小さな姉妹
聖湖沿岸を離れ、幾日か北へ進んだ。
アークは夕暮れに外を見ていた。トア・ハラ行きの臨時寝台列車の最後尾、吹きさらしのデッキで手摺りによりかかって。
見つめる先は古い線路だ。翼列車は低空飛行して移動するから、地面を走る、遥か昔に使われ今となっては遺棄され人々の身近な遺跡となっている線路の跡は翼列車の運行経路の目印にしかなっていない。昔は枕木、横向きにレールを支える板があったらしいが、それはところどころ名残にしかない。
この長い長いレールを敷くのにどれほどの時間がかかったのだろう。数年では足るまい。そしてそこまでして作り上げたものをカウンに壊された時代の鉄道員たちの無念を思いやると鉄道趣味を持たないアークでさえ、何やら心に重いものが沈む。
デッキの扉が開いた。振り向くと、リヴィス。外に出て『現代』を認識したスイージュに「あなたの衣服、時流から遅れてますよ」と言われて、だいぶ暗さが軽減された印象の服に変えた。長い外套はやめなかったが、今は脱いでいる。
「どうしたの?」
隣まで来て手摺りに背中を預けた。
「根はいい奴なんだ。悪く思うな」
何のことかはすぐ察せられた。スイージュだ。彼女はかなりのお喋りで、次から次へと尽きない話しにアークを付き合わせ、またあれこれとうるさい。アークも物静かとは言えないが、それ以上に喋る。リヴィスがアークが一人のときを狙って会話を求めたのは、スイージュが話をするときは常に
上から目線で偉そう
なので、そのあたりをフォローしたいのだろう。
「大陸跨ぐ旅に二つ返事でついてきてくれる人が悪い人なわけないじゃない。あたしを年下扱いするのは当然だし」
「だが、あの見た目では気に障ることも、ないことはないだろう? 哀れだが実年齢がいくつだろうと見た目の印象はどうにもならないからな。あえて威圧していなければあれが数千年を生きている老女だとはとても思えない」
視線を上にやって、元の線路に戻す。リヴィスはこれで、人のことは見ているらしい。アークの中のちょっとした違和感を汲んだのだ。
「気に障る、っていうのとは違うかな」
万事パーティを仕切るのはスイージュである。彼女は神殿の島から出る船の中で、この先尋ねられた際に答える三人の関係の設定を決めた。
スイージュはリヴィスの年の離れた姉の娘。つまり叔父と姪。この旅は、スイージュの父と離婚後、再婚してサメリュメ大陸北部にあるエリフの首都タニャへ移り住んだ母に会いに行く旅。生憎父親は手が離せないためリヴィスが保護者として連れて行く。アークは親戚の一人で、物見遊山でついてきた、という設定だ。
不満はない。旅の間に何気ない世間話で目的地や同行者との関係を聞かれることはよくある。真実を語るわけにもいかないし、いちいちその場しのぎの嘘をつくより、予め設定を決めておいて血縁者同士で旅行をしているのを装ったほうが楽だ。敬語もいらない、決して崇め奉るな、と指示されたのも緊張せず話せていい。
口を挟むところはなかったし、反論もなかった。
アークがスイージュに対して慣れない気持ちを持たずにいられないのは、
「……スイージュって手がね、小さいの」
「手?」
「手」
両手を夕日に翳す。
「母さん六つでいなくなっちゃったし、父さんは病気だけどそれでも仕事はあるから、普段あたしの面倒みてくれてたのって隣のじいちゃんとばあちゃんなんだ。この二人と父さん以外の人に『お世話される』ことってあたしあんまりなくて。
二人も父さんも、手はスイージュよりずっと大きいの。だから……小さなお姉ちゃんの手にいきなり頭を撫でられて、戸惑ってる、かな。
もしかしてスイージュが何か気にしてたりする?」
「正確に何を考えているのかわかるわけではないが、お前が自分に複雑な感情を抱いているとは気づいている」
「そっか、うーん。イヤとか、迷惑とか、そういうのじゃないんじゃないけどな」
「悪いが慣れてくれ。あいつにとって自分がどう見えているかは気にしなくていい」
と、手摺りの外側に向き直った。吹き荒れる風に髪が乱れる。スイージュ同様、絵になる姿だなと思う。《永遠の守護者》には美形しかいないのであろうか。
「なぜあいつがお前の願いを叶えようとしていると思う?」
「いい人だから、じゃないの? 仲間から持ち込まれた話だからって、聖女様があんなに気軽に、何ヵ月もかかるのに自分から来てくれるなんてまだちょっと驚いてるけど」
「いい奴なのは確かだな。具体的には俺の面子を立てるためだ」
指を風で乱れた髪に差し入れる。
「お前の願いを断ったら、俺はどうしようもない。会わせるだけは会わせたからそれじゃあ、ということになる。立場がない」
「図々しいこと言うようだけど、リヴィスは治せないの?」
「魔法使にも得手不得手がある。その道の修練を積んでいるか積んでいないかの違いもある。俺は病や大きな怪我の治療に向いていない。さほど複雑でない怪我なら治せるがあそこまでの酷い損傷を復元するのは……スイージュに任せるべきだと判断した」
「ふぅん」
リヴィスは思い馳せるように目を伏せた。
「俺に頼まれては嫌と言えないのを計算ずくで連れて行ったのを承知のくせに、そのことについては一切文句を言わない奴だ。誤解をされるのは忍びなくてな」
行きずりの怪我人を大切な仲間の元へ連れて行ったり、仲間の印象が悪くならないようフォローしたり、助けたアークに恩を着せようともしないリヴィスも大概だという自覚はなさそうである。
何千年もヒューンを守護してきた《永遠の守護者》であるのだから、『いい人』なのはある意味当然中の当然なのかもしれないけれど。
頬を緩める。
「誤解なんかしてないよ、あたし」
日が傾き、壊れたり歪んだりしている二本のレールを赤く照らす。今乗っている列車が、車輪の列車だったら、一体どんな心地だろうか。
アークが眺めているのが景色ではなく地面であることを見たリヴィスは、
「……線路が好きなのか?」
「線路というより、古いもの。遺跡とかね。在りし日を想像するのが好きなの。レールって並行で、ずぅっと続いていたんでしょ? 今じゃこんなだけど。地平線まで真っ直ぐ続くってどんなだったのかな。そんな列車に乗っていたら、どんな気分だったのかな……って。
リヴィスは見たことある? 乗ったこともある?」
「ああ。ただし、幻想は抱きすぎないほうがいい。車輪の列車は翼列車よりもずっと揺れる」
「揺れるのは苦手だな……」
サメリュメとシミュクシュミズの海峡は船で渡ったが、揺れる足元に絶えず襲ってくる吐き気には辟易した。
柔らかい夢想をくじけさせられて、アークは手摺りにかける体重を増やした。
それでもアークの目には、線路を作る働き手の幻が見えた。