第1話 普通のサラリーマン、死亡
待ちに待った、花の金曜日だった。
38歳、独身、営業一課主任。役職手当のおかげで収入もそれなり。残業もほとんどない。世間一般で言えば、たぶん「そこそこ恵まれた人生」なのだろう。俺自身、特に不満はなかった。
ただし、今日だけは話が別だ。
今日は、ずっと楽しみにしていた新作MMORPGの発売日。有給を取るほどではないにせよ、この日のために先週から仕事のペースを調整し、飲み会の誘いも二回断り、ひたすら定時ダッシュだけを目標に一週間を耐えてきた。今夜ばかりはいつも以上にテンションが高かった。
「お疲れ様です、お先に失礼します」
「お、今日は珍しく駆け足だな。何かあるのか?」
「実は今日、新作ゲームの発売日でして」
「相変わらずだなぁ……まあ、お疲れ、尚木」
上司に呆れ半分の笑顔で見送られながら、俺はいそいそとオフィスを後にした。こんな歳にもなってゲームの発売日に浮かれているのは自分でもどうかと思うが、こればかりは学生時代から変わらない性分だ。電車の中でも、スマホで最新情報を何度も見返してしまう。
帰宅するなり、真っ先にPCを立ち上げてダウンロードを開始する。予約特典込みの容量はなかなかのもので、進捗バーはまだ二割程度。
「……この調子だと、まだしばらくかかるな」
待っている間に、帰り道で買った牛丼を掻き込む。今夜は徹夜も覚悟している。好きなことのためなら、まだまだ体力は残っているつもりだ。
食べ終わってもまだダウンロードは終わっていなかった。進捗バーは四割そこそこ。
「これは、風呂も済ませちまうか」
インストールが終わるまでの時間を無駄にしないよう、俺は早めに風呂を済ませてしまうことにした。脱衣所でPCの画面が見える位置に浴室のドアを開けっぱなしにしておく。単純に気になって仕方がないだけだ。
シャワーを浴びながら、俺の頭の中はすでに今夜のプレイ計画でいっぱいだった。
まずはキャラクリだ。種族はどうするか、顔立ちはどこまで作り込むか。攻略サイトで、先行プレイの情報を下調べした限りでは、序盤は近接職の方が立ち回りやすいらしいが、どうせなら普段あまり選ばない魔法職にしようか、なんて贅沢な悩みだ。
序盤の効率だけを考えるなら定番の構成に落ち着くのが正解なのだろうが、こういう時くらい好きに遊びたいというのが、社会人になってからの俺の持論だった。
結局は、攻略情報は見たとしても、最後は自分で試したいのだ。
「風呂上がったら、まず進捗を確認して。終わってなかったら、積んでたラノベの続きでも読みながら待つか」
独り言がつい漏れる。悪い癖だ。だが誰に聞かれるわけでもない、いつもの一人暮らしの部屋。今夜はひたすら趣味に没頭する、そう決めていた。社会人にとって、これ以上の贅沢はない。
シャワーのお湯が肩に当たる感触。湯気の匂い。いつも通りの、なんでもない夜のはずだった。
――のに。
「……あれ」
急に、お湯の当たる感触が消えた。
目を開けると、俺は見知らぬ場所に立っていた。見慣れたタイル張りの浴室でも、部屋でもない。土と草の匂い。頭上には見たこともないほど星が密集した夜空。周囲を囲む、見上げるほど背の高い木々。虫の声、遠くでかすかに響く獣の遠吠えのようなもの。
「……まさか、ゲームの中に入ったとかじゃないよな?」
いやいや、落ち着け俺。
そんなラノベみたいなことが現実に起きるわけがない。
混乱した頭が、真っ先に「ゲーム的な説明」を探そうとする。ステータス画面でも出てこないかとつい視線を泳がせてしまうあたり、我ながら生粋のゲーマーだと思う。試しに空中で「メニュー」と念じてみたり、指先で何もない空間をタップしてみたりもしたが、当然、そんな都合のいいウィンドウはどこにも表示されない。
ならば、と反射的にポケットに手を伸ばす。
スマホがない。
もう片方のポケットに手を伸ばす。
財布もない。
そこでようやく、俺は自分の格好を確認する。
服もない。
「えっ、どういう状況……?」
ここまで何もないと、逆に笑えてくる。
……いや、笑えない。全然笑えない。
自分で自分にツッコミを入れつつ、周囲を見回す。土を踏みしめる足の裏の感触も、頬を撫でる夜風の冷たさも、あまりに生々しく本物だった。夢だとしたら、いい加減目が覚めてほしいくらいのクオリティだ。
「い、いや待て待て待て。何だこれ。い、一旦落ち着け」
異世界転移かもしれない。普通なら興奮するところなのだろうが、今の俺はそれどころではなかった。
せっかくのダウンロードはどうなった、とか、そもそもここはどこなんだ、とか、冷静に考えるべきことは山ほどあるはずなのに、頭に浮かぶのは「誰にも見られたくない」という、極めて即物的な焦りだけだった。
「と、とりあえず何か隠すもの……! 穴でも掘るか!?」
現実は非情だ。都合よく股間を隠せそうな大きな葉っぱも、布切れもない。俺はしゃがみ込んだ体勢のまま、涙目で周囲を見渡す羽目になった。
異世界といえば、やっぱりモンスターだ。それでも、「せめて出てくるなら、草食系のモンスターであってくれ」なんて考えが、頭をよぎる。
全裸で真っ先に心配することがそこなのか、と自分でも思う。だが服も装備もない今の俺は、食べる側からすれば下処理いらずだ。
「これは正真正銘の、装備品ゼロからのスタートってやつか……いや、本当に笑えないぞこれは」
足元に落ちていた手頃な太さの枝が目に入った。これでも持っておけば多少はマシだろうか。そんな考えで枝を拾い上げてみるが、正直なところ気休めにもならないことは自分が一番よくわかっていた。
と、そのとき。
枝を握りしめたまま少しだけ肩の力を抜き、茂みの向こうへ視線をやった、その瞬間。
ガサッ。
茂みが揺れる音。
「……だ、誰か、いるのか……?」
人に見られているという事実に思い至った瞬間、羞恥心が限界を突破した。
「きゃあああああああああ!」
条件反射で枝を放り投げ、絶叫と共にしゃがみ込み、両手で前を隠した。これまで生きてきて、こんな声を出したのは初めてだった。
「い、いや違うんだ! これには深い事情があって……! わ、わざとじゃない、断じてわざとじゃないんだ……!」
涙目で振り返った先、そこにいたのは。
人間ではなかった。
月光の下、二つの目をぎらつかせる、家より大きな漆黒の獣。牙は俺の身長よりも長い。全身を覆う毛は闇そのもののように光を吸い込み、輪郭すら朧げに見える。四肢は丸太のように太く、一歩踏み出すたびに地面がわずかに沈み込む音がした。
咆哮の一つも上げず、ただ低く空気を震わせるような音だけを漏らしながら、その巨躯をゆっくりとこちらへ近づけてくる様は、咆哮する魔物よりもよほど不気味だった。
獣はすぐには襲いかかってこなかった。鼻先をゆっくり持ち上げ、何度か空気を嗅ぐ。低い呼吸音が、湿った森の中にやけに大きく響いた。
何を確かめているのかなんて、考えたくもなかった。時間にすればほんの数秒だったはずなのに、体感では何分にも感じられた。
「……あ」
俺のテンションが、音を立てて凍りついた。
羞恥心なんて、一瞬で吹き飛んだ。
見ただけで分かる。
これは、どうにかなる相手じゃない。
放り投げてしまった枝を慌てて拾い直し、震える手でどうにか構えてみる。だが獣の巨躯を前にすれば、それはもはや武器と呼べる代物ですらなかった。獣の視線がわずかに枝へ向き――そのまま興味なさそうに逸れる。品定めする価値すらないと言われたようなものだった。
「いや無理だろこれ! 装備なし! スキルなし! 服すらなし! こんなん初心者の館の前で最終ボス出すようなもんだろ! せめてチュートリアルくらいやらせてくれ!」
叫びながら踵を返して逃げようとした、その瞬間。
足がもつれた。
俺は情けなく土の上に倒れ込み、そのまま顔を上げる。
視界いっぱいに、影が広がっていた。
逃げろ、と頭では分かっているのに、体が動かない。
「……あ、まって、まだ、読みたい本が」
最後まで言い切ることは、できなかった。
巨大な影が、月ごと俺を呑み込むように落ちてくる。次の瞬間、全身から力が抜けた。痛みは――なかった。ただ、視界だけが白く染まっていった。
(38年生きて、最後がこれか……)
読みたかったあの小説のラストはどうなるんだろうか。そんな、我ながらどうでもいいことを最後に考えながら、俺の意識はふっつりと途切れた。
――こうして、ゲームとラノベをこよなく愛する、どこにでもいる普通のサラリーマンは、シャワーを浴びていたはずの夜に、異世界の森であっけなく命を落とした。
なお、楽しみにしていた新作MMORPGのダウンロードが終わったかどうかは、最後まで確認できなかった。
『……あの、申し訳ございません』




