第5話 病室での対話
「楓さん、体調はお変わりありませんか?」
「二人目ともなると、勝手が分かるものね。今日も、元気にお腹を蹴ってるわ」
そう言って、お腹を擦りながら、久遠の伸びきった髪を撫でるその表情は、実に慈愛に満ちていた。
「啓一郞さんは、今夜は?」
父親である啓一郞は、何時も、金曜日の夜には必ずと言っていいほど、見舞いに来ることを、先輩から教えて貰っていた美雪は、心配そうに尋ねると、
「啓ちゃんは、仕事が山場だって、さっき電話があったわ」
「この時間でも、終わらないなんて、……大変ですね」
「ふふ、私、心配はしてないわ」
「え?」
美雪は怪訝そうに思った。
昨今の労働環境の変化によって、長時間労働や、待遇の悪化が社会問題となっているなか、夫の体調を心配しない楓に対して、冷たいなと、美雪は思ってしまった。
その僅かな表情を見た楓は、クスッと笑って、
「あの人に取って仕事は、子供の遊びみたいなものだから」
「えっ、遊び?」
自分に取って仕事は、やり甲斐はあるものの、あくまで、生きて行くための術であり、楓の返答に、美雪は思考が追いつかず、困惑していた。
「仕事は、生きて行くために必要な物を得るために大切でしょ?」
「そ、それは、そうですよ」
「だからと言って、そのことに囚われちゃうと、息苦しくなるわよね」
「……」
美雪は昔、ナイチンゲールの伝記を、母親に読んで貰った時、その女性の生き方に強く惹かれ、幼い頃から、看護婦さんになろうと心に決めていた。
小中高と勉学に励み、高校の時に、父親が急死したことで、一度はその夢を諦めかけたが、母の、
「やりたいことをやりなさい、私も協力するから」
の一言で、高校卒業後、アルバイトを掛け持ちし、学費を稼ぐと、短期大学に、一年後に入学することが出来た。
母親は、父が亡くなるまで、外で働く機会もなく育ったこともあり、あまり世間を知らず生きてきたので、最初の頃は、パートの年配女性のグループからの嫌がらせに耐えられず、家の中で、声を押し殺して泣いているのを見て、美雪が、進学を辞め、働きに出ると言ったことがあった。
その言葉だけは、聞けないと涙を拭いて、母親は頑なに断った。
元来、人の心を、自然と掴む事に長けていた母親には、徐々に、味方をする女性達が守ってくれるようになり、陰湿な行為をしていたリーダー格の女性は、次第に立場を悪くして、半年後には、一身上の都合で辞めるという、走り書きをした一文を残して、退社していった。
そう言う経験を得て、やっと二人で掴み取った、正看護師免許の国家資格は、自分に取って宝物だった。
面接も上手く行き、大病院の五木病院に勤務した当初は、期待に胸を膨らませて出勤したものだ。
しかし、現実は甘くない。
三交替勤務で生活リズムが狂い、患者からの横柄な態度は当たり前、特に、年配の患者になるほど、それは非道く、男性に胸を触られたこともあった。
描いていた理想は、夢でしかないと痛感する内に、何時しか、仕事はやり甲斐ではなく、作業になってしまっていた。
そんな今の自分に、啓一郎の考えは、容認し難いものでしかなかった。
仕事が遊び?冗談じゃない、遊びでお金を貰えたら、苦労なんかしない。
きっと、生活に何も支障のない地位と、お金を持っているから、そんな言葉が吐けるんだ。
この病室を見れば分かる。
だだっ広い空間に、日本では、未承認の高額な医療機器、それと、点滴に使われている薬剤もだ。
私を含めて、常時、三人以上が担当する患者など、他にはいないのだから。
「モヤシって、美味しいわよね」
「え?」
美雪の不機嫌な表情を見て、楓は、突拍子のないことを話し始める。
「スーパーで売られているモヤシ、知らない?」
「知ってますよ、なに言ってるんですか」
イライラを隠しきれない美雪の口調は、先程までと違って、明らかに怒気を帯びていた。
「一袋十八円、よく使ってたわ」
「そんなはずないでしょ、あんな安いものを、あなたが」
美雪は、将来のための貯金を、毎月、少額ではあるが、欠かさず行なっていた。
そのため、削るところは徹底的に節約する。
スーパーでは、閉店間際で、半額になった食品の鮮度をチェックし、長持ちする物を吟味して購入する。
そんな中でも、足が早く、日持ちはしないが、栄養があって安価なモヤシは、何時も買い物カゴに入れていた。
「本当よ、今のような生活が出来るようになったのは、ほんの少し前からなの」