↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

9/36

第9話 これは、ゲームじゃない

 ガサッ。


 右手の茂みが揺れた。


 足を止める。同時に、手の中の短槍をきつく握り直していた。


 茂みから出てきたのは、灰色の毛並みをした獣だった。体高は俺の腰くらい。犬よりもずっと大きく、痩せた狼に似ている。牙は口の端からはみ出るほど長く、こちらを見据える目は金色に光っていた。


 一瞬、頭のどこかが「魔物だ」と興奮した。ゲームで散々見てきた光景が、ついに目の前に現れた。そんな、場違いな高揚感がよぎる。


 だが、それはすぐに消えた。現実の獣は、画面越しに眺めるようなものじゃなかった。


 鼻をつく獣臭。喉の奥で低く鳴る唸り声。地面を踏みしめる足音。舌なめずりをするような、値踏みする視線。全身が総毛立つ。


 名前も、レベルも、弱点も、どこにも表示されない。当たり前だ。これは画面の向こうの出来事じゃない。


 これは、ゲームじゃない。


「……安全なんじゃないのかよ」


 そんな言葉が口をついて出たが、すぐに考え直す。比較的穏やかとは言っていたが、絶対安全とは一言も言われていない。あれだけ確認しておいて、恨み言を言うのは格好悪い。


 行き先も、道も、危険度も、ちゃんと調べてから選んだはずだった。


 だが、こうして目の前に本物の魔物が立っていることに変わりはない。準備していたからといって、うまくいくとは限らないらしい。


 脳裏に、あの理不尽な死に方をした夜が一瞬よぎる。


 あの時は全裸で、武器も情報も何もなかった。逃げることすらできないまま、あっけなく終わった。


 今は違う。


 手には自分で作った短槍がある。予備だってインベントリの中にある。あの時よりは、ずっとましだ。


(……今度は違う。少なくとも、何かを試せる)


 そう思っても、恐怖が消えるわけじゃない。足はすくみ、槍を握る手は震えていた。せっかくもう一度生きられることになったんだ。こんなところで、また何もできないまま終わるのは嫌だった。




 獣が、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。俺は後ずさりながら、槍の穂先を相手へ向けた。


 構えなんて、我流にすらなっていない。穂先が細かく震える。どのタイミングで突けばいいのかも分からない。


 獣がわずかに身をよじっただけで、反射的に槍を振ってしまう。当たるはずもない。両手に伝わる木の重みだけが、やけにはっきりしていた。


 素手よりはましだと思っていた。それは間違っていない。だが、武器を持っていることと、使えることはまるで別だった。振り方も、構え方も、誰にも教わっていないのだから当然だった。


 獣が、じりじりと横へ回り込む。合わせて動こうとすると、あっさり反応された。獣の視線が、俺の足の動きに合わせてぴたりと追ってくる。


(……速い)


 思っていたより反応がいい。距離を取って様子を見る、なんて選択肢はすぐに崩れた。


 試しに、槍を軽く振って威嚇するふりをしてみる。多少は怯むかと思ったが、獣はまったく怯まなかった。むしろ、こちらの動きに合わせて低く身を沈める。


(――来る)


 直感がそう告げた瞬間、獣が地を蹴った。


 地面を蹴る音が聞こえたと思った時には、もう目の前まで来ていた。さっきまで数歩先にいたはずなのに、灰色の毛並みと剥き出しの牙が、一瞬で視界いっぱいに広がる。


 頭では槍を突き出せと思っている。それなのに、身体がほんの一瞬だけ遅れた。


「うわっ――」


 とっさに槍を突き出す。狙いは甘く、早すぎた。切っ先は獣の肩をかすめただけで、まともには刺さらない。伸びた穂先が壁になって、獣は正面から俺へ飛び込めず、わずかに軌道を逸らした。牙が空を切る音が、耳のすぐ側で響いた。


 助かった。だが、それだけだ。心臓が痛いほど鳴っていた。荒くなる呼吸を整える間もなく、獣はもう距離を詰め直している。


 距離を取り直す間もなく、獣は二度目の突進に移る。今度は小さくフェイントを入れてきた。


 左に踏み込むような素振りに、思わず槍を振ってしまう。体勢が崩れたところへ、本命の一撃が来た。柄を強く噛まれる。ぐっと捻られる感覚。全身の重みごと持っていかれそうになり、慌てて踏ん張った。


 両腕に、想像していたよりずっと強い力がかかる。握っているだけで精一杯だった。木の柄が、手の中で嫌な音を立てて軋む。


「っ、待――」


 パキンッ、と乾いた音がした。


 穂先の近くから、槍がへし折れていた。


 獣は槍を折った勢いのまま俺の脇を抜け、数歩先で大きく回り込むようにして向き直った。


「――っ!」


 頭が真っ白になりかける。折れた木片が地面に転がる音が、やけに遠くから聞こえた。


 折れた槍を投げ捨て、震える手でインベントリを開く。一覧の下の方にあったもう一本の【木製短槍(簡易)】を掴み出し、握り直す。


「……予備、作っといてよかった……!」


 だが、浮かれている時間はない。もうこれが最後の一本だ。今から新しく作るには十数秒はかかる。材料が残っていたとしても、目の前の獣がそんな時間を待ってくれるわけがない。


 勝つための武器じゃない。もう一度考えるための、たった一回分の猶予だ。


 倒す、という選択肢を頭の中から外す。今すべきは、生き延びて、どうにかここを離れることだ。目的を定めることで、少しだけ頭が冷えた。




 依頼品はインベントリの中で無事なはずだ。両手が荷物で塞がっていない分だけ、動きの選択肢が残っている。


 獣の動きを、必死に目で追う。通常時は距離を保ったまま、こちらの動きに合わせて位置を変えてくる。


 だが、さっきの突進――全力で踏み込んだ直後だけは、すぐには向き直れず、数歩分だけ行き過ぎてから、大きく回り込むようにして体勢を直していた。


(……さっきだけじゃないのか?)


 普通に動いている時は、俺が横へ動いてもすぐについてくる。なのに、全力で飛び込んだ直後だけは違う。頭はこちらへ向けようとしているのに、勢いのついた身体まではすぐについてこない。


 もう一度、獣が仕掛けてくる。今度は横へ転がるようにして躱す。肩と肘を地面に強く打ちつけ、息が詰まった。土と枯れ葉の匂いが鼻をつく。


 痛みに顔をしかめながらも、目だけは獣を追い続ける。


 直進の勢いのまま、獣はまた数歩分だけ行き過ぎ、大きく弧を描くようにしてこちらへ向き直っていた。


 さらにもう一度。距離を詰めてきた獣に、今度は逆方向へ転がって躱す。腕に走った鈍い痛みを無視して、すぐに体を起こす。やはり獣は、勢いのまま少し先まで進んでから、方向を変えていた。


 服のあちこちが土で汚れ、肘と肩が擦り傷だらけになっているのが分かる。まだ動ける。まだ、考えられる。


(もしかして……全力で突っ込んでる間は、急には曲がれないのか?)


 確証はない。まだ数回見ただけだ。たまたま同じ動きをしただけかもしれない。これだけで決めつけるのは危ない。




 視線を巡らせる。少し先、道の脇に、人ひとりがようやく通れるくらいの隙間で、細い木々が密集している場所があった。あそこまでなら、後ずさりしながらでも何とか誘導できそうな距離だ。


 これといった確信があるわけじゃない。ただの思いつきに近い。今の自分に選べる手札は、もうそう多くは残っていなかった。


(あそこへ誘い込めれば……)


 絶対に激突するとは限らない。木に引っかかってくれる保証もない。うまくいく理由も、失敗した時にどうなるかも、まだ何一つ詰め切れていない。


 ――やるしかない。


 震える手で、槍を握り直す。息を整え、距離を測る。あの隙間まで、獣を誘い込めるだけの間合いは取れているはずだ。


 外れれば、次はないかもしれない。それでも、このまま何もせず追い詰められるよりは、よっぽどいい。


 問題は――それを試すには、一度、あいつをこっちへ向かって全力で走らせる必要があることだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。