エイダンが境界堂にやってきた
本編完結後の、観測者の登場人物とのコラボ小話です。本編の静かな余韻を大切にしたい方は、ここで読み終えても大丈夫です。
穏世青藍さん、ネタ提供ありがとうございます!
■山裾の怪異
「日本という特異地点に、前々から興味があったのです! 異能者も世界的に見れば多く、怪異による事件も多い! 現地調査のしがいがありますね!」
エイダンは目を輝かせ、手帳を開いた。
「では、以前からお願いしていた通り、本日は依頼に同行させていただきます!」
「うん。危険な場所だから、くれぐれも僕たちの指示に従ってね」
マスターが穏やかに念を押す。
「もちろんです! 怪異との遭遇時には、まず外見、行動特性、意思疎通の可否を確認し、可能であれば生態や伝承上の特徴についても――」
「エイダンさん」
シエルが淡々と口を挟んだ。
「観察は安全を確保してからです」
「承知しております!」
返事だけは立派だった。
依頼現場は、町外れの山裾だった。
登山道そのものに問題はない。道標もあり、道も整備されている。それなのに、ここ数週間、登山客が妙に道に迷うという。
「山中で方向感覚を失わせる怪異、ですか。興味深いですね……! 日本には山にまつわる伝承が数多くありますが、土地に根差した怪異の場合、伝承と実際の行動特性にどの程度の相関が――」
「来ます」
シエルの声が落ちた。
木々の向こうから、何かが現れた。
老婆だった。
全身を覆う無数のかさぶた。異様に長く垂れ下がった乳房を、両肩からたすきのように交差させている。
そして、その乳房が。
びゅんっ、と空気を裂いた。
「うわっ!」
ファニーが身をひねる。直後、乳房が地面を叩き、土と落ち葉が派手に跳ね上がった。
「マスター、右です!」
「分かってるよ!」
マスターが攻撃を避け、シエルが結界を展開する。ファニーは軽やかに間合いを詰めた。
その間、エイダンは一言も発しなかった。
手帳を開いたまま、ペンを構えたまま、ただ立ち尽くしていた。
怪異が乳房を振り回す。
地面が砕ける。
ファニーが飛び退く。
シエルの結界が怪異の動きを封じる。
マスターが決定打を放つ。
怪異の姿が消えた。
「……これで、討伐完了ですね」
シエルが周囲を確認する。
「うん。あとは依頼人に報告すれば終わりかな」
「そうだね!」
ファニーが振り返った。
「エイダン、大丈夫?」
「…………」
返事がない。
「エイダンさん?」
「…………」
「エイダン?」
「……はっ!」
ようやく意識が戻ったらしい。エイダンは勢いよく顔を上げた。
「あ、あれは何ですか!?」
「テッチと呼ばれる妖怪に似た怪異ですね。討伐したので、これにて依頼完了となり――」
「あれはおっぱいなのですか!?!?」
「……は?」
シエルの声が止まった。
「いえ、違います! おっぱいはあんなふうに伸びたりしないのです! 柔らかく豊満な双丘があるからこそ、人は安心感を覚えるのに! あれは何なのですか!? 攻撃の一つの手段なんて、そんな、そんな使い方が許されるのですか!? そもそも、あの形状を維持したまま、あれほどの速度と膂力を発揮するというのは、筋骨格の構造が――」
シエルが片手を上げた。
エイダンの口元に、青白く透き通った小さな結界が展開される。
声が、消えた。
エイダンは口を動かし続けている。
身振り手振りまで交えて、何かを必死に訴えていた。
「マスター。依頼人に完了の報告をしにいきましょう」
「ぶふっ……うん、そうだねぇ」
マスターは口元を押さえ、肩を震わせている。
「ねえ、シエル」
ファニーが、口だけをぱくぱくさせて熱弁を続けるエイダンを眺めた。
「エイダンって、おっぱい星人なんだね」
「……今さら確認する必要がありますか?」
四人は歩き出した。
エイダンは歩きながら、手帳に猛然と何かを書き殴っていた。
■帰り道、商店街にて
山裾での依頼を終えた四人は、境界堂へ向かっていた。
依頼人への報告が終わるまで、エイダンの口元の結界は解かれなかった。
「……ぷはっ! シエルさん、私はまだ話の途中で!」
「報告は終わりました」
「くぅっ……これが異能の効果……!」
「その手帳は、あとで見せてください」
商店街は、いつもより賑やかだった。
魔女の帽子をかぶった子供たち。黒いマントを羽織った学生。カボチャの飾りを店先に並べた八百屋。
「……仮装、ですか?」
エイダンが足を止めた。
「今日は商店街のハロウィンイベントの日だからねぇ」
マスターが答える。
「なるほど。もとは異界のものから身を隠すための装いだったはずですが、いまは祭りを楽しむ文化になっているのですね。地域によって形式が異なるのは興味深い……」
「エイダン、また始まった」
ファニーが笑う。
「まだ何も始めていませんよ!」
「うんうん。そういうことにしておこうねぇ」
そのとき、洋菓子屋のショーウィンドウが目に入った。
カボチャのタルト。黒猫のチョコレートケーキ。紫芋のモンブラン。クリームが主役のロールケーキ。そして、鮮やかな青い目玉が丸ごと乗ったレアチーズケーキ。
ファニーが、ぴたりと立ち止まった。
「マスター!」
「うん?」
「目が合っちゃった! 連れて帰ってって言ってる!」
ショーケースの中の目玉と、ファニーが見つめ合っている。
「えぇ……? ファニー、目玉食べるの……?」
マスターは困惑しながらショーケースを覗き込んだ。
「あ、でもプリンがある。僕はこっちのかぼちゃプリンのパフェにするよ。シエルとエイダンはどうする?」
「では、こちらのタルトで」
シエルは迷いなくカボチャのタルトを指した。
エイダンは、真剣な顔でショーケースを見つめていた。
「……ああ、この丸みが安心できますね……」
「エイダンさん」
「はい?」
「何を思い出しているのですか」
「いえ! 何も!!」
「まだ何も言っていませんが」
「……ロールケーキを、お願いします」
ファニーが、にんまり笑う。
「ねえねえ、エイダン。さっきの怪異と、このロールケーキは何が違うの?」
「全然違います!!」
「どこが?」
「どこがって、それは……!」
エイダンはロールケーキを指さした。
「こちらは、人を安心させるために存在しているのです!」
「ケーキは食べてもらうために存在しているんじゃないかなぁ」
マスターが穏やかに訂正した。
シエルは小さく息を吐く。
「……やはり、彼の調査報告書には俺が目を通す必要がありそうですね」
「えーっ、シエル、エイダンの報告書読むの? おっぱいのことばっかり書いてあるかもしれないよ?」
「だからです」
「ひどい!! 私は真面目な精霊学者ですよ!?」
四人分のスイーツが、店員から手渡された。
ファニーは青い目玉のレアチーズケーキを、実に幸せそうに眺めている。
マスターはかぼちゃプリンのパフェに目を輝かせ、シエルはタルトの箱を丁寧に持ち直した。
そしてエイダンは、ロールケーキの箱を両手で大切そうに抱えていた。
「……日本は、実に興味深い国ですね」
「それ、今日何回目?」
ファニーが笑った。
エイダンは答えなかった。
ただ、ロールケーキの箱を、ほんの少しだけ抱きしめ直した。
「この柔らかな曲線……」
「聞こえてますよ」
「何も言っていません!!」
秋の商店街に、精霊学者の悲痛な声が響いた。
■翌朝
「……ああ、どうして今日帰国しなければいけないのでしょうか!」
エイダンは頭を抱えていた。
「ロンドンから呼ばれてるんだろう? じゃあ帰らなきゃだよねぇ」
マスターがのんびりと答える。
「そうですけれども!」
「帰ってください」
シエルの声は、いつも通り冷ややかだった。
「エイダン、またね〜!」
ファニーはひらひらと手を振っている。
「今回はテッチの怪異に気を取られてしまいましたが、皆さんの異能も研究対象だったのに! ああ、時間が足りない! せめてあと一週間、いえ、一か月あれば……!」
「帰ってください」
「シエル、もう少しだけ猶予をいただけませんか!?」
「ありません」
「マスター!」
「うーん、次の機会があったらねぇ」
「そのお言葉、忘れません!」
エイダンは名残惜しそうに境界堂を振り返りながら、帰国の途についた。
日本での調査は、まだまだ終わっていない。
……なお、帰国後に提出された調査報告書には、テッチの身体構造に関する考察が、予定よりも大幅に多く含まれていたという。




