントを入れてきた。
左に踏み込むような素振りに、思わず槍を振ってしまう。体勢が崩れたところへ、本命の一撃が来た。柄を強く噛まれる。ぐっと捻られる感覚。全身の重みごと持っていかれそうになり、慌てて踏ん張った。
両腕に、想像していたよりずっと強い力がかかる。握っているだけで精一杯だった。木の柄が、手の中で嫌な音を立てて軋む。
「っ、待――」
パキンッ、と乾いた音がした。
穂先の近くから、槍がへし折れていた。
獣は槍を折った勢いのまま俺の脇を抜け、数歩先で大きく回り込むようにして向き直った。
「――っ!」
頭が真っ白になりかける。折れた木片が地面に転がる音が、やけに遠くから聞こえた。
折れた槍を投げ捨て、震える手でインベントリを開く。一覧の下の方にあったもう一本の【木製短槍(簡易)】を掴み出し、握り直す。
「……予備、作っといてよかった……!」
だが、浮かれている時間はない。もうこれが最後の一本だ。今から新しく作るには十数秒はかかる。材料が残っていたとしても、目の前の獣がそんな時間を待ってくれるわけがない。
勝つための武器じゃない。もう一度考えるための、たった一回分の猶予だ。
倒す、という選択肢を頭の中から外す。今すべきは、生き延びて、どうにかここを離れることだ。目的を定めることで、少しだけ頭が冷えた。
依頼品はインベントリの中で無事なはずだ。両手が荷物で塞がっていない分だけ、動きの選択肢が残っている。
獣の動きを、必死に目で追う。通常時は距離を保ったまま、こちらの動きに合わせて位置を変えてくる。
だが、さっきの突進――全力で踏み込んだ直後だけは、すぐには向き直れず、数歩分だけ行き過ぎてから、大きく回り込むようにして体勢を直していた。
(……さっきだけじゃないのか?)
普通に動いている時は、俺が横へ動いてもすぐについてくる。なのに、全力で飛び込んだ直後だけは違う。頭はこちらへ向けようとしているのに、勢いのついた身体まではすぐについてこない。
もう一度、獣が仕掛けてくる。今度は横へ転がるようにして躱す。肩と肘を地面に強く打ちつけ、息が詰まった。土と枯れ葉の匂いが鼻をつく。
痛みに顔をしかめながらも、目だけは獣を追い続ける。
直進の勢いのまま、獣はまた数歩分だけ行き過ぎ、大きく弧を描くようにしてこちらへ向き直っていた。
さらにもう一度。距離を詰めてきた獣に、今度は逆方向へ転がって躱す。腕に走った鈍い痛みを無視して、すぐに体を起こす。やはり獣は、勢いのまま少し先まで進んでから、方向を変えていた。
服のあちこちが土で汚れ、肘と肩が擦り傷だらけになっているのが分かる。まだ動ける。まだ、考えられる。
(もしかして……全力で突っ込んでる間は、急には曲がれないのか?)
確証はない。まだ数回見ただけだ。たまたま同じ動きをしただけかもしれない。これだけで決めつけるのは危ない。
視線を巡らせる。少し先、道の脇に、人ひとりがようやく通れるくらいの隙間で、細い木々が密集している場所があった。あそこまでなら、後ずさりしながらでも何とか誘導できそうな距離だ。
これといった確信があるわけじゃない。ただの思いつきに近い。今の自分に選べる手札は、もうそう多くは残っていなかった。
(あそこへ誘い込めれば……)
絶対に激突するとは限らない。木に引っかかってくれる保証もない。うまくいく理由も、失敗した時にどうなるかも、まだ何一つ詰め切れていない。
――やるしかない。
震える手で、槍を握り直す。息を整え、距離を測る。あの隙間まで、獣を誘い込めるだけの間合いは取れているはずだ。
外れれば、次はないかもしれない。それでも、このまま何もせず追い詰められるよりは、よっぽどいい。
問題は――それを試すには、一度、あいつをこっちへ向かって全力で走らせる必要があることだった。




